とある司祭の記憶・10

 はじめの二ヶ月は順調に見えた。

 司祭は夜が来るたびにうさぎの一件を思い起こしては、ユーリイの忍耐が切れることをおそれたが、予想に反し彼はおおむね穏やかに時を過ごした。幾度かに亘るアルセンの誘惑にも応じず、ユーリイは頑なに血を口にしなかった。それどころか、獣の血のひとしずくさえ、彼は啜ろうとはしなかった。

「殺してしまわなくては」

とユーリイはたびたび呟いた。

「二度と蘇らないよう。ぼくの中の悪しきものを、殺してしまわなくては……」

 司祭は最終的には彼のことを励ました。なにより、悪しきものに抗おうとするそのひたむきな姿がアルセンの胸を打った。

 きっと、これは正しいことなのだ。

 朝の光の中で睫毛を伏せ、ひたすらに祈りを捧げるユーリイの、華奢な体を見つめながらアルセンは考えた。少年の非の打ち所もなく清廉な横顔は、石膏で作られたうつくしい天使のようにも、フレスコ画の中の聖人のようにも見えた。しなやかで未成熟な若木のような肢体は瑞々しく、あやうく、人の最もうつくしい瞬間を永遠に切り取ったかのようだった。そうだ。ユーリイは声変わりをしない。もう十四の歳も終わるというのに。

 薔薇窓から一際さやかな光が射しこみ、祈る彼の両手を照らし出した。中指の指輪が鈍く輝いたように見えた。

 彼は生きながらにして、彼自身の一部を殺そうとしている。それはどれほどの苦しみだろう。まるで、喜んで信仰に殉じた十二人の使徒の一人のようではないか。

 アルセンはユーリイとともに祈った。主は変わらず沈黙のみを彼らに与えたが、アルセンの心は奇妙に凪いでいた。静謐な安息すらあった。ともに祈り苦しむことで、アルセンは初めてユーリイという人間に向き合った気がした。時折アルセンは立ち止まり、意識の底に沈み込んでは、自らの心の中を探った。生暖かくどろどろした手触りのその感情は、どこかうす暗い喜びに似ていた。




 ある朝、祭儀の終わりに、神父は小柄な少女の姿を見つけた。その少女は燃え立つような見事な赤毛を背へ流し、みどりの瞳でほとんど此方を睨めつけるように見ていた。あどけない顔立ちをしていたので、歳の頃は十三ほどかと思われた。色素の薄い肌には雀斑そばかすが浮き上がり、それは点々と首のほうまで続いていた。アルセンは野鼠を連想した。逞しく、自由でいて、自分で生きるすべを知っている小さなもの。

 少女は信徒たちが出て行ったあとも、じっとそこに残り、司祭を見据えていた。アルセンは穏やかな顔つきで少女へと歩み寄った。

「なにか、聞きたいことが?」

 太陽のきらめきを宿した緑の瞳がアルセンの視線とまともに衝突した。アルセンはその瞬間に、子どもの頃、自分が自分自身の暗い紫の瞳をひどく厭わしく思っていたことを思い出した。まったく突然に記憶の奥底から飛び出してきた幼い劣等感に、アルセンはかすかな困惑を覚えた。

「裏庭に……」

 少女は言いづらそうにした。司祭が首を傾げると、少女は更に近づき、内緒話をするように声を潜めて言った。

「裏庭に男の子がいるでしょう」

「どうしてそう思うんだい」

 アルセンはほほえんだ。少女は黙り込み、スカートの裾を握りしめた。年相応の、かわいらしい仕草だった。やがて、意を決したように少女は言った。

「最近、会えないの。顔を出すように言ってちょうだい」

 そのとき、謎に包まれた烈しい感情がアルセンの足元から立ち上り、冷たい血液の流れに乗って全身を駆け巡った。アルセンはもう一度悪戯っぽく微笑し、少女に顔を近づけた。

「奥の墓地に入ったのかい」

「ごめんなさい、だけど……」

「あそこの門の鍵は随分と錆びついていた。私は君の言う男の子のことは知らない……けれど、もし君の友だちを見かけることがあったなら、君が会いたがっていたと話しておこう」

