Side〝T〟-5 ……The Real Psycho


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 津木が言葉を発すると、キャンドルの火が揺れた。少女は、やっぱり、と呟く。津木は前かがみになって、膝の上で両手を組んだ。

「おまえが犯人なら楽なのだ。そうはいかんか」

「急だね。ボクじゃあない。むしろ別人格が事件を解決させようと奮闘中だ」

「高校生と二人でか?」

「さすがだね」

 津木と女は同時に息を吐く。キャンドルの火は揺れなかった。

 少女は「冗談ではなく」と背もたれに体重をかけ足を組んだ。

「もう一人のボクはね、彼……若者Aとともに事件を解決できるなら、それでよしと思っていた。これが市民の義務。防犯こそ犯罪に対する唯一の攻撃だろう?」

神田かんだ勇気ゆうきくんは中央署で保護してる。さっき、非行少年に暴行を受けて」と女がいう。

「ごめん、張ってた。埼玉を出てから、あんたを見逃した時間は無いの」

「かまわないさ。おかげで神田くんは……ボクだって誰かに危害を加えられたら、ねえ?」

 女は返事をせず、うつむいた。

 津木は、くくっと笑う。

 少女は眉間をつまんで揉みほぐした。

「そうきたか。ボクが殺されても訴える市民はいない。どんな犯人であれ量刑され、裁判も省略でき、もろもろの費用が浮いて告発側の負担まで減る。まあ、浮いた分が別件の被害者遺族、強いては加害者家族までに当てられるなら本望だ」

「おまえが言うことか! こっちはおまえに用はない!」

 津木の怒声。

 少女は髪をほどき、キャンドルに息を吹きかけ、火を消した。


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 少女は、ライターでキャンドルに火を着けようとする。

「あちっ、あちちっ」

 少女は何度も試みるが、火が手に昇ってキャンドルの芯に着火できない。

 

 しゅっ、と津木がマッチを擦って火をゆっくり灯す。

 三人の顔が浮かび上がり、見合う。

 

 少女は右前髪を垂らしていた。右手を額に当てて敬礼する。

「おっす、ジイちゃん元気そうじゃん。シャコージレイはこれでよろしい?」

「狐が餓鬼に化けよった」と津木はマッチの火を振り消す。

 少女は笑いながら、手をテーブルに置き、津木の持つ真っ白なマッチ箱を見つめた。

「ああ、オレと同じもの持ってら。ジイちゃんは禁煙して引退しろよ。喫煙者と警察は不滅。ジイちゃん一人いなくなっても」

「ちょっとまって」

 女はメモ帳を取り出し、ぱらぱらとめくり、「あんた、いつ南区に行ったの?」と尋ねる。

「事件発覚は三日前だけど、あんたの行動は八課が監視してて、五日前に夜行バスで真幌市に来たところから記録してある。でも、中央区と東区を移動、野宿していただけで、南区には行ってないはず」

「それが、大体わかるんだなあ、これが」

 少女は両手の人差し指を、ぺろっと舐め、こめかみに当て、ぐりぐり回す。

「こうすると私ちゃんのパワーをお借りできるんだ」

「馬鹿か」と津木が呟く。

 柏手を打ち、少女は「ジイちゃんのいた所の近く、約三十メートルの滑らかな下り坂があり、そこを下るとレストランがある」という。

 

 津木は、うそつけ、と罵ったが、女は携帯電話の地図アプリで確認を始めた。

 やがて、声を震わせながら女はいう。

「ありました。津木さんの張り込み先、喫茶店サウス・グローブの東に、下り坂」

「それぐらいわかっとる。まだボケとらん」

「いえ、ふもとに個人経営の店が一軒。民家を装い、看板もなく、近隣住民やネットで知られているところです。営業登録は料理教室……生徒のブログによると、指導する男性は元三ツ星レストランのシェフで、授業後に創作料理の試食会があり、生徒だけが、レストラン、と呼称していると」

