峻別の王Ⅲ

「む、どこへ行くつもりだ?」

 中庭を抜け、ずっと見ているばかりだった廊下三本のうちの一本を進み始めたところで呼び止められた。竜也は思わず背筋を伸ばして固まった。竜也より背の高い二人の陰で見えないが、声の主はわかっている。今日、ここに残っているのはもう一人しかいない。

「いえ、少し竜也をお借りしようと思いまして」

 及び腰でイグニスが答えた。余裕のある微笑みも消えている。さすがのこの好青年でも殴られるのは避けて通りたいらしい。

「木野竜也の身柄はこの裁きの間下級裁判官タナシアが預かっている。勝手に借りられては困る。た、確かに職務怠慢な上に、今日は出掛けてもいるが」

 呼び止めたシェイドも自分の主の怠慢さはよく知っているだけにだんだんと声のトーンが落ちていく。最初の威厳のある声色はすぐに消え入るようなか細い虫の羽音のようだ。

「俺がちょっと借りたくてな。タナシアが戻るまでには返す」

「キスター様であっても勝手は許されません。タナシアが不在の今、私がこの裁きの間の秩序を守らねばならぬのですから」

 お、おう、と小娘の気迫に押され返す閻魔王とはなかなかに見られない光景だろう。ついさっきなんとかする、と言っていた。威厳は竜也の頭から軽く吹き飛んだ。この二人はただの悪友だ。そんな気がする。

「ま、そういうことだからあいつらが帰ってきたら適当にごまかしといてくれ」

 よろしく、と片手を挙げてシェイドの横をキスターがすり抜ける。次の一言をどうするか考え込んでいたシェイドは不意を突かれて簡単に道を譲ってしまう。その隙間にイグニス、そして引っ張られるように竜也が続いた。

「待て!」

 怒るシェイドの声を無視してキスターとイグニスが走る。死神の怪力に引かれた竜也は半分体を浮かせながら抵抗するのも諦めてついて行くことしか出来ない。大理石の床が少しずつ黒く色を変え、どこまでが床でどこまでが空かわからなくなる。

 裁きの間のデザインはフィニーが考えた。そう聞いている。つまりあの場所は古城のようにデザインされただけでこの世界の全てではない。今いる空間、物質もなくただ黒が永遠に広がっているこの視界こそが天界の本来の姿なのだ。

 竜也にはもはや上下も左右もわからなくなってきたが、キスターとイグニスにはしっかりと道が見えているらしく、戸惑うこともなく時々曲がりながらも足を止めることなく進んでいく。

「天国と地獄、どちらがいいですか?」

 イグニスが急に振り返って、竜也に質問を飛ばした。

「そりゃ、天国だろ」

 特別な考えもなく、思いついたままに答える。

「それでは地獄でも観光してみましょうか」

「そう来ると思ったよ」

「まぁ、天国は我々でも簡単には入れませんからね。後からも行けませんよ」

 だったら聞くなよ、と言う気も失せて、竜也は肩をすくめる。その仕草に満足したのか、イグニスは真っ黒な空間で小さな窓枠くらいの少しだけ色の濃い部分に手を当てる。何かを探るように眉をひそめて三秒後、薄く光が漏れ獣の口が開くように小さな窓が扉ほどのサイズに広がった。

「それじゃあ、参りましょうか」

「心配するな。誰も意味もなく地獄に突き落とそうってわけじゃねぇんだ」

「それ、やろうと思ったけどさすがにマズイと思ったんですね」

 竜也の言葉にキスターが目線を逸らし、わざとらしく頭を掻く。だんだんわかってきたが、このキスターという閻魔王。地位の割にはどこか茶目っ気がある。フィニーもイグニスもそういうところがあるが、これは死神の性質なのか。

 そう思って先ほど真面目に職務を全うしようとしていたシェイドの顔が浮かんできた。やはりこれは一部の死神だけかもしれない。

「ではこちらに」

 黒い空間の先はやはり黒い空間だ。もしかするとただからかわれているだけで、同じところを回されているだけなんじゃないか、と竜也には思えた。イグニスとキスターの後ろ姿だけを頼りにしていくらほど歩いたか、ようやく少しばかり明るいところを見つけたと思うと、その先に二人が入っていく。

「着きましたよ」

 視界が黒から赤に変わった。おどろおどろしい赤は上がる炎と流れる血の色だった。胡散臭いと思っていた宗教家達の言もあながち嘘ばかりではないと思えるくらいには地獄という印象に違いはない。

 人の背の二倍はある剣山がそこかしこに突き出て、河原には大きな岩が積まれ、流れる川は赤い色をしている。火山が噴火して灰を撒き散らしながら容赦なく熱を浴びせてくる。

 ただ一つ竜也が人間界で聞いていたものと違うところはそこにほとんど人の姿が見えないことだった。

 確かに苦役についているものはいるが、どこかはつらつとしていて希望に満ちている。この世の終わり、絶望の極地のはずがその色は人々の顔からは少しも見えない。

「この状況をどう思われますか?」

「どうって。どうなってるんだ、これ?」

「天国も似たような状況ですよ」

 竜也の戸惑いを待たずにイグニスは表情を崩さずにそう言った。

「人間界の発展に伴って下界帰りが年々増えているのです。地獄に落ちた人間ですら来世はきちんとやり直せると信じて苦行に耐え、天国の安穏とした生活よりも人間として努力し成功する方が楽しいと考える者が増えているのです」

「転生すれば確かに中身は一緒だが、赤ん坊として生まれる頃には前世の記憶なんてすっ飛んじまうのにな。それでもやり直したいと思う奴が多いってわけだ」

 その話を聞いて竜也はもう一度地獄の底で活き活きとした表情で自らの罰を受ける人を見下ろした。今の自分よりよっぽど楽しそうに見える。彼らがここにいるということは前世で相当な悪行あくぎょうを行ったのだろう。それでも彼らはまだやり直せると信じられるのだ。

 それはたとえ前世が悪にちたと言えども、波乱万丈の一生だったからだ。

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