 その言葉を聞いて、少女が顔を上げ、警戒心を解いたようにほんの少し笑った。そうして微笑むと、そこにイベリスの花が一輪開いたかのようなのだった。

 軽く十字を切って駆けていく少女の後ろ姿を見つめながら、アルセンはいつまでも笑みを佩いていた。手の中でロザリオがざらりと音を立てた。






 やがて春が死に、夏が訪れた。

 陽射しに灼かれた春の死骸はみすぼらしく乾ききり、かさつく欠片となって生暖かい風に吹き散らされていった。裏庭には背の高い夏草が青々繁々と生い茂り、そのしたたかな生命力を誇示した。

 この頃になると、ユーリイが次第に衰弱していくのがアルセンの目にも分かった。ユーリイの肉体は常にぼんやりとした微熱を帯び、時折渇きの苦しさからか喉を搔きむしることさえあった。ユーリイの今もなお白くうつくしい喉に走るみみず腫れを、アルセンは痛ましい思いで見つめた。外に出るだけで体力の削られるような炎天下の日などは、彼はよくベッドの上で聖書を読んでいた。アルセンの与えた分厚い聖書。もう既に読み終えてしまって、その内容は知っているはずなのに、ユーリイはそれを繰り返し読んだ。かつてユーリイが大切にしていたぼろぼろの聖書──母が遺したもの──はいつしか見かけなくなった。

──一体、彼はあれをどこへやってしまったのだろう。

 あれほどに憧れて覗き込んだ裏庭の外に興味も示さず、革張りの聖書を読み耽るユーリイには、どこか鬼気迫るものがあった。結局、少女と交わした会話のことを、ユーリイには明かさなかった。はじめからそのつもりはなかった。アルセンはそれがユーリイのためだと信じていたが、今となってはそれが善いことだったのかさえもよく分からないのだった。

 ユーリイがベッドから動かない日は、アルセンはよく花を持ち込んではユーリイに与えた。かつてふたりがネリの墓に供えた、白いジンジャーの花……ユーリイはそういったものを殊更に愛でた。その日、アルセンはいつものように窓辺の花の水をとり替えてやり、そして彼のために水差しを満たしてやろうとした。アルセンが水差しを取り上げた瞬間、ユーリイの手が驚くほど俊敏に彼の手首を掴んだ。硝子の水差しが床へと落下し、砕け散った。

「ユーリイ」

 アルセンは声だけで静かに窘めた。ユーリイはぎくりと身を強張らせ、手を離した。アルセンは息を吐き、硝子の欠片を拾い集めようとして、躊躇った。そして、箒を取りに行くために踵を返した。硝子の音よりもなお澄んだユーリイの声が、背に投げかけられた。

「アルセン、手紙を書いている」

 アルセンは振り向いた。ユーリイはじっと此方を見つめていた。

「あの子への手紙だ。彼女はもうぼくを忘れたろうか?」

「彼女がお前を忘れても、神はお前を忘れはしないだろうね」

 少年が笑い、アルセンはもう長いこと彼の屈託ない笑顔を見ていなかったのだということに、今になって気がついた。ユーリイはジンジャーの茎を摘み、瓶から一本抜き取った。水が点々と滴り落ち、ベッドを濡らした。ユーリイは目を瞑り、その白い花に頬をすり寄せた。唇がしっとりとした花弁の一枚に触れ、そのなめらかな感触を楽しんだ。暫くそうしていたあと、ユーリイは呟いた。

「出す宛のない手紙だ。引き出しの中に入っている。持っていてほしいんだ」

「私が?」

「ぼくがぼくの中に潜む化物を殺して、普通の人と同じになるまで。持っていてよ、アルセン。中を開けて、読んでしまっても構わないから」

 アルセンはひとつ頷き、箒を取りに行った。

 ユーリイはそれ以降手紙のことについては何も言わなかった。アルセンは彼の言った通り、引き出しの中に三通の手紙を見つけた。彼は一旦、それを開封しようとした。しかし、便箋を開いてみる前に、結局彼はそれをやめてしまった。そうして、その三通の手紙のすべてを、こっそりと火に焚べてしまった。

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