伊勢物語
田中紀峰
はじめに
斎宮とタブー
少女の頃、賀茂の斎院となった式子内親王は、恋多き女だった。
誰が彼女の恋人であったか。特定はされてないし、実在も確認されてないが、少なくとも、その誰かわからぬ相手に対して少なからぬ歌を詠んで残した。
式子は待つ人であった。
「松」とは「待つ」である。
山深み 春とも知らぬ 松の戸に 絶え絶えかかる 雪の玉水
彼女は激情的な恋歌ばかりを詠んだのではない。『新古今和歌集』の冒頭から三つ目に載るこの有名な歌でさえ、実は単なる初春の叙景歌ではないのかもしれない。
「松の戸」とはある人が開けて入ってこないかと待っている戸である。
「松の戸」にかかる玉水は、その人の訪れが「絶え絶え」であることを意味する。
山が深く雪が積もっているから来ないと言っている人を式子はただひたすら、自分の部屋に閉じ籠もって待っている。
雪の玉水は式子の涙を暗示しているだろう。
もしこの解釈があっているなら、まさしくこの歌は『新古今』を代表する超絶技巧の歌だ。そしてこの歌の真意はおそらく定家以外は気付いていなかっただろう。式子の恋は人に決して知られてはいけない恋だったのだから。
式子は自分の境遇について、自分の恋について、人に語りたかっただろう。しかしそんなことは許されない。絶対に秘密にしなくてはならない。だから、遠い未来に、わかる人が現れたときにわかるように、歌にヒントを残した。そのヒントに最初に気づいたのはもしかしたら私なのかもしれない、と驚くとともに意外な気持ちもした。
『新古今』冒頭、式子の前に掲げられた二つの歌は、九条良経と後鳥羽院。二人とも、式子の子供くらいの年齢で、恋の相手ではあり得ない。ただし、これらの歌が、つれづれを嘆いている式子を慰めるために贈られた歌だった可能性はあろう。
みよしのは 山もかすみて しらゆきの ふりにし里に 春はきにけり
ほのぼのと はるこそそらに きにけらし あまの香具山 かすみたなびく
なめらかでやさしい歌ではあるが、あまりにも形式的で、特に優れた歌には見えないが、式子の歌を導き出すプレリュードとしては完璧である。と同時に式子の歌をカモフラージュする役割も果たしている。式子の歌もまた、前の二つの歌と同様に、単なる叙景の歌であろうと、人々に思わせたのだ。
しかし、式子の歌を前後から切り離して単独に見てみれば。あるいは式子の恋の歌の中に投入してみれば。あるいはこの歌を『恋』の部に挿入してみたら。この歌が意図するところはあまりにも明白ではなかろうか。
これらの仕掛けについて当然、九条良経と後鳥羽院は知っていたはずだし、そのアレンジをしたのはほかでもない、藤原定家であったはずだ。この三人だけが真相を知っていた。そのような意味において、『新古今』は実は極めて私的な歌集であった、と言うこともできる。
式子が待っていた人とは、九条兼実だったのでないか。
通常、式子のお相手は定家だと考えられているが、式子のほうが定家よりはるかに年上で、どうもあまり考えにくい。
式子と兼実は同い年で、内親王と摂家の御曹司、幼い頃から二人に接点が無いはずがなく、恋仲だったかどうかはともかく、ごく親密な関係であったはず。
私は、式子内親王が賀茂の斎院を退下したのは、彼女が兼実の子を身籠もったせいではなかろうかと思った。
もし式子が出産したとして、その子はどうなっただろう。内親王は天皇や皇族としか結婚できないが、当時、余った皇子は寺に入って法親王となるならわしで、僧侶である法親王もまた表向きは結婚できないし、子も持てない。ともかく内親王が夫や子を持つのは原則不可能であり、いたとしても公表はできない。社会の表舞台には出られないのだ。母が、そして父が、我が子にそんな味気ない人生を望むだろうか?
式子斎院退下の時期と良経の生年は完全に一致するのである。
式子と良経は歌を詠み交わしている。式子が子や夫と密に連絡を取りあっていた証拠ではないか。
式子に恋の相手はいただろう。
でなきゃ恋の歌なんて詠まない。詠めまい。あのように激情的な歌が単なるフィクションであるはずがない。
では誰か。誰が式子の相手だったのか。その候補を検討していくと、最後まで残るのは兼実しかいないのである。
これは、かつて『虚構の歌人 藤原定家』に書いた、まだ誰も指摘してないと思われる説である。定家が秘してのち、八百年余り誰にも知られていなかった真実?