「馬鹿な」と津木は声を漏らす。

 けけけ、と少女は笑う。


「いつ行った? こっちが把握できてない情報だぞ」

「行ったこと無いよ。真幌市に限定して、ジイちゃんが行ったところから、行ってないところを想像してみんさい。妄想でも口から出してみりゃ、わかるもんだ」

 津木は「日本語が通じん」と首を横に振る。

 少女はワインボトルを手に取り、ラベルを眺める。

「これ、北区から仕入れてるらしいな。自転車とバスで運んでるんだろ。ここからきつね通りに入って、大通公園に出て、バスに乗った。帰りは自転車を押して帰った」

 ワインをテーブルに置き、ラベルを指さす。津木はそれを覗き込んだ。

「よーく見んしゃい。ラベルの端が、めくれかけてる。こういうの、引っかくか、同じようなものと何度もぶつかって、こすれ合ってできるやおまへんか」

「軽い衝突痕と摩擦痕……だが、これだけで運搬手段なんぞ判断できん。で、さっきのは」

「基本は同じや。ジイちゃんのマッチは箱型やろ。しかも店のロゴもなく、真っ白。今時珍しいわあ。宣伝をしていないってことは、顧客がついて繁盛してるか、店主が老いてるんやろうねえ。損得抜きで古い箱型をくれるんや。今ならライターの方が安いもん。たぶん老舗ちゃうかね。そういう喫茶店はどういうところにあるんかね」

「目立つ所か隠れた所。だが、どこの店も似たような場所だった」

「あっ」と女が声を上げる。そして地図アプリをいじって、拡大や縮小を繰り返し、口を挟む。

「あんた、天才ね。でも中途半端な方言はムカつく」

「ノー。アイム、ノットジーニアス。アイム、トリックスター。もうジイちゃんもわかったでしょ?」

 少女はピースサインを作り、津木に見せる。

 ハンカチで汗を拭い、女は背もたれにかかった。

 少女は目じりを下げて、首を左右に揺らして津木を見ている。

 津木はちっ、ちっ、と舌打ちをしながら目をつむった。



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「プロファイラーは尋問方法も助言するものです。ただの心理戦です」

 津木が目を開けると、ツインテールにした少女がいた。

「次から次へと!」と津木が怒鳴る。

「嫌がらせか、さっさと主人格を出せ!」

「あと一歩ですから」と女が制する。

 立ち上がりかけた津木は、ゆっくりと腰を降ろす。

 

 キャンドルの火が揺れる。二人は口をつぐんだ。


「……私、ここのお兄さんと一度だけ、お買い物に行きました。自転車に乗って。あのとき、下り坂に」

 少女は目を閉じ、すっ、と息を吸い込む「あのとき感じた風、心地よい風」そしてぱっと目を開ける。

「冷房ではなく扇風機。そんな風速です。自転車には私とお兄さん、そして食材……総重量、百キロは超えています。お兄さんは汗だくになって、こいでくれたんです。市内には下り坂が少ないから、遠回りしてくれたんです」

 ちっ、ちっと舌打ちをしていた津木が、少女を睨みつけたまま口を挟む。

「あの男の些細な親切が、おまえにとってプラスになるのか。おまえごときに愛情がわかるのか」

「優しい人です。私がどんな人間か、ほとんど聞かないのに、ここにいていいよって、帰ってきて、おかえりなさいって。ずっと気を張っていたけど、口調がやわらかく、津木さんと同じで、向日葵のような感じがして。だから、お店も楽しくって……もしかしたら、ここなら生きていけるかもって思いはじめて」

 少女は下を向き、べそをかきはじめた。女ににもたれかかる。

 

 津木は背広からハンカチを取り出し、少女に渡す。

 

 受け取って、少女は涙を拭いて口に当てる。

 

 女が津木に微笑むと、彼はそっぽを向いた。


「で、私の張り込み先は」問いながら津木は視線の先にあるものを見て、立ち上がり歩み寄った。


「勘です」と、口にハンカチを当てながら少女は喋る。

「そのピアノと同じ要領です」


 津木はピアノの前に立ち、鍵盤を押す。音は出なかった。指を離すと鍵盤は上がるが、いくつかの鍵盤がすぐに下がりかけ次のフレーズを奏でるよう誘っていた。

 津木はしゃがみ、鍵盤の下をのぞき込む。

 盤の底を手で引っぱると四角い板が出てきた。ボリュームを調節するつまみや音色を変えるスイッチ類などがあり「練習用を改造したものか」と津木が振り返り、少女に問う。

「おまえは、このピアノのように、先に何があるか予測したのか」

「はい、頭が勝手に作っていくんです」

「私の張り込み先は当てずっぽうだった」

「はい……」

「下り坂は中央区には少ない。別の区に変わる箇所ぐらいだ。おまえらが二人乗りで通った東区方面のように。

 プロファイリングや推理には、多くの確たる情報が必要だが、おまえは心理戦だと……不確かで些細な情報を使い、私らを揺さぶった。先ほど私たちの反応を見て妄想を広げただけで、実際は張り込み先など、いっさい知らなかった」

