とある司祭の記憶・6

 半島に特有のしつこい霧とともに居座っていた秋が漸く立ち退き、冬が訪れてからも、ユーリイに血を与える習慣は続いていた。あのような──身の毛もよだつうさぎ小屋での一件──不幸な事件は二度は起こらなかった。アルセンとユーリイの生活は退屈と紙一重の平穏さでふたりの周りを通りすぎてゆき、次第にあの愛らしいうさぎのいない生活にも慣らされていった。音もなく降り積もる雪が、全ての小径を平等に覆い隠してゆくように。

 しかし、ふたりともあの日のことをけっして忘れたわけではなかった。ネリの一件はアルセンをより慎重にした。自身の血液の供与を怠っていないときでも、彼はユーリイを放ってはおかなかった。彼はひっそりと森に分け入り、うさぎや栗鼠りすなどの小動物を自ら捕らえては、時折その血を与えた。ユーリイはいやがったが、結局は毎回それを飲んだ。あくまで人の血の代わりにはならないが、それを口に含むとほんの僅か渇きを癒せるようだった。

──同じだ、私たちが肉や毛皮をとったりすることと。

 ちいさな生きものを殺めるたび、アルセンはそう心中で呟いた。ユーリイには殺させたくなかった。彼のいとけなく柔らかな心をこれ以上傷つけたくはなかったのだ。

──同じだ。

 私たちはそうせずとも生きていかれるのにもかかわらず──畜生の命を奪う。血を啜らなければ命を繋いでいかれないこの子どもが、ただ生きるためにけものの命を屠ったとて、それが何の罪になろう。





 とはいえ、ユーリイに血を与える夜は、毎回アルセンの気分をひどく悪くさせた。

 夜。

 アルセンは、月明かりの夜を選ぶ。月のない夜には、くらやみに押し潰されそうな得体の知れない恐怖を覚えるからだ。隠れておぞましい悪事をはたらいているような後ろめたさもあった。この愚かしく原始的な恐怖心を、しかし司祭はこのときばかりは制御できずにいた。血を与える場所に礼拝堂を選ぶのもそういった本能的な怖れゆえのことだったが、神の御前で〈異形〉の子に血を与えようという背徳感にはいつまでも慣れることはなく、きまっておそろしい眩暈に襲われた。

 薔薇窓を背に立つアルセンの前に黙って跪くユーリイは、敬虔な、ただの信徒の子どものひとりに見える。ユーリイは司祭を見上げるように、形のよいおとがいを上げた。そうするとアルセンの影と月の影とが半分ずつ、彼の白磁のような顔の上に落ち、美術品めいた静謐な情調を纏わせるのだった。

 ふたりは言葉を発しない。そう声に出して取り決めたわけではないが、ふたりの間には常にひっそりとした不可侵の了解が横たわっていた。アルセンは細く息を吐くと、いつも通り銀の短剣スティレットを鞘から抜いた。そして、アルセンは短剣の曇りひとつない刃を自らの左の人差し指の付け根に押し当てた。

 決まっている。手順も、傷つける位置も。本当は、目立たない服の下がいい。しかしアルセンがこの場所を選ぶのは、ひとえに如何ともしがたい忌避感ゆえだった。そこから見えない穢れに侵食されるような、本能的な忌避感。なるべく身体の中心から離れたところに傷をつけたかった。初めの頃はそれこそ指先を傷つけていたが、複数の指の怪我はあまりに目立つし、後から不愉快に痛む。それに、もうユーリイの要求する量を与えるには、指先の小さな傷では追いつかなくなっていた。

 新しい傷からは、すぐに血が溢れ出した。生暖かい雫が白い膚の上に赤ぐろい筋を作りながら流れ落ち、その爪の先から滴り落ちる。ユーリイは従順に目をつむり、舌を伸ばしてその雫を受けた。ポタリポタリと血がうす桃色の舌の上に垂れ落ち、きたならしい臙脂へと染めていく。狙いを外れた雫は少年の唇まで濡らした。薄い唇は今はぬらぬらとして、明り採りの窓から射し込む月の影を浴び、少年とは思えぬ婀娜あだな光沢を放っていた。アルセンは自らの呼吸が微かに乱れたことに気づき、こみあげる嫌悪感と嘔吐感に奥歯を噛み締めた。彼はこの子どもから目を逸らしてしまいたいという烈しい衝動に駆られた。しかし、そうはせず、目を細めるに留めた。

 ユーリイは目を閉じたまま、 ただ緩慢に与えられる血を味わっていた。浅い傷はすぐに出血を止めたので、アルセンは同じところに二つ目の傷を付けた。傷は増やせない。そこからは再びあたたかい血液が流れ出したが、けっして初めほどの勢いはなく、霧雨の夜にオトギリソウの葉を打つ雨垂れのように、断続的に少年の舌を濡らし続けた。ユーリイはこれでは足りないというように、雛鳥のような貪欲さと無邪気さで唇をアルセンの指先に触れさせた。やがてその唇のあわいから、おずおずとふたたび舌があらわれ、直接指先の薄い膚を撫ぜた。怖気に似た痺れが、毒のように肘のほうまでじわじわと麻痺させたが、アルセンは何も言わずユーリイが彼の指を舐めるに任せていた。既に乾いた血の痕を辿り、控えめに爪の付け根を舐めていた舌は、次第に大胆になり、指の腹や関節を夢中でねぶり始めた。彼の唇が物足りなそうに指先を何度も食むのを見て、アルセンは堪えきれずに顔を背けた。瞳は彼を見つめたまま。

