第15話 ラザーニャ

 専務は半ば目をつぶった状態で、何かに耐えるかのようにじっと立ち尽くしていた。それからゆっくりと顔を上げ、ふっと吐息を漏らした。


「そうだな。今は、君だけが娘のことをまじめに考えてくれてる。それに、君の指摘は一々ごもっともだ」


 専務は冷静だった。


「私は、テクノスが本社から分離する前からここで働いてるノンキャリの叩き上げさ。だから、専務という名は付いていてもこれ以上先はないよ。あと、せいぜい一年がとこだ。その間に、娘の将来に道を付けておかなければならない」


 やっぱりか。でも、それならどうして専務自身が娘をきちんと躾けないんだろう? そこが、どうしても引っかかるんだ。


 俺が考え込んだのを見て、専務がこそっと小声で俺を呼んだ。


「込み入った話をしたい。私の部屋に来てくれるか?」

「あ、はい」


 専務は俺に背を向けると、まるで逃げ出すかのように廊下を足早に歩き出した。俺は、慌ててその後を追った。


◇ ◇ ◇


 社の重役の部屋に入るっていうのは、異様に緊張しちゃうなあ。実際、俺だけじゃなく、平社員は役付きの人に会う機会なんかほとんどないもの。社員数人の小さな会社っていうわけじゃないからね。びくびくしながら専務の個室に入ったら。あれ? なんか想像してたのと違うな。もっとごっつい、重厚な雰囲気を予想してたんだけど、ものすごーく素っ気ない。なんつーか、普通の事務室だ。


 俺がぽかーんとしてたのが面白かったんだろう。くすりと笑った専務が、応接椅子への着席を促した。


「まあ、座ってくれ」

「はい」


 俺が席に着くやいなや、専務が話を切り出し始めた。


「なあ」

「はい?」

「今は勤務時間中だ。外回りと内業との明確な仕切りがない君らならともかく、私がこの時間にぽつんとここにいること。それがおかしいと思わないか?」


 あっ! 俺は慌てて部屋を見回す。


「そうさ。私はもう干されてるんだよ。肩書きは専務だが、名誉職みたいなものでね。社の運営にはタッチ出来ない。君らが言う窓際だ」


 それは……コメントのしようがないよ。困惑顔の俺に配慮してくれたんだろう。専務がさっと話を進めた。


「もちろん、私が望んでそうなったわけではない。長くこの社で働かせてもらって、精一杯その恩に報いようとしてきたつもりだ。でも」

「もしかして、お嬢さん……ですか?」

「そうだ」


 一番懸念していたことが、当たっていた。俺は頭を抱えてしまった。専務は使える言葉を探し出すようにして、途切れ途切れに言葉を絞り出した。


「会社っていうのは、人の集まりだ。母集団が大きいほど、中の一人は小さくなる。自分が小さな歯車でしかないと無力を感じてしまうかもしれないが、それが嫌なら母集団の小さなところに帰属すればいい。逆に言えば、難があっても母集団が大きければ薄まる」

「それで、お嬢さんを?」

「そう。引き受ける側も、ちょっと変わった子が入ってきたくらいで受容してくれるかと思ってね」


 今度は、俺がでかい溜息を吐き散らかしながら、首を振った。


「それは無理ですよ」

「ああ、私の見込みがちょっと甘過ぎた」


 ちょっとじゃないよ。どうしようもなく甘い。甘いだけじゃなくて、それがマイナスに大きく振れちまってる。どうにも分からないのは、ほとんど付き合いのなかった俺らにすらすぐ分かる彼女の致命的な欠点を、なぜ実の親がもっと深刻に捉えてこれまで修正させなかったかってこと。


「申し訳ありません。結果は最初から分かっていたように思うんです。それなのに専務が娘さんの入社を無理強いしたことが、事態をものすごーく悪化させているような」

「まあな。自業自得だ」


 疲れ果てたように、専務がどんと足を投げ出した。


「君に言ってももう意味がないかもしれないが、私の残り任期が計算出来なくなっている以上、誰かに事情を伝えておきたい。もちろん、君がそれを聞いたところでどうしようもないとは思う。それでも……な」


