第20話 グラッパ

 蟹江さんと微妙な会話を交わした翌朝。俺の寝覚めはそんなによろしくなかった。


 俺が藻原さんに突きつけた一週間という期日。それは勤務日換算なら来週の月曜までってことになる。ただ、期日設定した俺が言うのも変な話なんだけど、どうにも一週間のデッドリミットってのが気になってしまうんだよね。

 俺は藻原さんに危機感を持たせるために、架空の話をでっち上げて一週間の期限を切った。でも、上げ潮に乗ってる彼女の目の前で時間切れアウトを宣告する意味なんか何もない。あれは、仕事にちゃんと向き合わせるためのブースターに過ぎないんだ。それなのに。どうしても、俺の脳裏から『一週間』というデッドリミットが離れてくれない。


「うー」


 まあ、いい。とりあえず、今日の仕事をこなそう。週前半のトラブルやアクシデントはもうリカバー出来てる。俺の受け持ちの客先にはほとんど挨拶回りを済ませたから、外回りは午前中だけにして、午後は製品説明の練習に当てよう。少しずつでいい。『居るだけ』の存在から脱して、ちゃんと戦力になってもらわないとならないからね。


◇ ◇ ◇


 午前の部、終了。トラブルはなし、と。


「ふむ」


 相変わらず言葉遣いにはぽろぽろミスが出る。でも、明らかに頻度が減った。一々手帳に目を落とさなくても、かなりしっかりと話せるようになってきた。昨日のたこ親父が異常なんであって、ほとんどのお客さんはマナーの細かいところよりも商談の中身を重視してくれる。いかにお客さんのニーズと狙いを汲んで、それに応じた魅力的なプランを提示出来るかの方がはるかに重要なんだ。それが分かれば、必要以上にびくびくしなくても済む。


 きっと、彼女が手帳に書き取っていることの中身も変化しているだろう。最初は、全部書かなければならなかった。そこを堤防にしておかないと何もこなせなかったんだ。でも、今は違う。俺とお客さんとのやり取りを聞いて、その事実だけじゃなく自分なら何を盛り込めるかというアイデアを書き加えられるようになってるはずだ。そして藻原さんは、書きっぱなしにするんじゃなく、それをちゃんと読み直して要点を整理してる。蟹江さんが言ってたみたいに、本当に頭がいいんだよね。


 最初のトンデモ状態と比べれば、それはもう激変と言っていい。でも、それで彼女の評価が好転してるかと言うと……そうでもない。昨日蟹江さんに言った通りさ。相変わらず、感情がちっとも見えないんだ。一緒にいる時間が長い俺には、ちらっと彼女の感情のかけらが見えるようになったけど、それは彼女が感情を出すようになったからじゃない。俺のアンテナの感度が上がったからだ。俺にだけそいつが見えても意味ないんだよ。同僚やお客さんにちゃんと見えるようにしないとさ。そこがなあ。


 移動の電車の中。手帳に熱心にメモを書き込んでいる彼女の横で、俺も手帳を開いて、ぐりぐりと要改善項目を書き連ねた。


『笑顔が全然足りない。ぎごちない』

『雑談がうまく振れない。お客さんのツッコミを切り返したり、かわしたり出来ない。詰まって、黙ってしまう』

『感情表現に絡む言葉が口から出てこない。ものすごく会話が冷たく感じる』


 保険のおばちゃんやスーパーのマネキンさんみたいに、親近感を全面に出して武器にするわけじゃないけどさ。ロボット相手に商談したいっていうお客さんはいないと思う。そこがまだでっかいハンデのままなんだ。どうしたもんかなあ。タメ口を塞ぐには蓋をすればいい。でも、出てこないものを引っ張り出すには、別の切り口やきっかけがいるだろうなあ。


 そこまで考えていて。ふと苦笑が漏れてしまった。


「僕も人のことなんか言えないか」

「え?」


 手帳からぱっと目を離した藻原さんが、きょろっと俺の顔を見る。


「なに? な……んですか?」

「いや、独り言」


◇ ◇ ◇


 午後。大きな商談をまとめて上機嫌だった大先輩の恵比寿さんに講師役をお願いして、商品説明、お客さんとのやり取りを実演してもらう。まだぺーぺーの域から出られない俺のどたばたセールストークと違って、恵比寿さんのトークはスマートで無駄がない。俺が客役をやって、かなり無茶なオーダーをかましてみたり意地悪な質問をしてみたりしたけど、見事に丸め込まれてしまう。そのテクに、藻原さんは口をあんぐり。愉快そうに彼女のびっくり顔を眺めていた恵比寿さんが、丁寧に説明してくれる。


