とある司祭の記憶・2

 呪われたこの〈霧の半島〉では、ときに〈異形〉と呼ばれる存在が生み落とされる。女の胎内から。あるいは、どことも知れぬくらやみの中から。それは何の前触れもなく訪れてはひとびとに災いを為す嵐や河の氾濫に似ている。そこに道理も節理もなく、また、誰もそれを防ぐことはできない。

 〈異形〉はみな例外なく著しくすぐれた容貌をしている。ゆっくりと歳をとり、その類い稀なる美貌と香気を以て人を惑わせ、惹きつける。生まれながらの異端にして邪悪。奸智に長け狡獪。古典に於いては殺めたものの魂を我がものとし、記憶を食らうとも語られる。人の生き血を啜るというその忌まわしい形質を発現するのは物心つくころだが、大抵はその一種異質なうつくしさと特有の香気によって、赤子のうちにうすうすそれと気付かれる。〈異形〉であることが明らかになると、それはひっそりと処分されることになる。神の代行人である司祭の手によって。

 ずっとそのようにされてきた。

 アルセンの先代も、その前の代の司祭も、みな同じようにその役目を仰せつかってきた。アルセンもまた、教会の若き神父であると同時に、そのために存在している代行人であり、処刑人なのだった。





 いつの時代もそうであるように、アルセンの住み込んでいる小さな教会は町の少し外れた丘の上に位置している。アルセンは神学校を卒業したのち、司祭として二十八のときから四年間この教会につとめてきた。〈丘の上の教会エクレシア・イン・モンテ〉と人びとは呼ぶ。古くからこの町に住むものの中には、〈聖なる光の家ドムス・サンクタ・ルーメン〉と呼ぶものもいる。教会のすぐ裏手には──教会にほとんどくっつくように寄り添って──司祭館と呼ぶのもおこがましいほどの質素な小屋が建っており、アルセンはそこに暮らしていた。小屋にはかつてふたりの司祭が常駐していた名残で寝台が二つあり、それがユーリイをひっそりと住まわせるのに役立った。小屋の脇にはアルセンが慣れない大工仕事で拵えたうさぎ小屋があり、一年ほど前に信徒の子どもがべそをかきながら抱えてきたうさぎ──当時は膝頭ほどのちいさなふわふわの仔うさぎだった──を囲っていた。このうさぎに毎朝夕の餌をやるのが、ユーリイの初めての仕事になった。

「名前はなんて言うの」

 うさぎに細く切ったキャベツをやりながら、ユーリイが尋ねた。彼女の名前は「ネリ」だと教えてやると、ユーリイは微笑んで何度もうさぎの名を呼び、ちいさな手のひらで彼女を撫ぜた。ユーリイは素直な子どもであった。アルセンとの生活の中でユーリイの目元からは疲労と悲しみの翳が次第に取り払われ、子どもらしいすこやかな顔をみせるようにもなった。アルセンはユーリイに自分以外の生きものを慈しむことを教え、このようにちいさな命にも心をかける神の愛を教えた。その一方で、彼を教会の外に出すことはけっしてしなかった。そればかりか、信徒の出入りする時間帯は礼拝堂に入ることも固く禁じた。ひとたび町を歩けばすぐに人目を惹いて、分かるものにはと知れてしまうだろうという、半ば確信めいた予感があったからだ。それほどに、ユーリイはうつくしかった。金の髪と繊細な睫毛は陽を透かしてかがやき、かぎ編みのような木洩れ日は薄くばら色を刷いた頬を滑り落ちた。そのほほえみには聖性さえ感じさせる清らかさがあった。普通の人の子と変わらぬユーリイの姿は、ときにアルセンをひどく混乱させた。しかし、ふとした瞬間に香る麝香じゃこうに似た甘ったるい馨と、夜になると透き通るようにほの光る琥珀の瞳が、この子どもが紛れもなく〈異形〉であることを思い出させた。考えてみれば、ユーリイは歳の割に幼く感ぜられた。聞けば、十二だという。これもまた、ゆっくりと成長し、もっとも美しい二十歳ごろに成長を止める〈異形〉の性質そのものであった。