 全ての言葉を一度口の中に封じ込めた専務は。それを噛み砕くようにして、少しずつ話し始めた。


◇ ◇ ◇


「私には妻がいない。娘の小菜と二人暮らしだ」

「ええ。存じてます」

「だが、実際はそうじゃない」

「えっ!?」


 どっかに別の所帯があったとか? そんな感じじゃないけどな。


「うちは……藻原家は、元々は五人家族だったんだよ」

「あの、どういうことでしょう?」


 観念したように、専務の口からとんでもない言葉が転がり出た。


「私は若い頃はだらしない男でね。家庭があるのに、外で女を囲ってた」

「不倫……ですか?」

「そうだ。それが家内にバレてね。家内は、息子二人を連れて家を出ていったんだよ」

「ちょ! なんで、娘さんを残したんですか!?」

「それは死んだ家内に聞いてくれ。だが……」

「ええ」

「娘は小さい頃から感情表現が下手だった。家内は娘の扱いにずっと手こずってたんだ。たぶん、家のことは全部家内に丸投げしていた私に、当てつけたんだろう」


 ひでえ……。専務も、奥さんも。家ががたがただったんか。聞いていいものかどうか迷ったけど、突っ込む。


「専務。奥様は亡くなられたんですよね?」

「ああ」

「亡くなられた時、息子さんたちはもう成人されてたんですか?」


 人格が崩壊するというのは、こういうのを言うんだろう。それまで精一杯人生の先輩として振舞っていた専務の心棒が、突然ぼきりと音を立てて折れた。


「いや」


 やっと形になるくらい、震えの混じった小声で。俺の目の前に、恐ろしい過去が紡ぎ出された。


「家内は……息子二人を連れて車で家を出た。その日のうちに車ごと海に……落ちたんだよ」

「……!!」


 もう。なんと言っていいのか分からない。


「無理心中してしまったんだ」


 それだけでも充分衝撃的だった。でも、話はそれでは終わらなかった。


「家内が息子だけを連れて行ったもう一つの理由。それは、私が出来のいい息子を溺愛していたからだ」

「あ……」

「自分の妻を愛さずに、息子にだけ期待と愛情を注ぐ。それは……家内にとってはどうしても許すことが出来ない裏切りだったんだろう。そして、私は気難しくて懐かない小菜は嫌いだった。かまってやった記憶がない」

「そんな!」

「両親から相手にされない小菜の感情が縮むのなんか、当たり前だったな」


 それは自虐ではなく、懺悔なんだろう。でも、俺がどんなにそう思い込もうとしても、専務のしでかしたことはとても許せそうになかった。他人の俺が嫌悪を感じるんだから、ましてや実の娘である彼女は……。


 そうか。それでか。これまで彼女が示していた言動や態度の不自然さが、次々に一つのコアに収斂しゅうれんしていく。


 極度の人間不信。なにもかも全否定して、そこが起点になる。全てを自分以下の存在とみなして、そこからコミュニケーションを始めようとするからタメ口になるんだ。当たり前だけど、そういう彼女の不遜ふそんな態度は向き合ってる人にダイレクトにぶち当たってしまう。目上の人からそういう態度を示されるならしょうがないけどさ。逆やん。


 新入りのくせに、このクソ生意気な女が! ……そうなっちまうよなあ。


 彼女にとっては、その歪んだコミュニケーションツールが、自分を大切に扱ってくれる人を探し当てるためのフィルターになってる。フィルターで接点をうんと小さくして、普段はそれで自分を守り、フィルターを通り抜けてくれる人を辛抱強く待ってるんだ。でもさ、そのフィルターを通り抜けられる人は、この世にはいないよ。絶対にいない。


 そして自分のやり方がおかしいってことは、彼女自身がもうとっくの昔に分かってるんだ。だから、自分を現実に合わせようとする努力を放棄してるってことじゃない。それは、今俺と一緒に行動している時の彼女の姿勢から分かる。

 矯正のきっかけが極めて歪んでいたにせよ、俺や羽田さんのレクチャーにはちゃんと前向きに取り組んでる。俺らの指導を無視するってことじゃないんだ。でも、専務の存在を意識した途端に、意識が原点まで巻き戻ってしまう。


 それが『蓋』。


 自分に全く関心を示さず、愛情を注ぐこともなく、ずっと放置したままだった人でなしが、妻と息子を失った途端に手のひらを返したように自分の機嫌を取るようになる。学生の間は、その嫌悪感の中でがんじがらめだったんだろう。でも、それが元で歪んでしまった性格を自力で修正出来ないうちに、社会人になってしまった。絶対に頼りたくなかった父親のコネに、どうしても頼らざるを得なくなったんだ。

 専務も強い罪悪感にさいなまされて、娘に頭ごなしの強制的な命令が出来なくなってしまった。嫌というほど娘の性格の歪みを認識していながら、どうしても踏み込めない。サポートしか出来ない。