「ははは。俺くらいのレベルになるには相当経験が要るよ。そしてな、トークがうまく出来ても、商談をまとめるには他の要素も絡む。銭金の世界だからね。そうそううまくは行かないさ」


 どすんと椅子に腰を下ろした恵比寿さんは、必死にペンを走らせる藻原さんを見て、目を細めた。


「営業ってのは騙し合いじゃない。向こうが求める条件。こっちが出せる条件。それをどこに着地させるか探す共同作業だよ。だから、向こうにバリアを張られてしまったらもうアウトさ。それを防ぐには、こっちが最初にウエルカムを演出しないとだめなんだ。藻原さんも、ちぃと肩の力を抜いて笑いな。笑顔のない営業は嫌われる。それはどんな分野の営業でもそうだ」


 やりいっ! それそれ、それなんだよ! 恵比寿さん、ナイスーっ! 助かりますーっ!


「う……はい」

「まあ、そこらへんは、まず中で練習せ」


 恵比寿さんは、その名の通りのえびす顔を見せながら、部長への成果報告に出かけていった。その一方で、完全にしょげちゃったのは藻原さん。言葉遣いと違って、そういうのはどうしたら改善出来るのか、よく分からないんだろう。


「あの……魚地さん」

「うん?」

「笑わないと……だめなの? ……ですか?」

「だめ」


 俺は、練習用のテキストを机の上にぽんと放ってぶんぶんと首を振る。


「謝るってことが、お客さんとのトラブルを回避する上で特効薬だとしたら」

「う……はい」

「笑顔は、商談をまとめるための入り口。そこから始まる。言葉なんか要らないもん。一番ローコスト」

「あ……」

「でしょ?」

「そうか」


 きっと。楽しければ彼女も笑える。でも、楽しくもないのに笑顔なんか出せない。笑顔になることよりも、表情を作るってことにものすごく抵抗を感じるんだろう。てか、笑顔見せるのが嫌でなくても、事実としてうまく笑えないんだろうな。


 まだ厳重に施錠され、固く閉ざされたままの感情の倉庫。今、彼女から漏れてくる感情は、鍵穴からわずかに垂れて落ちるものだけだ。それじゃ全然足りない。そして倉庫を解錠するための鍵がどんなものか、俺にはまるっきり分からないんだ。

 ふう。じっとしていても鍵は見つからない。それなら、もう少し踏み込んで接点を大きくしておくしかない。オフに、誘うか。


「まあ、仕事上がってからメシでも食おうや。四六時中仕事のことばっか考えてたら頭がはげるよ。めりはりが要るでしょ」


 俺の誘いに、それまでどよってた彼女の表情がぱっと明るくなった。


「うんっ! あ……」

「ははは。いいよ。たまには」


 俺は席を立つと、浮かない顔だった河岸に声をかけた。


「よう、河岸。夜、一緒に飯食おうぜ」

「どこで?」

「俺の行きつけ。イタリアン」

「お、いいな。安い?」

「ミニコースで3000円切る。酒やソフドリ入れてもそのくらいで済むだろ。あ、羽田さんもどうです?」


 クソ忙しいのに何言ってんのよってぶっちされるかと思ったけど、羽田さんは即オーケーを出した。


「いいねー。行くわ。四人ね」

「うす」


 さっきはものすごく嬉しそうだった藻原さんは、今度はぷんぷくりんにむくれた。なんじゃい、その反応は?


◇ ◇ ◇


 引けてすぐにイルマーレに行ったんだけど、ものすごく混み合っててだいぶ待たされた。土曜だからなあ。カップルよりも団体客が多かったのはラッキーだったけどね。ラブラブカップルばっかのところでは、仕事の話がしにくいから。


 四人ともミニコースにして、飯を食いながら最初はどうでもいい雑談をしてた。でも、コースの後半に入った頃にやっぱり仕事の話になった。そして羽田さんが、藻原さんではなく、河岸をいきなりどやした。


「ねえ、河岸くん」

「うい?」

「危機感持ってね」

「えー、どしてすか?」

「部長に睨まれてるよ」


 それまでへらへらと俺たちを茶化していた河岸の顔色が、一気に悪くなった。だって、それは羽田さんがいつも課室でやってるみたいな力任せのどやしじゃない。冷徹に事実を突きつけた、恐ろしく強烈なピンポイント爆弾だったから。