「ごめんなさい、悪意は無いんです、ほんとうです、ほんとうなんです」

「悪意もなく私たちを誘導尋問する……吐き気がする。殺人の天才が詐欺の天才にりおった」

 とたんに少女は、声を上げて泣きだした。

 髪の毛をむしるように掻き回し、女に助けを求める。


「声が音が人が匂いが重さが感情が言葉が思想が未来が現在が過去が」


 女はバッグから小型注射器を取り出し、少女の首に打った。


 津木は二人に背を向け、キャンドルの明かりと闇の狭間にあるカウンター席に座った。


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 少女の泣き声がおさまった。

 席にもどり、津木はグラスに注がれているワインを眺める。

「理解できんが、制御できれば役に立つ」

「はい。問題は勘のするどさ。些細なこと、ほんの些細なことが疑問になり、心の奥にこびりついている。聴覚、味覚、痛覚、視覚、嗅覚が疑問を払拭しようと強く働き、もしかしたら、それら五感に支えられて新たな感覚までもあるのかもしれません」

「第六感か。オカルトじゃあるまい……が、そうかもしれん」

「診断書には、彼女の中では数百年前の死人すら蘇る……例えば、何年前に、こういう国にこんな人がいた、背丈はこれぐらい、生まれはこうで死に方はこんな感じと、情報を与えれば与えるだけ、脳が作動し、無意識に具体像を作り上げ記録してしまうと。

 時を重ねるともっと立体的、現実的になるよう書き換え、必要な知識を吸収し続ける。作業は決して終わらない。脳にとって、これ以上の負担はなく、これ以下の仕事もない。好奇心旺盛で、想像力豊か。最大の長所が最大の欠点。

 自殺願望の無いことが幸いであり不幸だと……幼少時の性的暴力がトラウマとなって、逃避作業を行い、肯定的な自分、否定的な自分、作業的な自分の三つに分割し負担を減らした。そして、理解のないセラピストによって」



 すーっと少女は髪を解き、上体を起こす。

 津木と女は腰を浮かす。

 少女はテーブルを叩いた。

 二人はとっさに右手を腰にやり、得物を掴む。

 少女はそれを見て笑っていう。

「勝てる喧嘩はしたくない。津木さんは身をもって知ってるよね。まだクセが残っている。あいつは、喉仏はわざと逸らしたそうですよ。知り合いは生きていてナンボだって」

「座れ。こいつだ」

 津木に言われて、無言のまま、女は席につく。

 ちっ、ちっ、と舌打ちして間を置いてから津木も座った。

「津木さん、お互いどうしようもない過去を引きずっても、また平和的にやりましょう。私は根本が駄目でね……おかしなカウンセラーや、ケバいセラピストは、興味のないものから逃げろと。無意味の中に意味を求めるこの、狂った脳を止めるにはそれしかないと。

 意味深げな診断とセクハラを毎日行い、合法的に廃人を製造するキチガイ施設のせいで……津木さんがくれる仕事のほうがよっぽど正常な治療だ」

 ばらけた髪を触ることなく少女は頭を深々と下げる。

 津木はその頭を叩き、なおれ、というが少女はテーブルを見つめたままだった。

「おまえ、まだ交代人格を抑え込めんのか」

「楽じゃないんですよ、精神的苦痛を癒すのは」

「男性恐怖症は抜けてきたようだが」と津木が主のいないカウンターを見る。

 少女は「セクハラですよ」と注意をする。

「津木さん、小遣いが切れたんだ。また私を使ってくれ。そのための私だし、馬鹿げた法もあるんだし」

「念のために聞く。おまえも真幌女子高校教師殺害事件に興味があるのか」

「ある。だからキモいガキとじゃれるあいつを許して情報を集め、人格交代後に連絡したんだ。そもそも。この事件の犯人像を読めない警察が狂ってる」

「啖呵をきったなら後はないぞ。吐け。長くなってもかまわん」

「盗聴されてもいい?」

「わざと難癖つけ、あの男を店から出した。その間に、違法電波の検査は済ませた」

 津木はふん、と鼻息を出す。女がバッグを漁り「記録します」と自分の名前と役職、喫茶店名、場所、日時、少女の身分を録音し、少女の肩を叩く。

「すべての発言を録音します。津木悟指導員が手記し、特別免罪処置を施行する、審議資料の一つとします。ではどうぞ」

 少女は頭を下げたまま、目の前、テーブルに置かれたボイスレコーダーを見て、早口で語った。


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「もし私がこの事件をやるなら、遺体を捨てた。指を東区、下半身を中央区に遺棄して、残りの上半身は南区の森林。左腕は南区の鉱山付近。右腕は西区の川の見えるコンビニのごみ箱。左足は西区の山のふもと。右足は東区の警察署に送り付けている。内臓はすべて拠点付近に捨てた。遺体遺棄現場はある程度名が知れており、線で繫いで、円を描くように。頭部だけ遠方にあるのは、殺害時刻発覚を操作するためで、あえてわかりやすく放置する。徐々に困難となる遺体捜査中に、右足を送り付けて、一層の不快感を警察に与え、冤罪者もつくる」