「はあああっ」


 俺のこぼした溜息は、専務のそれの数千倍、数万倍深かったと思う。


「あの、専務」

「うん」

「いろいろ事情はあったにせよ。やっぱり、この社に娘さんを入れるべきじゃなかったと思います。なじめないから辞める。それなら何も問題なかった。今でも僕らみたいな若造はどんどん職を替えていくから、娘さんもそう見てもらえたでしょう」

「ああ」

「でも専務っていう紐が付いたことで、いろんなところにハネちゃった。専務が今の状態になっているということ。それ自体が……」

「その通りだな」


 でも、これ以上何を言っても仕方ないね。


 出来損ないのラザーニャ。積み重ねられた食材は、どれも焼き過ぎで乾いちゃって、かっちかち。とても口になんか出来たもんじゃない。でも、その皿をなんとかかんとかやっつけないと、次の皿が来ない。いつまでも……来ない。


 だから俺が考えなければならないのは、これまでじゃなくてこれからなんだ。


「あの、専務。もう一つうかがいたいんですが」

「なんだい?」

「専務は、娘さんの問題点を僕らよりずっと前から、しかも正確に認識されておられますよね? 今のままではどんな仕事もこなせないっていうのは、もうお分かりになっていたはず」

「ああ、そうだ」

「それなのに、無理を承知でなぜ強引に娘さんを入社させたのかが、どうしても腑に落ちないんです」


 専務が弱々しく笑った。


「は……はは。そうさ。私が娘に言い含めたのは、仕事をまじめにしろ、じゃない」

「え?」


 頭の中が真っ白になった。どゆこと?


「旦那を見つけてこい、だ」


 あっ!!


「集団の中に居場所がない。それなら、家庭に入るしかないじゃないか」

「そ……んな」

「娘は、死んだ家内に似て容姿にだけは恵まれている。それしか売りはないんだよ」


 なんだかなあ。俺は正直呆れ果ててしまった。もちろん、専務のレコメンドが親心から出ているのは分かるよ。でも、その方法と方向が思い切りずれてるってことに気付いてない。いや、気付いているのに修正出来ない。彼女の恐ろしく不器用なところ。間違いなく専務の血だよなあ。

 態度はオトナだけどさ。専務の思考や行動は、若造の俺から見ても底が浅いんだ。専務が若い頃やんちゃだったっていう黒田さんの昔話。あれは、まだ『昔』になってないね。肝心なところで緻密さや細やかな配慮を欠くこと。それが専務の致命的な欠点になってるんじゃないかな。干されてる原因は、娘さんのことだけが原因じゃないかもね。でも。ぺーぺーの俺にそんな偉そうなことが言えるわけないじゃん。


「分かりました。でもね、専務」

「うん?」

「人間は、そんなに単純に出来てないですよ。感情が見えない上に、言葉遣いが乱暴で距離感を計りにくい人は、それがどんなにかわいい子でも敬遠されます。それより」

「うん?」

「容姿だけでいいやってオトコは、娘さんを食い物にしますよ? それでいいんですか?」

「う……うむ」


 専務の中では、娘を世話することへの負担感が大きいんだろうな。罪悪感があるから見放してはいないけど、本当のところはもう知らんと突き放したい。その板挟みで、感情や行動の不統一感がどんどんひどくなってる。だから、つい手が出てしまったんじゃないかな。


 ふう……。


「とりあえず、仕事のレクチャーは継続します。彼女にやる気がないなら別ですけど、自分をなんとかしたいって思ってるならまずそこからじゃないですか」

「ああ、助かる。君には迷惑をかけてしまうな」

「しょうがないです。でも娘さんのことよりも、うちの課の現状をもっと見てください。出来るだけ早く課長の後任を決めて欲しいです」

「ああ」

「役のない羽田さんにすごい負担がかかっちゃってるのは、どう見てもまずいです。僕らはやる気はありますよ。みんなばりばり仕事してます。それを無駄にしたくないです」


 人事にタッチできない専務に言ってもしょうがないことだと思う。でも俺は、社のことそっちのけで娘を振り回し、自分も振り回されてる専務に、きちんと現実を見て欲しかった。俺が彼女に手を貸すなら、まずそっちが先なんだよ!


 でも。とても残念なことだけど、専務の口からはもう何も出てこなかった。俺はゆっくり席を立って、一礼した。


「すみません、専務。仕事があるので、僕はこれで失礼します」

「ああ」




(ラザーニャは、平打ちパスタに他の具材やソースを合わせてオーブンで焼き上げた料理)

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