「課長の件で部長に文句言いに行った時にさ。課の中ででこぼこあるのはしょうがないけど、個人査定をしないわけじゃないからなって釘刺されたの」


 河岸、ガマの油状態。たらーりたらーり。


「あの……羽田さん、それって俺名指し?」

「まーさーかー。そんなことないよ。でも、みんなはちゃんと見てるからね」


 何かを宣告するように淡々と話す羽田さん。感情の抑揚がない分、かえってそら恐ろしさが増幅されていた。藻原さんの話し方が相手に与える印象も、そうなんだよなあ。


「藻原さんみたいに、まだ入ったばかりの新人のうちは目標未達が当たり前よ。でも、河岸くんは魚地くんと同じで、もう三年以上経ってるよね? さすがに、そろそろ水揚げ増やさないとさ」


 じわり。じわり。じわり。強烈なプレッシャーが河岸を襲ってる。あいつには、羽田さんの柔らかい笑顔が、悪魔の微笑みに見えてるだろうな。


「うう……俺、用事を思い出したんで、すんません。お先に失礼します」


 千円札を三枚、テーブルの上に置いて。よろよろと河岸が退場した。


 あいつが店内から姿を消した途端。


「けっ! まあた逃げやがったか」


 そう吐き捨てて、羽田さんの態度が元に戻った。藻原さんが、その落差に付いていけなくておろおろしてる。


「あ、あの。大丈夫な……んですか?」

「さあねえ」


 ぎろっ! 藻原さんにきつい視線をぶつけて、羽田さんがいきなり説教を始めた。


「あのね、藻原さん。あなたの評価は最低最悪から始まったの。親のコネしか売りがない、挨拶もまともに出来ないタメ口だらけの最悪女。どこでもお払い箱になってる厄介者を、超忙しい営業に押し付けやがって!」


 さっきの河岸と同じくらい、藻原さんがざあっと青ざめた。


「でも今うちの部屋で、あなたに面と向かってそんな風に言う人、いる?」

「あ……」

「でしょ? あなたはちゃんと努力してる。魚地くんのどやしをスルーしないで必死に守って、だいぶマシになった。恵比寿さんもほめてたよ。よくがんばってるって」


 くしゃっと藻原さんの顔が歪んで、ぽろぽろと涙を落とし始めた。笑顔じゃなく、涙……かあ。重症だなあ。


「そんな風にね。ちゃんと自分をマシにしようという姿が見えれば、評価は上がるの。それが必ずしも業績連動じゃなくてもいい」

「は……い」

「最初のうちは、ね」

「あ、そうか」

「でしょ?」

「は……い」

「でもね」


 ちん。持っていたフォークでお皿の縁を軽く叩いた羽田さんが、はあっとでかい溜息をついた。


「ここでいいやって足を止めると、ずるずる評価が下がる。それも、恐ろしいスピードでね」

「う……」

「もちろん、人の間にでこぼこがあるように、私たち一人一人にも体調や気分で日によってでこぼこがある。それはしょうがない。しょうがないけどさ」


 河岸の席を睨みつけていた羽田さんが、びしっと言い放った。


「やっぱり、すぐ逃げるのはまずいよ」


 勝ち目のない相手に挑むのは無茶だけど、勝ち目がないかどうかはやってみないと分からない。俺が、出来ないって最初から言いたくないのと同じだ。逃げてばかりじゃ、ゲット出来るものは何もないよね。


 河岸が悪いやつ、しょうもないやつってことはない。だから俺は、あいつのフォローなんか絶対しないとは言わないよ。でも、あの逃げ癖だけはなんとかして欲しい。結局誰かがその後始末をしないとならないんだから。それは、自分の評価を下げるだけじゃ済まないんだよ。最悪、みんなの恨みを買っちまう。なんだかなあ。


「ねえ、羽田さん。河岸のもそうだけど、キナ臭いですね。何かあるんですか?」

「人事でしょ?」

「そうです」

「私はヒラだもん。深いところは分かんないよ。でも」

「ええ」

「細貝課長が居た時から、指揮系がほとんど機能してない。うちのメンバーがみんなちゃんと仕事してるから目立たないだけでさ。それじゃまずいでしょ」

「課長の後任決めるだけじゃ、済まないってことですか」

「まあね。大規模な人事異動は来年だろうけど、うちの管理職は前倒しで動かすと思うな。大動脈だからね」


 そこに誰が来るかで、今の雰囲気も変わるんだろうなあ。変な話、いい加減だった細貝課長の時は、羽田さんは頭に来てたと思うけどやりやすかったと思う。細貝課長は、みんなで適当にやってっていうタイプだったから。主任はお飾りだし。でも、やり手の課長が来たら羽田さんとぶつかるかもしれないなあ。


 俺が目をつぶってじっと考え込んでいた、そのちょっとの間に。とんでもないことが起きた。


 がたあん!


