第18話 キスしよっ

 外に出ると、夜だというのにもわっと湿った空気が、昼の温度を維持したまま攻撃的にまとわりついて来る。


「どこ行くにゃ?」

「信濃川」

「昼間萬代橋、通ったにゃ?」

「もっと下流」


 サボのパタパタと言う音が道に響く。一歩が小さいのか、俺より若干回転が速い。

 黙って歩いていると、アイさんが急に俺のシャツの袖を摑んだ。半袖だから摑んだというよりぶら下がっているような感じだが。


「怒ってるの?」

「何がですか?」

「あたしが八雲君ちに来たこと」

「怒ってないですよ」

「あたしの彼氏になるの、そんなに嫌?」

「え?」


 アイさんを振り返ると、こっちを上目遣いに見ている彼女と目が合ってしまった。俺はこの目に弱い。非常に弱い。


「アイさんの彼氏になるのが嫌なんじゃなくて、そういうのがめんどくさいだけです。友達でいいじゃないですか」


 アイさんは何も言わない。俺もそれ以上言う事も無いので黙って歩く。

 信号を渡ると船が見えてきた。信濃川だ。


「ここによく船が泊まってるんですよ。海の香りがするでしょう?」

「あたしは八雲君を独り占めしたいの」

「は?」

「あたしだけの八雲君になって欲しいの」


 ちょっと待て。俺の頭は大混乱をきたしている。何故そうなる。そういう話じゃ無かった筈だ。何処でそうなった。


「船、泊まってますね」

「八雲君が好きなの」


 ええと整理しよう。どこからだ?


「あの、アイさん? 創作活動に熱心なのはよくわかりました。でも、私は八雲であなたはアイさんですよ。伊織と舞じゃありません。舞に感情移入するのは確かに必要かもしれませんけど、だからと言ってそのために私を好きにならなくてもいいんですよ、フィクションなんですから」

「違う。舞は伊織が大好き、一目惚れ。あたしはアイ、八雲君が大好き、一目惚れ」

「同じじゃないですか」

「違うの。あたしは八雲君に一目惚れだけど、会えば会うほど好きになっちゃったの。これはね、恋なの。判る?」


 わかんねーよ! とは流石に言えず、知らず知らず大きな溜息に変換されている。


「アイさん、惚れっぽいでしょ?」

「うんっ」

「あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、いつも恋してるでしょう」

「そんなにあちこちフラフラしてないもん」


 急にアイさんに腕を引っ張られて、向かい合う恰好になってしまった。正面で話されるのは、なんだか苦手だ。


「今は八雲君しか見てないもん」

「今はって……また他の人が現れたらそっちに行くんでしょう?」

「みゅう」


 この「みゅう」は図星だ。


「ずっと八雲君より素敵な王子様なんて現れないもん」

「そんなもの明日にでも現れますよ」

「あたしの事嫌いなの?」


 え、いきなり両手を摑まれた。なんかこの状態はあまり良くない傾向だ。ああ、パニックになってる、日本語が崩壊している。


「嫌いじゃないですってば。アイさんの方がいつも『八雲君きらい』って言うんですよ? もう二度も言われました」

「あ、気にしてるんだ」


 はぁ……そうじゃなくてさ。


「事実をありのままに述べただけです」


 そう言って俺は横を向いた。向かい合ってるのは苦手だ。だけど両手を握られているから、顔だけ横向いたって仕方ないんだな。


「嫌いじゃないんだね?」

「嫌いじゃありません」

「好き?」

「はい、好きですよ」

「じゃ、キスしよっ」

「しませんよ」


 思わずソッコーで拒否してしまったじゃないか。


「なんで即答するかにゃー」

「なんでそうなるんですか」

「好きなんでしょ?」

「そういう好きじゃなくて、友達としてです。友達とキスはしません」

「みゅう。恋に障害は付きものにゃ」

「それ、本当に恋なんですか? アイさん、恋に恋してるようにしか見えないんですけど。恋愛中毒というか、恋愛依存症というか」

「うん、多分恋愛依存症」


 ナチュラルに認めんなよ。頭痛くなってきた。


「でもね、モノは考えようだよね。恋は障害があればあるほど燃え上がるんだもん。舞は伊織に会いに、一人、夜行列車に飛び乗るの。伊織の待つ新潟へ」

「はあ、それでどうするんですか」

「上野発の夜行列車を降りると新潟駅は雪の中なの」

「なんで新幹線じゃないんですか。演歌みたいじゃないですか。言っときますけど連絡船ありませんからね」


「え? 無いの?」

「あ、佐渡汽船がありました。ジェットフォイル。フェリーもあった。佐渡へ行くんですか?」

「みゅうー、行かない」


 何がしたいんだ?


「じゃあね、長い長ーいトンネルを抜けるとね、そこは雪国なの」

「まあ、関越トンネルは長いですね。でもそれ、川端康成ですよね?」

「あ、そうにゃ。てへ」


 くっ。不覚にも一瞬可愛いと思ってしまった。俺はまだまだ甘い。


「大体アイさんさっき万代シティで『コラボやめる』って決めたばっかりじゃないですか。まだ舞の設定で疑似恋愛するんですか?」

「だから疑似じゃないっ。あたしは本当に八雲君の事が好きなのっ。わかんないかな」


 どこまで本気かわかんねーよ、この人の場合。


「それとね、コラボはやめないから。あたしがコラボやめるって言ってるときは、八雲君が唐変木な時だけ! ほんとにやめるなんて思ってない。だからあたしは八雲君の事が大好きなアイのままで、伊織が大好きな舞を書くの、わかった?」


 ノンブレスで一気に言い放ったよ……。


「やめないんですか、コラボ」

「やめないの! それともう一つ、ちゃんと覚えといて。あたしは本気で八雲君の

事が好きなの! 大好きなの!」


 いきなり。手を離したアイさんが俺のシャツの襟を摑んでグイと引っ張った。何事かと思う前に……キスされた。

 なんなんだよ、おい、なんなんだ、この人は!


「くふ。ハトが豆鉄砲食らったみたいな顔。可愛い、八雲君、大好き」


 どんな顔なんだ、俺。

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