 しかし、アルセンはユーリイを慈しもうとした。誰もが愛さずにはいられないだろうそのすぐれた容貌のためではなく、まだあどけない彼の中に顔を出している、柔らかな新芽のような人間性のきらめきに期待したのだ。ユーリイは、アルセンが彼を見つけたときに抱えていた聖書を──表紙は傷んでほとんど剥がれかけていたにもかかわらず──けっして手放そうとしなかった。母との唯一の繋がり。ユーリイの母親は、自らの子どもが〈異形〉であると悟ってなお、彼の命を差し出すことはできなかった。彼女の心は恐怖と悲しみに引き裂かれただろう。普通の母親のように寝物語にお伽話を聞かせるかわりに、幼いユーリイに聖書の中の寓話を語って聞かせたのは、心の裡に湧き上がるおそろしい罪悪感を抑え込むためだっただろうか。結局、彼女は苦しみに耐えぬくことができなかったのだとアルセンは推測する。彼女がどうなったかは分からない。しかし……ユーリイは幼い。もし私が正しく導いてやれたなら、あるいは、とアルセンは考えた。この子の母親の代わりに、彼女ができなかったことを、私が──。




 ところが、決定的な出来事がまもなくアルセンを打ちのめした。ユーリイが血を必要とするようになったのだった。彼に初めて血を与えた日のことを、アルセンはあとから何度も追想する。


 ユーリイが熱を出したのが事の発端だった。初めはありふれた単なる微熱にすぎなかったが──少なくともアルセンはそう高を括っていた──それは秋になるとこの半島にもやもやと纏わりつく深い霧のように、しつこくユーリイのもとに留まった。一週間もすると、ユーリイは食事をとらなくなった。みるみるうちに衰弱していくユーリイの枕元で、アルセンは思い悩んだ。危険を冒して、医者に診せるべきか否かを。

 迷っているうちに更に三日が経ち、彼の身体がついに水も受けつけなくなると、アルセンはとうとう決断した。これ以上見ていられないと彼の良心が悲鳴を上げたのだ。医者を呼ぶために彼が立ち上がると、ユーリイが弱々しく彼の左手を掴んだ。その手は熱く、脱水のために乾いていた。神父ははっとして動きを止めた。ユーリイは熱に浮かされるように、アルセンの手を口元へと運んだ。そして、その指先の、ついさっき聖書の頁で誤って切ったばかりの傷をちろりと舐めた。

 唾液の沁みるかすかな痛みのあとで、一拍遅れて、背後から頭を殴られたような衝撃がアルセンの身体を駆け抜けた。弾かれるようにして手を引っ込め、よろめきながら後ずさる。ユーリイが〈異形〉であることは片時も忘れたことはなかったと、そう思っていた。しかし、そうではなかったのだとアルセンは否が応にも気づかされた。そのときアルセンは、まさに光と影の狭間に立たされていた。ひとたび足を踏み出してしまったら、けっして後戻りのできないおそろしい断崖にアルセンはひとり佇んでいた。若き神父は、くらやみの中に宙吊りにされたような浮遊感を覚えた。彼は瞼を閉じ、浅い息を二度ばかり吐いてから、覚悟を決めた。もう一度子どもを見つめると、ひどく具合の悪い夢を見ているような心持ちで林檎の皮を剥くための小刀を取りに行った。そして、子どもの目の前で自らの指を傷つけ、彼の口に含ませた。罪悪感に手が震えるのを抑えることはできなかった。

 ユーリイはアルセンの指先を一頻り吸い、やがて血が止まってしまうと、まもなく深い眠りに落ちた。そのあとも、アルセンはずっとその場に立ち尽くしていた。

 ユーリイは萎れていた切花がみるみる活気を取り戻すように目覚ましい回復を見せたが、対照的にアルセンの心は常に晴れることのない仄暗い後ろめたさに苛まれた。あとから、アルセンは更に同じ方法で二、三度血を与えた。この子どもが生きてゆくためにこれが必要であるということは、最早明らかだった。今はひと月にほんの少し、指先のちいさな傷から与えるだけでいい。しかし、いずれそうではなくなっていくであろうことも、また同様に瞭然たる見通しだった。

 ユーリイが眠りについたあとで、アルセンは毎晩内なる神に語りかけた。

「どうか、私をお導きください」

 どれほど熱心に跪き、縋っても、アルセンの神は彼に答えを与えることはなく、いつまでも重々しい沈黙を守った。

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