とある司祭の記憶・4

 礼拝堂の中にはまだ晩夏の気配がわだかまっていたが、裏庭には既にうっすらとした霧が立ちこめ、半島の秋の訪れを告げていた。乳白色の霧は背の高い草花や低木を湿らせ、その緑をいっそう濃くせしめた。

 ちょうどその頃、アルセンはおよそ半年振りに〈異形〉討伐の命を受けた。彼はこのときをひそかに怖れていた。幸いだったのは──本当は望ましくないことではあるが──アルセンが教会を空ける数日の間、余所から司祭がやってくることがないということだった。この教区では司祭が不足しているために、人員の穴を埋めることができない。アルセンがここを離れれば、その間教会は鎖される。ユーリイの存在が知れることはない。

 しかし、アルセンが本当に怖れていたのは、そのことではなかった。

「どこへ行くの」

 ほんの数日間教会を離れることを夕食のあとで伝えると、ユーリイは真っ先にそう尋ねた。

「少し遠いところだよ」

 アルセンは短く答えた。

「おまえはもう、ひとりで待っていられるだろう?」

「何をしに、行くの」

「仕事をしにいくんだ」

 そう説明しながら、アルセンはひそかに心を痛めた。嘘を吐くことはできない。だが、おまえの同族を殺しにいくのだと……どうしてそんなことが言えただろう。ユーリイに納得したふうはなかったが、彼がそれ以上を追及することはなかった。ユーリイは素直であるばかりでなく、人の心の機微に聡い子どもでもあった。ユーリイのこうした態度はアルセンに一抹の安堵を齎したが、〈異形〉をその手にかけることを考えると、司祭の心には拭い去ることのできない陰鬱なかげがさした。初めてではない、とアルセンは自分に言い聞かせた。初めてではない。ユーリイが特別なのだ。私は邪悪を断つ祝福された一振りの剣であり、主の平和を齎す代行人である。


「私にこの試練を乗り越えるための力をお与えください」とアルセンは彼の神に祈った。

「私のすべてをあなたにゆだねます。主よ、私はあなたの羊。あなたという葡萄の木の、その枝のひとつ……」










 空が異様だった。

 疲れ切った身体を引きずって丘を登りながら、アルセンはそのことにふと気がついた。

 アルセンは身震いした。この身に纏わりつく、つめたく湿った霧がそうさせるばかりではない。ねばつく不吉な予感めいたなにかが、丘の上のほうから垂れ下がってきているかのようだった。疲労にささくれだった神経は、しかし鋭敏にこの厭な空気を察知した。歩を進めるにつれて次第に不穏な気配は強まった。その源は、明らかにアルセンの教会──〈丘の上の教会〉であった。彼の歩調は徐々に早まり、終いには腑を灼くような焦燥感に駆られながら、アルセンは駆け出した。

「ユーリイ!」

 外套も脱がずに礼拝堂を抜け、香部屋を抜け、裏庭へとまろび出る。うさぎ小屋の前に、まさに金髪の子どもが佇んでいるのが見えた。

「ユーリイ……」

 アルセンは一先ずの安堵を覚え、彼の元へ駆け寄った。そのとき、猛烈な違和感が彼を襲った。司祭は立ち止まった。むせ返るようななまぐさい臭いに、彼は思わず手のひらで口元を覆った。

 彼が見たものは、うさぎ小屋の外に広がるあかい血溜まりだった。

 ユーリイは両手を紅く染めたまま、呆然としていた。アルセンは絶句したまま、ユーリイを見た。子どもの唇は、やはり錆臭い緋色に塗れていた。司祭は再び地面に目を落とし、血溜まりの中にぼろきれのようなきたならしい塊を発見した。それから、それがかつてうさぎのネリだったものだということに気がついた。

 ユーリイは琥珀色の虹彩をアルセンに向けた。しばらくの間、彼は無表情に此方を見つめていた。それから、その白くうつくしい、天使のような顔が、じわじわと驚愕と恐怖にゆがんだ。ユーリイが甲高い声で叫び出すのと同時に、アルセンは彼を抱き締めた。どうしようもない自分自身の震えを押し隠すように、きつく。ユーリイが落ち着きを取り戻すまで、ひどく長い間、そうしていた。





 ネリは裏庭の一角、垣根に寄り添う隅のほうに埋葬した。

 昨晩は冷え込んだが、今朝にはネリは既に悪臭を放ちはじめていた。アルセンはユーリイが起き出してくるまえに、できる限りネリの亡骸を綺麗にしてやろうとした。しかし、血染めになった毛皮はけっしてもとの柔らかなうす茶には戻らず、いつまでも赤黒くごわついたままだった。毛皮を拭ってやりながら、アルセンはネリの屍体を観察した。彼女は喉笛を引き裂かれていた。おそらくは、人の爪で。あの子どもの細い腕とちいさな手に、いったいどれほどの力が潜んでいるというのだろう。

 埋めるための穴を掘ったのもアルセン。迷ったが、土をかけるときにはユーリイも同席させた。彼がネリとの別れの実感を得るためには、正しい手順を踏む必要があると思ったからだ。あの血溜まりの中のうさぎが、彼の中のネリの最期の姿になってはいけない。

 ユーリイは昨晩より落ち着いていた。泣き腫らした瞼の赤みさえも、紅を差したかのように目元を彩り、彼の顔立ちの繊細さを際立たせた。うつくしい子どもは血の気のない唇を震わせて、だんだんと土に塗れていくネリの姿を凝視していた。

 このときには、アルセンも冷静さを取り戻しつつあった。今回のことには自分にも落ち度がある。今月はまだ彼に血を与えていなかったのだった。忘れていたわけではない。戻ったらすぐに与えてやろうと思っていた。遅れてはいけないのだ。今回は、失敗だった。しかし、もしネリがいなかったら、と思うと心底腹の底が冷えた。もし、そこにネリがいなかったら……。

 土に汚れた手を洗いながら、アルセンは始末したばかりの〈異形〉の顔を思い出した。おそろしくうつくしい女だった。ユーリイと同じ蜂蜜の色をした、あやうい光を放つ虹彩──。



 その夜、アルセンはユーリイの枕元に音もなく立った。左手に、手入れしたばかりの銀の短剣の鞘を握って。

 ユーリイは寝台の上に仰向けになって、薄い胸をかすかに上下させていた。透けるような白い瞼は閉じ合わされ、頬は蝋のようになめらかに、明かりとりの窓から落ちるぼんやりした光を浴びていた。

 アルセンは随分長いこと、眠る彼の顔を見つめていた。そして、下弦の月がしらじらとした夜明けの空に溶けはじめたころ、彼は銀の短剣を鍵のかかる秘密の棚に戻し、寝台へと戻った。



 朝裏庭を見ると、墓には既に白い花が供えられていた。それはふたりが面倒をみていた花壇のジンジャーの花だったが、アルセンは咎めはしなかった。

 ネリの死はユーリイの心に傷を残した。その日から彼のすぐれたかんばせには、年齢に不釣り合いなうす昏い影が投げかけられ、それは以降どんなときも消えることがなかった。

 時折、アルセンとユーリイは黙ってうさぎ小屋を見つめた。

 もうネリのいない、空っぽのうさぎ小屋を。

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