 今夜、ユーリイはなかなか満足しなかった。アルセンは唇を噛み締めながら、三つ目の傷をつけた。 ユーリイのねだる血の量が次第に増していることには、アルセン自身もはっきり気づいていた。

──いつまで誤魔化しきれるだろう。

 アルセンは暗い気持ちで考えた。月に一度、指の付け根を覆っていた綿紗ガーゼは徐々に大きくなり、今では包帯を巻かなくてはならないほどになっていた。もうここも限界だろう。次は、もっと目立たず、血のよく流れる場所を選ばなくてはならない。

 アルセンが痛みに呼応するような鬱々とした考えに耽っている間じゅう、ユーリイはひたすらに流れる彼の血を舐めていた。体の横にだらりと垂らされていたユーリイの右手が不意に持ち上がり、彼の手首を掴んだ。その感触に、アルセンは無意識のうちに身を引こうとしたが、ユーリイの唇は後を追って彼の指にしゃぶりついた。硬くちいさな歯の肌触りにアルセンは思わず呻き、手を引っ込めようとした。

「ユーリイ、今夜は、もう……」

 小さく放たれた司祭の声は予想外に反響したが、ユーリイは返事をしなかった。右手をアルセンの手首から離さないまま、左手は彼の前腕を掴んだ。子どもの細い指が袖越しに食い込み、アルセンはじわじわと腹の底が冷えるような恐怖感に囚われはじめた。喉に纏わりつく、埃っぽいような麝香じゃこうの薫。

「ユーリイ」

 彼は再び警告じみた声を低く発した。

「ああ、やっぱり」

 そこで、ようやくユーリイは熱に浮かされたように呟いた。しかしそれは返答ではなかった。

「あなたの血潮は甘い」

 そのひと言の、あまりに子どもらしからぬ響きにアルセンはぞっと寒気を覚えた。そこにいるのが自分のよく知る子どもでないような気がした。ユーリイは無心にアルセンの指を食みながら、舌でその形を確かめるようにした。アルセンはユーリイから手を取り返そうとして、彼の薄い唇がはっきりと笑みを佩いているのを見た。そして、その瞼が恍惚にうっすらと開いているのを見た。そこからは鈍くひかる琥珀色アンバーの、灯し火のような虹彩が覗いていた。

 突然に、かつて──ネリを喪った日に──殺した〈異形〉の女の瞳がまなうらに蘇った。

 心臓が厭な音を立てて脈打った刹那、少年が傷に白い歯を食い込ませた。閃光に似た鋭い痛みがアルセンの目の奥で明滅した。白と黒。アルセンは背筋を駆け上がるおぞましい感覚を認め、その正体がなにものであるかに気づくやいなや、ユーリイの手と唇とを振り払った。

 手加減のない大人の力で小柄な体躯はあっけなく突き飛ばされ、床に転がった。繊細な金の髪が臙脂色をした絨毯の上に散らばり、星の光を散らした。柔らかく撓んだ彼の身体はそれほどの衝撃を受けたようには見えなかったが、ユーリイはすぐには起き上がらなかった。アルセンの理性が助け起こすべきだと叫んだ。しかし、身体はぴくりとも動かなかった。ひどい脂汗をかいていた。心臓が早鐘を打ち熱く血を巡らせる一方で、手足はおそろしく冷え切っていた。あの瞳が再び瞼の裏に閃き、悪寒に似た怖気が全身を駆け抜けた。

 司祭は後ずさった。彼はユーリイをその場に置いたまま、乱れた足音を立てながら礼拝堂を出ていった。裏庭を通り抜けて小屋へ辿り着くと、薬も塗らず、手の傷に乱暴な仕草で布を巻きつけた。そうして、寝台へとその身を横たえた。神に祈ることさえしなかった。ひどく動揺しており、内臓が裏返りそうな気分不快があった。

 やがて、アルセンの耳は、誰かが躊躇いがちに小屋に入ってくる音をとらえた。その気配は、物言いたげにわずか立ち止まったあと、結局黙りこくったまま向こうの寝台に滑り込んだ。

 アルセンは吐き気をこらえながら瞼を下ろし、眠りにつくまでユーリイのことを考えていた。







 次の日の朝は、お互い何事もなかったかのように振る舞った。アルセン自身にも、自分が突発的に見せた一連の烈しい反応について説明がつけられずにいた。ユーリイはやはり、アルセンの手元を見つめては何か言いたげにしていたが、結局ふたりの間でその晩のことが話されることはなかった。

 その朝の祭儀のあとで、若い男がアルセンに声をかけた。特に熱心な信徒のひとりで、アルセンもよく名前を覚えていた。彼は一旦躊躇うように口籠ると、心配そうな表情を浮かべて言った。

「手を、どうかなさったのですか?」

「……ああ、手」

 昨晩まともな手当を怠ったせいで、傷は広範に赤みと疼きを伴っていた。それを覆い隠すための布も、やはり今回はひどく目についた。内心の動揺を押し隠しながら、アルセンは穏やかに答えた。

「昨晩、刃物を扱っているときに、誤って自分で傷つけてしまったのです」

「そうなのですか」

 男の声に労わりが滲んだ。

「お大事になさってください」

「すぐによくなるでしょう。お気遣いをありがとうございます」

 そう言って司祭は微笑んでみせ、彼に祝福を施した。しかし朝の光に照らされながら、彼のまなうらにあったのはくらやみの中の月の影だった。

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