内親王の子というものは、ほとんど知られていない。
内親王が皆、一生不犯であったなどとどうして信じられようか。内親王はものすごくたくさんいる。何百人といるのに誰も男性経験がないなんて信じられない。
そんな荒唐無稽な話を信じられるのは斎宮や斎院が実在しなくなった現代に生きる人だけだ。非実在キャラクターにはどんな属性も付加できる。斎宮や斎院といえど普通の女だ。そういう女性が一般人に交じってたくさん生きていた時代に、非現実的なまでに厳格な純潔を期待する人がいただろうか。
そもそも神道は、そんなに性的に厳格なものではない。せいぜい、伊勢神宮の境内の中では、血で穢れるから出産してはいけません、という程度のものだ。
ちはやぶる 神の
このような歌が人麻呂の歌として平気で人々の口に上っていたのである。通い婚の時代に、高貴な、聖なる女性に通っていくことには、当然暗黙の了解があった。
『伊勢物語』に伊勢斎宮の駆け落ち事件が採られていることは、伊勢斎宮のスキャンダルが、決して皆無ではなかったことを意味しているように思う。
ただ、『伊勢物語』は明らかに後世の人が脚色している。皇太后藤原高子や、恬子内親王が名指しで登場する。彼女らに浮いた話がなかったとは言えない。しかし、『伊勢物語』に出てくる話はもとは別の人の話で、後世それが有名人、高貴な女性にむすびつられただけではないかという疑いは捨てきれない。誰もが知っている人の話にしてしまうことも巧妙なカモフラージュの一種だ。
かつて伊勢神宮には斎宮が、上賀茂神社には斎院という未婚女性が派遣されていた。
伊勢神宮の縁起についてはいろんな伝説があるようだが、天武天皇2年、673年に天武天皇の皇女、
賀茂斎院は、810年に嵯峨天皇の皇女、
建武の新政が瓦解して斎宮はとだえた。1334年のことだ。
斎院は承久の乱によって途絶えた。1221年のことだ。
しかし斎宮・斎院が、いずれも古墳時代から中世武家社会まで連綿として継続したおかげで、おそらく日本太古の風習であるシャーマニズムが、かなり純粋な形で残ったのである。
この風習はかつて広く世界中に見られたはずだ。ギリシャにもデルフォイやドードーナに託宣を授ける
現在でも、ネパールの首都カトマンドゥには、生き女神クマリがいる。クマリとはサンスクリット語で処女という意味だ。クマリと日本の斎宮、斎院の類似性は疑いようもない。太古のアジアに広く、女神が処女に宿るという信仰があった証拠に違いない。
斎宮や斎院には極めて厳格な禁忌がある。これが、儒教や仏教などの外来宗教と、神道が完全に混淆してしまうことをかろうじて防いだ。シャーマニズムは儒教や仏教とは相容れない。というよりも、シャーマニズムのような原始宗教を否定し駆逐することによって、キリスト教や仏教のような普遍宗教は生まれてきたのである。あたかも現代医学が原始社会を衛生的に滅菌してしまうように。
ユダヤ教も預言者というシャーマンに依存し、シャーマンによって生み出されたが、シャーマニズムを否定することによってキリスト教となり、イスラム教となった。仏教もバラモン教を否定することによって普遍宗教となった。ギリシャ、ローマ、エジプトの宗教もみなきれいさっぱりと現実社会から拭い去られ、過去の記憶にされてしまった。
神道は仏教によって侵食されていった。
奈良県桜井市初瀬に長谷寺があるが、ここは雄略天皇時代の王都であった。しかしここにはもはや密教しか残っていない。高野山も同じ。ここは原始神道の揺籃であったはずなのだ。
長谷や高野山などの辺鄙なところに太古から脈々と密教が受け継がれているのは、ここがかつて原始神道の本場であって、それが仏教の影響を受けて密教化したからに違いない。
我々は、長谷観音信仰に、シャーマニズムの残像を見る思いがするが、ここでは神道は完全に真言密教と混淆していて、痕跡しか残っておらず、原型を推測するのは難しい。
別の言い方をすると真言密教と原始神道には密接な関係があって、宇多天皇や後醍醐天皇はそのことに気付いていた可能性がある。
渡来系の神道、たとえば宇佐八幡などは容易に仏教と混淆した。
春日大社は興福寺と混淆し、熱田神宮でも平安時代にはすでに写経が行われている。延暦寺などはわざわざ日枝神社を作り出して垂迹説を流行らせた。そういった仏教の影響を受けなかったのは、伊勢神宮と、上賀茂神社と、(ごく一部の)宮中祭祀しかないのである。上皇は出家することもあったが、天皇はかなりの程度、仏教から切り離されていたし、今もそうである(外来の即位礼は仏教の影響を受けたが大嘗祭はほとんど受けなかった)。それら外来宗教との混淆を峻拒し続けたのは男性である天皇ではなく女性である斎宮なのである。天皇は女性、つまり斎宮を兼ねることもあり得た。それゆえに、天皇にまつわるタブーは残った。また斎宮を持つ伊勢神宮と上賀茂神社にもタブーが残り得た。
伊勢神宮にも無数の神宮寺が寄生し取り巻いていた。しかしその中心に、仏教が立ち入ることができない聖域は残ったのである。
このわずかに残った聖域のおかげで、明治の神仏分離令によって、神宮寺はほぼ完全に消滅した。神宮寺は、今では人の名字くらいにしか残ってはいない。
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