第43話

 また、激震が室内を襲った。けたたましい破壊音が鳴り響き、どうやら禍は真っ当に扉を通る気がないらしく――そもそもキュルよりも頭二つ分ほど大きい身体には窮屈な扉だろうが――、扉というよりも横の壁を体当たりで打ち壊したようだった。

 扉がひしゃげて外れ、無残にもただの板切れとなって床に転がる。そのおかげか今度は入り口が塞がることはないようだったが、やはり天井が崩れ、怪物の頭に降り注いでいた。

「ルォオオオオオオオッ!」

 音声で内蔵を破壊しようとするような、重低音のすさまじい咆哮が上がる。三人は共に慌てて耳を塞ぐことで、辛うじてそれに耐えた。

 しかしそうしながら――ジンはふと疑問を抱く。

 禍は明らかに自分たちの命を狙っているし、攻撃の際になんらの躊躇も抱いていない。それはもちろん恐ろしく、また絶望的な事実ではあるのだが、

(だったらなんで、いちいち雄叫びを上げて立ち止まるんだ?)

 今も、禍は降り注ぐ瓦礫の下で声を上げていた。思えばここに現れた時もそうだった。

 威嚇する必要はないはずだった。あれだけ攻撃を仕掛けてきたのだから、わざわざ壁を壊した後で威嚇するなど意味がない。竦み上がっているのは明白なのだ。

 だとしたら――

(あれは威嚇じゃなくて……痛がってるだけなんじゃないか?)

 痛みという感覚があるかどうかは別としても、そもそも壁に激突したらそれなりのダメージが返ってくるはずだった。これは行った者の意思など関係ない。破壊できたことによって多少は減じられるだろうが、木を殴れば手が痛くなるのと同じである。

 まして怪物は、頭上から石の雨を浴びているのだ。これで痛がらない方がおかしい。

「……おい、キュル! ちょっと耳貸せ!」

 はたと閃き、ジンは急いで隣に立つロバ獣人の耳を引っ張り寄せた。ぎゃあと彼が悲鳴を上げたのも聞かず、それよりも早口に言う。

「お前ら、ふたりで右の部屋に行け! この怪物は俺が引きつける」

「引きつけるって……あんた、何するつもりよ!?」

「なんでおいら、耳を引っ張られたんすかあ」

 キュルが耳をさすりながら抗議の声を上げるが、それは無視する。それよりも何かを察したらしいミネットに一度だけ視線を向けてから、改めて禍の方に視線を戻す。

 怪物はようやく咆哮を止め、土煙を払い除けようとしていた。

 入り口から、四隅の一角までの距離。怪物が走ればほんの数歩分に過ぎないだろうが――その距離がまだ健在なうちに、続ける。

「あいつは怪物だが、壁に当たりゃ動きが止まるくらいには痛がってんだ。つまり、もっとでかい塊が頭に当たりゃ、あいつだってタダじゃ済まねえってことだ!」

「もっとでかい塊って言ったって……」

 キュルはよく理解できていないようだった。

 しかしもはや時間はなく、ジンは「あとはミネットに聞け!」と言って、自分はキュルのリュックから折れた灰色の斧を抜き取るとふたりから離れ、別の壁際に立った。

「こっちだ、キモ怪物! 俺が一番食いやすいぞ!」

 注意を引くように大声を上げる。それは思いのほか有効だったらしい。薄れた土煙の中で、血を滴らせるような赤い瞳が、キュルたちの方から自分へと向くのがわかった。

 自分とは比較にならないほどの巨体。のみならず、ただでさえ並大抵の獣人に劣る人間の身体能力で、それと対峙することは恐怖以外のなにものでもなかった。

 しかしそれでも意志だけは強く持ち、禍に向かって叫ぶ。足が震えていようとも、だ。

「かかってこいよ、図体と声がでかいだけの汚物野郎! こっちは三人掛かりじゃてめえに勝ち目がねえだろうからって、わざわざひとりになってやったんだ! それともなんだ、壁に体当たりするしか能がねえってのか? 実際、今まで一発も当たってねえもんなあ!」

 涙声にならないのは幸いだったというべきか。もっとも、そもそも怪物に人間の言葉が通じるかどうかは疑問だったが――禍は、ぎろりと視線を強くした気がした。

 それを見て、ジンは巨大な敵に向けて挑発二割、恐怖によるヤケクソが八割ほどの心中で、灰色の斧を投げ付けてやった。

 刃の部分だけが残ったそれは、くるくると回転しながら、弧を描いて禍の額に迫り……

 がんっと、屈強な禍の腕がそれを払い除けた。同時に怪物は挑発を受け取ったらしく、吼え猛るような大口を開けながら、ジンに向かって走り始めた。

 さらにそれと同時に、実際に叫んだのはジンだ。

「今だ! さっさと行け!」

 入れ違うように――獣人の部下たちが、怪物のいなくなった部屋の出口へと駆ける。

 とはいえジンはそちらに視線を向けている余裕などなかった。だくだくと溢れる冷や汗の中で、眼前に迫り来る死の恐怖に抗う。そのために全ての神経を、強靭な爪を立てて引き裂こうとしている禍へと集中させる必要があった。

 極限状態が見せる幻覚めいた遅緩映像として、一歩二歩と走る敵の姿が見え、残る距離も同じ歩数ほどになっていく。

 もっとも注視するだけではいけなかった。目に見て、即座に判断し、その通りに身体を動かすための集中も必要なのだろうと思える。ただし少なくともジンは今まで、意図的にそうした集中をした経験などなかったのだが、

「なるようになれってんだー!」

 結局、何がどうという反応ができたわけでもない。ただ怪物の腕が届きそうな距離まで近付かれた時、腕が振り下ろされる気配を感じた気がしたという、ほとんど勘や妄想によって、ヤケクソに叫びながら前へ向かって飛んだのだ。

 しかし幸運にもそれは間違っていなかったらしい。ごろごろと転がる背後で、すさまじい突風のようなものを感じた。どうやら丁度よく、腕が振り回されるところだったようだ。

 ジンはそれを見て、勝ち誇る顔を引きつらせた。

 緊張と興奮に、破裂しそうなほど動悸が激しくさせて、

「へ、へへ……どうだ! 俺だって意外と」

 それを最後まで言えなかったのは――

 禍がすぐさま振り返りざまの一撃を放ってきたためだった。ひゅごおっと、いつかの突風のような轟音が鳴り響いたかと思うと、ジンの身体は空中を舞っていたのである。

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