 羽田さんの座っていた椅子が、突然ぐらっと斜めになったかと思うと、羽田さんごと真横に倒れた。羽田さんが持っていた小さなグラスが床に飛んで、ぱんと音を立てて割れた。


「えっ! ちょっ!」


 藻原さんと俺とで、介抱しようとして慌てて駆け寄る。


「げ……」


 白目ぐるりん。で、真っ赤っか。まさに茹で上がってる。


「も、もしかして」


 床に散ったグラスの破片を拾い上げて匂いを嗅ぐ。思わず河岸を全力で呪った。


「あいつ、グラッパなんか頼んであったのかっ!」

「そ、それって?」

「度の高いスピリッツ!」

「うわ……」


 すっ飛んできたお店の人に事情を話して、コースを切り上げさせてもらう。とほほ。まだメインまで行ってないのに。いや、そんなことを言ってる場合じゃない。


 俺が羽田さんを背中に担いで、なんとか店の外に連れ出したまではよかったけど。


「羽田さんちって、どこ?」

「う……」


 羽田さんが手荷物を持って店に来ていたら、バッグの中とかを藻原さんにあさってもらって住所を探せた。でも、羽田さんは会食のあと社に戻るつもりだったんだろう。ほとんど何も持ってない。パスケースの中は会社のカードキーとクレジットカードだけ。持ってた小さなポーチの中を藻原さんに見てもらったけど、エチケットグッズだけしか入っていなかった。


「ど……どうしよう?」


 完全に潰れてる羽田さんを介抱しないとならないから、ビジネスホテルに放り込むのは無理。俺の部屋に泊めるのは論外。藻原さん、つまり専務の家に泊めてもらうのが一番無難なんだけど、それは藻原さんが全力で拒否するだろう。親父さんとうまく行ってないみたいだから。


「ん?」


 ふと。変だなと思った。そうなんだよ。俺は、羽田さんの友達ってのを聞いたことがない。社内でも、それ以外でもね。羽田さんの口から出てくる話は、ほぼ百パーセント仕事のこと。それ以外のプライベートなことは、趣味や恋愛関係含めてまるっきり聞こえてこなかった。だからこういう事態になっちゃった時には、羽田さんの私生活から探れるヒントが何もないんだ。


「しょうがない」

「どうするの……んですか?」

「どっかビジネス系ホテルのツイン取って、藻原さんに面倒見てもらうのが一番なんだけど」

「何かあった時に、わたしじゃ……」

「だよなあ。じゃあ、ホテル系はだめ。俺のアパートは論外。藻原さんの家は?」


 顔を強張らせた藻原さんが、顔を横に振った。絶対にいやなんだろう。


「そっか。藻原さんの家もダメなら、変な関係を疑われないで済むところに連れてくしかない。金かかるけど、しゃあないか」

「それって……どこ……ですか?」

「僕の実家」

「あ!」

「でさ。悪いんだけど、一緒に来てくれないか?」

「う……」

「僕一人で羽田さん連れてくと、その先がどこでも結局同じことになっちゃう」

「そう……よ……ですよね」

「申し訳ないけど。君の家に、羽田さんの介抱で一緒に行くって連絡しといてくれる?」


 藻原さん的には、お父さんへのアクセスは極力したくないんだろう。それでも事情が事情だ。藻原さんは、渋々事情説明のメールを流してくれた。俺の実家の住所と電話番号を文面に入れてもらったから、専務が余計な詮索をすることはないだろう。


「悪い。助かる」

「遠いの……んですか?」

「タクシーでここから一時間弱かな。海の側なんだ」

「へえー」

「明日の朝は電車で戻れるけど、羽田さんがこの状態だと、タクシー使うしかないから」

「うん」


 俺も、社の同僚が酒で急に具合悪くなったからそっちで介抱したいと実家に電話を入れた。社やアパートからものすごく遠いってわけじゃないんだけど、一度家から離れちゃうとなかなか実家に顔出せないね。帰省は久しぶりだ。はあ……。






(グラッパは、ワイン醸造で生じるブドウの搾りかすを発酵させ、アルコール分を蒸留で取り出したイタリアのスピリッツ。樽詰め醸成させない無色透明なものが多い)


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