「それはあなたが以前に起こした、二天一にてんいち殺人事件の概要です。模倣犯という意味ですか」と尋ねる女の声と、ペンを走らせる音が店内に響く。

 その中に少女は己の声を入れる。

「間違っているとしたら、そこからだ。違うのか」

「事件概要は公式発表だけを参考にしてください。私の口からは校舎から発見されたとしか……どうして模倣犯なのですか」

「状況見聞からの犯人像作成、プロファイリング捜査は不可能だ……情報が少ないため、私は感覚と経験でとらえてみた。遺体さばきは私と同じく手慣れて見えるが、新たな事件が起きてないなら初犯か再犯……感情欠落者であり、成熟した体と反し幼い心を持つ。女子高を現場にする点から、オヤジくさい秩序型。昨今、他人との繋がりを実感しづらく、通り魔的犯行が主流になったが、無秩序型は死体を解体しないというパターンは変わらない。猟奇が流行りだから、モノ好きの犯人は世論の反応を過敏に気にしている。拠点付近で報道されるまで待ち、そのあいだ新たな殺人は起こさない」

「根拠にしては薄いと思われますが」

「犯人になって考えてみろ。こんなバカな犯行をしたやつが、罪の意識に怯えているならさっさと自殺を試みる。カミサマ気取りで楽しんでいるなら、リアクションを待ちつつ、何事もなかったようにふるまい、本件のように報道規制が徹底していたら無視されたと思って新たに事件を起こしている。

 どちらもクソッタレな警察がマヌケな容疑者候補ぐらい挙げているはずだろう。だったら助言する必要は無いし、もう私の行動を監視されたくないね。容疑者が不確定なら続けるが?」

「拠点とはなんですか」と女が尋ねると、くふっ、と笑いを押さえながら続ける。

「家だ。秩序型のアホは実家近辺で獲物を物色する。何故なら知った他人が存在するからで、事件の進展がよくわかる。スリルを楽しめるタイプさ……それに似て、実家そのものを現場にする無秩序型のドアホウもいるが、こちらは孤独を抱えこみ発散が苦手なタイプ。感情の爆発と事件を一度に起こす。事件発生後、内にしまい込むのは女に多く、冷蔵庫や風呂場に遺体を隠避する。外へ放出するのが男に多い。稀に後天的に前者となる例もあるが、日本で女の秩序型は暴力事件をしない傾向だ……今回のアホは男だと思われる。海外なら遺体をバラバラにし、ばら撒くマッチョな女もいるが、考えづらい」

「何故、男性による犯行と思うのですか」

「通常、女は女を強姦できない。下半身に裂傷があったはず。腰回りに上から引っかいた跡と、下から引っかいた跡……下着を脱がそう、脱がせまいと争ったのだろう。内股には爪跡が数十ヶ所あるはず。犯人にしてみれば拉致が安牌だろう。拉致監禁と強姦殺害、これを念頭に捜査するべきだ……この三日間ほど拠点付近らしき場所をうろついた」

 握り拳を作る少女の左手に、女はそっと重ねる。

「あなたは、現場と遺体を見たのですか」

「法施行を申し立てるとき、また記録中に言った。プロファイリングではなく私は経験として理解したつもり、拠点付近らしき場所をうろついたと。

 現時点でまとめると……犯人は男性、二十代後半から三十代半ば。車を所持しており、一人暮らし。真幌市中央区に在住。就職し給料は良く、教養もある。肉体労働系の職場、ストレスの多い中間管理職等、昇格の危うい苦労人。人付き合いは良いものの、異性との絡みは無い。どこかで私の事件を知って、憂さ晴らしに真似をした大馬鹿ヤロウ。これが現時点での犯人像だ」

