夕焼けヒーロー


 佳奈絵とは、学生時代からただただ仲が良くって、男女の友人関係にありがちな浅ましい匂わせ方や身体の関係もなく、俺は佳奈絵と会うたびに、それがただ嬉しかった。


「ジュンヤくん、ジュンヤくん」

 なあに、と答えながら表情を緩めて見つめる。

「ターッチ」

 小さな小さなハヤトの手にハイタッチして、目線を合わせておでことおでこをくっつけると、ハヤトはその愛くるしい丸顔を笑顔でふにゃふにゃにして声をあげて笑う。

 隣を歩く佳奈絵も笑ってその様子を見ていて、昔よりは年を重ねた、長い付き合いだから分かる微妙な生活疲れ感と、子どものいる母親としての優しい笑顔で俺を見つめる。

「ありがとね。今日付き合ってくれて。旦那、仕事入っちゃってたから」

「いや。俺もハヤトに会いたかったし。ねーハヤト」

「ねー」

 オウム返しするハヤトに、無邪気なもんだと胸の中でくすぐったい気持ちが揺らいでいるのを自覚しながら、俺の股下くらいの身長のハヤトと手を繋ぐ。


 季節は春の盛りで、緩やかな南天の温かさがシャツの脇にうっすらと汗をかかせる。


 ベビーカー卒業の仮免といったところの、よちよち歩きのハヤトと佳奈絵に付き合って、俺は野花の咲く川沿いの土手をのんびりと楽しんでいた。

 この子が生まれてすぐに、「おじさんって呼ばれたくないから、ジュンヤくんって呼ぶように仕込んどいて」と佳奈絵に言った事が思い起こされる。

 だから今は、ようやく話せるようになってきたこいつに、名前を呼ばれるだけで嬉しくなる。

「こうやってさ」

「ん?」

 佳奈絵が空のベビーカーを押しながら口を開く。

「こうやって、純哉がハヤトを遊んでくれたり、私と会ったりするのも、きみが結婚でもしたらなくなっちゃうのかな?」

 俺は少し考えながら、ハヤトの手をぎゅっと握る。歩きながらハヤトも視線に入れながら彼女と会話をするのは、まだちょっと慣れない。パッ、と急に走り出されたらこわいからだ。

「うーん。俺は気にしないけど、未来の嫁がどんな反応するのかは未知数だよな。子どもが出来ればさすがに我が子優先にはなるだろうし」

「まあそうだよね」

 佳奈絵は昔から変わらない澄んだ声でそう言い、鍔広の帽子の中で横顔を笑わせた。


 都心から少し離れたこの河原は、川沿いのフェンスもしっかりしているし、原っぱは野草や小石がふんだんにあるので、ハヤトを放し飼いにするには絶好の定番スポットだった。

 ハヤトが草を引っこ抜いたり石を集めたりしているのを眺めながら、俺と佳奈絵はレジャーシートで麦茶を飲む。

 川面はきらきらと陽の光を乱反射していて、そよぐ風に温かな日光、時折聞こえる鳥の声などが、あまりにもドラマチックな日曜日の昼下がりその物で、一瞬現実感がなくなる。

「佳奈絵」

「ん、どした?」

「いや。なんかさ、すげードラマみたいって思ったんだよね、今」

 佳奈絵もすぐに意味を理解したようで、髪に指を通しながら口を笑わせる。

「わかる。銃撃戦も恋愛模様もないほのぼの日常ドラマね」


   ※


 時刻は十五時を回り、僅かに日が傾きだした。

 さすがに野遊びに疲れたハヤトはレジャーシートでうとうとしていて、俺は、そろそろタバコが吸いたいな、と思い始めていたところだった。

「ピクニックですかねえ?」

 急に声が聞こえて振り返ると、六十歳は越えていそうな、しかし老人と呼ぶにはまだ早いような老年の女性がこちらに近づいてくる。

「ええ、まあ」

 佳奈絵も笑顔で答え返すが、内心ではどっか行ってろと思ってるだろうなと、俺の感情がやや反映された推測をする。今寝てるうちにベビーカーで連れ帰った方が楽なのだ。

「三歳くらいですかねえ」

「ええ。そのくらいです」

 実際ハヤトは先月二歳になったばっかりだが、これで佳奈絵も面倒くさいと思っていることが証明された形だ。

 まだ何か言いたそうな女性が口を開きかけたその時、ハヤトはむっくりと起き上がって、いきなり目の前にいる知らない女性をじっと見て固まった。

 ああ、起きちゃったか。いや、別にもういいけど。

「ジュンヤくん、だれ?」

 俺に聞いてくる顔は無邪気そのものだが、その辺のババアだという訳にもいかないので、「知らないお姉さんだよ」と心を殺して言った。

 ババアは降って湧いた大人対応のヨイショにテンションを上げ、ご機嫌で話しかけてくる。

「今の子はパパを名前で呼ぶのねえ」とか「ぼうや、お名前は」とか……。もう、可能なら固い棒で叩きたいくらいだ。

「ジュンヤくんだよ。パパじゃない」

 突然、ハヤトはそう宣言した。

 ハヤト、そうだけどそうじゃない。つっても仕方ないわな。

 ババアは今の今までの上機嫌から一転、汚らわしいものでも見るように俺を見て、佳奈絵を睨み、それでもハヤトに引きつった笑顔を浮かべて去って行った。


「親って大変なんだな」

「なに、さっきの話?」

 俺はベビーカーに眠ったハヤトを乗せて押しながら、夕方の細道で佳奈絵に話しかける。

「それもあるけどさ、育児して大人して仕事もして家事もして妻もするんだろう? 俺には無理、結婚も子どもも当分先でいいやって思っちゃうよね」

「ふふっ、ありがと。でも純哉は、良いお父さんになると思うよ」

「空想みたいな愚痴だけどさあ、お前がシングルマザーで、俺はお前たちに何かあったら駆けつけるヒーローみたいな出番だけってのが、理想だったなあ」

「なあに、それ」

 佳奈絵が可笑しそうに笑う。

「俺は今のまんまで、でも決め所でバシッと決めるヒーロー。きっと視聴者人気一位だぜ」

 佳奈絵は目を細め、口だけを笑わせる、あの頃の笑い方で斜めを見た。

「そうはならないから、ドラマにはなれないのよ」

 俺は西日の影がかかる佳奈絵の顔を見ながら、その笑い方をする時の佳奈絵はいつも、少しだけ悲しそうに見えていたな、と思い出していた。

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