「わかりました。以上で記録を終了します」

「いやまった……ハリネズミのように、いまも武装しているだろう」

「何故ですか」

 テーブルにばらけた髪の毛。その中から少女は女を見上げる。

 少女の拳は女に封じられて、震えて、固定されたテーブルをも揺らした。

「社会というやつが、最も巨大な犯罪幇助組織だから加害者も被害者だ。武装ぐらいして何が悪い、そんな考えをしている」

 がたがたと膝を震わせ、少女は己の右手でそれを止める。唇を動かし「頭が割れる」と呟き、頭をテーブルに落とした。


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 口述手記をとっていた津木はペンを仕舞い、メモ帳を読み返す。

 

 頭を上げた少女は、ゆっくり髪を撫でて、束ねようと、左手にあるひもを咥えながら「失礼した」という。

「くしを持ってないか……髪の毛が……」

 咥えていたひもを吐き捨て、唾を手につけて頭を掻きむしる。

 女はバッグの中からくしとゴム輪を取り出し、少女の髪をとかして結ぼうとする。ぐっと髪を引っ張られて少女の頭も後ろに引っ張られる。

 女は「シャンプーもリンスもしてないから、ボロボロだよ」とバックから寝癖直しのスプレーを取り出してふりかける。匂いの無い霧が店に広がった。

 

 少女は髪を女に任せ、その間にメモを取り出して見る。

「薬を打たれてから記憶が欠けている、メモに何も書かれていない。まさか」

「大丈夫。治療のための統合人格が出たけどね。薬はいつものやつ」

「しかも」とメモ帳を閉じた津木が少女に向かって「本気のようだ。犯罪心理学者の意見とほぼ一致しとる。私たち以外の捜査員ならば、おまえの再犯だ、確保だとほえたくるな」

 キャンドルの火が、津木の笑顔を濃く浮かばせる。皺だらけの津木の笑顔は、女に唾を飲み込ませ、手を早く動かせた。

「何故なら、クソッタレの警察、というのが大当たりでな。おまえのようなサイコパスのアリバイは、八課はおろか捜査一課も熟知しているから、上は新ボシを考えとる……が、ここの刑事はこの手のヤマに慣れておらん。下は指示を待ち続け、特に目立った行動もできず、別件の被疑者に八つ当たり。もう停滞中だ。現在の真幌市警察は、機能しない現場と、口喧嘩だけの会議室に別れとる。自分で自分の首を絞めとることすら気づかん」

 キャンドルで照らされ、津木の瞳が輝いて見えた。

「こういうときは第三者と八課の出番だ。おまえの経歴と性格は許せんし、好かん。今回もどこまで信じて良いやら……が、給料いらずのうえ、プライドの高い学者や探偵より扱いやすい。実績もある。今回も特別顧問をしろ」

 髪を結び終えた女とともに、少女は津木を見た。

 視線が合っても彼の態度は変わらない。背もたれに体重を預けたまま、ちっ、ちっ、と舌打ちをしている。

「いいのかな」

 少女が尋ねると、津木は舌打ちを止め、首を縦に振る。

「ボクは犯罪者だけど」

「私が命がけで確保したからな。いやというほど知っとる」

「精神異常者だけど?」

「甘えるな。男尊女卑の組織で揉まれてこい」

「決めるのは津木さんじゃあないし、下手をすれば混乱するよ」

「警官は市民を守るものだ。新たなガイシャが出るより、おまえが苛まされる方が良い」

「まず法務省、厚生労働省からの許可が」

「そっちの話は済ませた。明日の朝までにこのメモを書類にし、FAXで送れば了の判がついて返って来る。さあ、やるか、やらんのか?」

「やるさ。頼んだのはボクの統合人格だからね。逆らえば、ボクという人格は削除される。でも」

 頬を掻く少女は女を見る。

 女は目を伏せていた。

 息を付き少女は天井を見上げる。

「たった数年で人間が、ここまで変わるものだったとは。知らなかったな」


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 L字の廊下で、話は終わった、と青年は少女から直接聞いた。

「終わったから、帰る」と少女はいう。

 青年は頭を掻きながら、せっかく掃除したのに、という。

 少女は首を左に傾けた。

「帰るのはあの人たちだよ。ボクは泊まるつもりだが……やっぱり、いけないかな」

 あっ、と声を上げて青年は廊下をぱたぱたと駆ける。


 扉を開けカウンターに出て、スイッチを押し店内の照明を灯すと、津木と女がそれぞれバッグを担ぎレジの前に立っていた。

 女は黒革の長財布を右手に持ち、レジの前にあるCDに視線を向けていたが、青年に向き、財布から万札を取り出す。

「ごちそうさま。カレー、美味しかったですよ」

「ワインはどうでした?」

 万札を受け取り、レジを叩きながら問うものの、女は答えなかった。

 視線を青年の後ろに向ける。

 視線が合った少女は欠伸をしながらカウンターを飛び越え客席側に降りた。

「相変わらず、無茶苦茶なやつ」と女は顔と声を少女に向ける。

 少女の指定席には黒くて薄い、タブレット端末があり、それを持って操作しつつ、レジに向かって歩いて来る。

「中身を漏らすと捕まえるからね」と女がいう。

「〝角秘かくひ〟か。きっちり管理するよ。ボクの人生すら左右されるんだもの。Wi―Fiに繋ぐけれど」

「それ、すでに漏えいさせてるって、もう……あの」

 女は青年に顔を向ける。首を左に傾けて彼は、領収書を切るか尋ねる。彼女は断った。

「生活安全課の保護手続きが済むまで、あいつをお願いできますか。明日の午後二時まで……見ての通り、変なやつですが」

「元々、そのつもりです」

「ご協力、ありがとうございます」と財布から名刺とキャッシュカードを抜き、渡す。さらにバッグからピンク色のポーチを取り青年に渡した。

「幼馴染だからわかるんです。あなたに危害を加えることは絶対ありません。でもあいつは病気なんです。パニックの兆候があれば、ポーチの中にある薬を四錠飲ませて、私に連絡を。職員にもここらを厳しく警邏させます……できれば朝一番にたたき起こして、シャワーとメイクをさせてください。このままじゃ、宝の持ち腐れなので」

 ポーチを受け取り「中身はコスメと薬だけですか? 他にオーダーは?」と青年は返した。


 すると女の要件は続いた。声が少しずつ大きくなっていく。

「遅くても午前一時に就寝させ、夜食は与えないでください。こいつ、すぐコーヒーをねだるけど、スムージーとか……あ、朝食は低カロリーの和食がいいかな。昼食はエネルギー重視の中華。料金はすべてカードで。できますか?」

「我流ですが、レパートリーと栄養管理は自信あります。常連様には外国人ホームレスもいますから」

「なら任せます。それと午前十時、大通りの美容院メロウに私の名前で予約してあるので、連れていって髪をすいてやり、服もそろえてください。でも安物は駄目。私のようにパンツスーツがいいかな。高価すぎるブランドは目より鼻につくから避けて。メイクは美容院でもいいので、ナチュラルで……そうだ、柑橘系の香水、アクセサリーもほしいな。シルバーリングとか、小さなピアス。地味でも印象に残るように仕上げないと、男にめられるし」

「嘗められる?」

 尋ねる青年に「そういう職場を斡旋しようかと」と返事し「私の理想としてはですね」と注文はもっと細かくなる。


 津木が舌打ちを止めて少女の肩を叩き、親指で扉を指してから店を出た。少女もうなずいて津木の後を追う。

 音は鳴らなかった。


 

 外の道路では幾台もの車とバイクが猛スピードで走り抜けていき、パトカーがサイレンを鳴らし追いかけていく。風と爆音が街に響き渡っていた。歩道にいる市民から、そんな車の運転手と警察にむけた愚痴が聞こえる。


 津木は店先で、それらを見ながら話を始めた。少女は端末の液晶パネルを何度もタップし、スライドさせていた。

「やつはキャリア組なのに現場主義で出世を好まん。あれほど優秀な女は稀なのに」

「自滅するタイプなんだろう。被疑者に情けを与えて、逆に貴重品を奪われて逃げられるとかね」

「最後まで聞かんか……去年、ある被疑者を自ら確保して、芋づる式にバックの組織まで摘発した。お上の目に留まり警視総監賞を授与、それを手土産として今年の春、研修の名目で千葉の地方署長に成るはずだった。

 わかるか? 署長というポストは通常、女にやるものではない。やつにとって、してやったりと笑える状況だった。

 それが八課などに……理由は、友人を非道に扱ったくせ、都合の良い者だけ優遇し、威張りちらす現存の権力者を粛清したい、だと。無謀なのか理知的なのか……」

「昔からポーカーや、バックギャモン、ギャンブル性の高いゲームが好きだったよ。弱かったけど、トップに一矢報いるまで絶対、止めなかった」少女はタップしてスリープ状態にし、脇に挟んで夜空を見上げた。

 雲一つない夜空に三日月が浮かんでいた。

 津木は言葉をきり、舌打ちを始める。

「ボクは態度が悪いし、例によって信じる捜査員はいないだろうね」

「当り前だ。そもそもおまえの味方なんて、やつぐらいだ」

「津木さんは?」と尋ねるものの、すぐ口を閉じて首を振った。店の前、石段に腰を降ろし歩道を見る。歩行者は少女を一瞥して通り過ぎていく。


 津木は歩道に出た。

「第一線を退いても私は警官だ。神でも仏でも、それだけはかえられん」

 津木は歩行者に混ざり、遠ざかる。少女はその背中を見ていた。


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 扉が開く。店から女が出てきた。

 彼女は、まだ青年に向かってまくしたてる。

「面倒でも全部やってください。あいつは自分のこと何もやらないんです。誰かがリードしてやらないと」

 奥から、わかりましたぁ、と聞こえるものの女は「絶対ですよ、忘れたら家裁まで引っ張りますから」と念を押して扉を閉める。

 

 少女はこめかみを押さえて、息をはく。


「いつからボクの保護者になったんだ」

 少女の左横で膝を折ってかがみ、女は携帯電話をいじりながら答える。

「保護してない、心配してるだけ。ほら、幼馴染二号くんに近況を報告しなさい」

 持っていた携帯電話を少女に渡す。受け取り、画面を見ると通話状態になっていた。


 通話の相手は〝ダンナ〟と表記されている。

 少女は、こんなことする人間を保護者と呼ぶ、と呟いて耳に当てた。

「もしもし」と連呼する男の声が聞こえた。少女は応答しなかった。

「おーい。聞こえてるかーっ」

 少女が視線を女に向ける。店の外灯に照らされた彼女は目を細めて、口の両端をゆっくり上げたまま、黙って少女を見ていた。

 電話の向こうの男は、妻の名前を連呼し続ける。

 すると「もしかして」と声が裏返った。

「おまえ、まさか?」

「ああ……うん、たぶん。えっと、その節は、ごめん」とつっかえながら呟き、声だけの男に対し、少女は頭を下げた。

 男は笑い声を上げた。

「なんでぇ、相変わらず根暗だな!」

 むう、と少女は唸り、頭を上げ声を出す。

「笑い合える立場か。キミの率いる野球部が負けたのに」

「あーそんなもん、気にするな。来年があるさ。ドンマイ」

「万年凡打者のキミが監督になった時、明るい未来はなくなった。選手ならともかく、試合を終え、数日経っても監督がドント・マインドでどうする。ちょっと待っていろ。改善点を言ってやる」

「もしかして」と女が少女に顔を近づける。

 少女は右手で端末の液晶パネルをタップし、起動させて、動画サイトから映像をダウンロード再生した。埼玉県準決勝の様子を、早送りで見て口元をゆるませて喋る。

「準決勝9対0のコールドゲームで敗退か……ほうけているのか。問題は、キミのサインミス。野球で勝つ気も無い。チャレンジ精神のみで強くなれるものか。キミは頭を鍛えろ。百マス計算でもやれ」

 やっぱり泣かせるつもりだ、と声を大にして笑ったのは女だった。「いじめはダメだってば」と彼女は少女の肩を掴み、揺さぶる。

「聞こえたろう、ツボにはまったぞ。ボクと同じく野球を知らない人間でもおおよそ理解できる、ボロボロの采配だ。恥を晒すな」

「だけどなぁ」と男のしょんぼりした声が聞こえて、少女は口を尖らせた。

「俺ならヒッティングしていたよ。監督が無茶言っても、失敗してもそれが正解だもん……でも、あいつはバントした。俺の無茶なオーダーを実行したんだ」

「キミが怖かったんだろう。日頃の素行が見て取れる」

「そりゃあ俺の指導は荒っぽいだろうよ。体罰はしてないけど、はたから見れば体罰に見えるかもしれないな。でも、あいつらはPTAにも警察にも訴えない。告げ口が嫌とか、後が怖いとかじゃなくて……俺にすがってるんだろう」

「選手にとって、監督は親同然だろうに」

「ここだけの話な? 試合を終えて成長するのも、退化するのも、うれしいのも、悔しいのも、あいつらだ……あそこで、ああしていればって、自分で考えて、どうすれば俺抜きでも勝てるか。迷ってくれたら選手として、人間としても成長すると思ってる。サインをかえなかったのは、俺のミスと等しく、あいつらが未熟な証拠」

 少女は携帯電話を耳に押し当たまま、声を発しなかった。

「でも三年生のために、ちゃんと指揮すりゃよかったか」と男は大きく笑い声を上げた。

 少女は「監督としては失言だけど」のあとに「友人としては耳を疑うほど、大人びた発言だ」と付け加える。

 男はさらに大きく笑った。

「もう二十七歳、既婚者だからな」

「へえ、キミでも結婚できるのかい。お相手は?」

「隣にいるだろ。とってもキュートな女刑事が」

「ああ、ボクも彼女は大好きだ。友人としてね」

「その友情に負けない愛を、毎日注いでる」

 少女は通話状態のまま、携帯電話を女に返す。彼女は受け取るなり、何か変なこと吐いたな、と問い、バカヤロー、を最後にきった。

「訂正する。変わってない」と女は立ち上がって伸びをする。


 少女も立ち上がり、己の脳天にタブレット端末を持ってくる。その高さを維持したまま女に向かわせる。彼女の鼻に届いた。

「時は止まらない。ボクらは流れ続ける時の只中だ。変化を自覚できなければ生きる実感もない」

 背を図った端末を脇に挟み、顔を下に向ける。

「先輩とはいえ、同じ施設で育ち、ボクより小さかったはずのキミに背を超えられた。ボクは……ほんとうに生きているのかな。もしかしたら、とっくに」

「あれ、センチメンタル?」と、女が身をかがめて少女の顔を横から見る。

 

 少女は、目を合わせ、唇の端を釣り上げて、前歯を出していう。


「羨ましくてね。ずっと彼に惚れていたから、どうやって寝取ろうか思案している。だが、もやっとしてる」

「うそつき。頭が冴えて、さあこれからだって生き生きしてる」

 むう、と唸り少女は顔を上げる。

 女が指を立てて「あんたの、誘導尋問はこんな感じ?」という。


 少女は頭を掻き、こんなのが現職の警察官に通じるか不安だ、と呟くと女が右手を差し出した。

「あの津木さんに、私の前で恥をかかせたんだから。自信持ちなよ。駄目なら一緒に落ちてあげる」

 そういう女は先と同じ笑顔でも、汗を浮かべていた。

 少女はまったく汗をかかないまま、差し出された右手を握った。

「ボクは犯人への憤りと確信を持っている。捕まえるまで諦めない」

 風が二人と歩行者を揺らす。突風だった。住民たちは会話を続けながら歩いて行くが、あるグループが驚き、風が生ぬるいという。

 握手をほどき、女はハンカチで汗を拭う。

 少女は手を団扇のように上下に振って彼女へ風を送った。

「国内外、過去十年間の類似事件データ、今回の遺体状況および捜査状況、真幌の地形と住民データがそろった。もうボクの脳は作業を始めている。想像できない人間はいない」

「なら明日、妄想を資料まで昇華させ、管理官に説明だね。捜査、確保の手順を……ちなみに八課あるあるで、地方署長に絶対、横暴だと愚痴られるんだよね」

 少女は扇ぐのを止めた。

 女は己の頬を、ぱちんと叩き「でもやる、そういう仕事っ」と背広の襟を正して歩道に出る。流れ行く歩行者は彼女を勝手に避けていく。


 少女は軽く手を振ったが、女はショルダーバッグを抱えたまま、返事もせずに見つめていた。

 少女が首を左に傾けると、一つだけ、と女が尋ねる。

「あんたの憤りはわかる。下手なモノマネだからでしょ」

「うん。まずボクは犯罪をゲームだなんて考えてない。そこを勘違いしているただの馬鹿だ」

「でも確信って何? 犯人がわかったの?」

「仮説だけどね。でも古今東西、未来の刑事も、わからないほうが好ましい」

 左手で少女は己のこめかみを、とんとん、と叩く。

「犯罪者を聴取すれば生活習慣や動機、犯行時の感情ぐらい知り得る。そこで自分自身が今回の犯人に成りきり、リアルとフィクションで何度も事件を再現して逆探する……早期決着できる策だけど、今回はボクが脳内でやる。生活が一変するぐらい自身の思考と犯人の思考を同居させないと意味が無いし、キミがやればダンナがバラバラにされかねないだろう? ボクなら、たとえ崩壊しても交代人格がフォローしてくれる」

「あんたらしい、自虐と自信が混ざった発言だ……いいところ見つけたね?」

 ゆっくりと女の視線が上っていき、少女もその視線を追うように体を翻す。店の上、照明が無い壁を見る。

「あの人なら、あんたを受け入れてくれそう。安心したよ」

 首を横に振って少女は「何を馬鹿な」と振り返る。

 すでに女の姿は無く、無数の歩行者が行きかうだけだった。


 少女は店の扉を開け入る。音が鳴らない。ゴミ袋に無数のワインボトルを詰め込んで、抱え持った青年が「プレートを降ろしてください」とカウンターの奥の住宅へ入った。

 少女は、もう降ろしてあると返事して、青年の後を追った。

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