壁を一日眺めてみる


 やる事がない、という事がこんなにも苦痛だと改めて気づかされたのは彼女が出ていった、がらんとした部屋で一人タバコを吸っている時だった。一日中、たまのお互いの交友関係と仕事以外は一日中、一緒にいた半年。あくびと共に吐き出した吐息は「臭いからやめてよ」なんて返事もなくて深夜の窓ガラスに当たって形を失った。

 音楽を聴く気にもゲームをする気にもなれない。酒も、今はいい。気持ちが沈んでいきそうだから。テレビも下らないから元々一人ではそんなに見ないし。見るのは映画がやっている時だけだ。

 耳鳴りがするほどの静寂。夜もふけ、この辺りは騒ぎ出す若者もいない少し高級な住宅街。二人で借りた部屋だからそう遠くないうちに引っ越さなきゃいけない。その準備も本当は早い方がいいんだろうけど、ただただやる気が起きない。彼女が唯一残していった文庫の小説が本棚の中にあるのが見える。

 壁もカーテンも黄ばんだ部屋の肌を撫でてその感触を意味もなく繰り返す。たまに引っかかる指先。セックスの最中、勢いで足の親指の爪で傷つけた壁紙。まあどのみち出ていく時に全て張り替えるんだろうからどうでもいいが。

 そう言えばあの頃からだったな、当たり障りのない会話が重要なんだって気付いたのは。自分にはそういった思考ゼロで自然に場を和ませる才能があるって自覚したのは。

 会社での日常。合コンの場つなぎ的な会話。そして彼女を初めて当時の家に招いた時の、あのある種独特の沈黙を避けるように口から出まかせた言葉。

「あなたってすごく話しやすい。話しててすっごく楽しいな」

 あの一言が、彼女が初めて俺に露骨に好意をみせた、最初の瞬間だった。

 付き合ってから同棲まではそんなに時間はかからなかった。彼女はそのラインを超えてから急に積極的で俺にも拒む理由が思いつかなかった。

 そして普段の俺たちは非常に穏やかだった。穏やかに会話して、優しく頻繁にスキンシップをとり、飲める口の二人は休日には昼間から夜更けまで何するでもなく部屋にいた。そこには例の当たり障りのない会話が常に存在していた。

 別れ際ですら俺たちは俺たちらしく、大きなケンカをすることもなく淡々と彼女は去り、俺も納得していた。ところが、その空白を思い知ったのは割とすぐにだった。声をかければ当たり前に返事が返ってくる日常に慣れ、うっかり部屋で独り言を漏らした時、そこにもう彼女はいないんだ、と強烈に実感した。別れるとは、そういった事も含まれていたんだなって思った。

 仕事から帰ってくると「タダイマ」と言いそうになる。

 眠りにつく前に「オヤスミ」と口をつきそうになる。

 そして、そこに甘く響く彼女の声はない。


 眠りから覚めて、ベッドから見上げた天井は低く、枕が二つ並んでいたスペースには俺だけが大の字になっている。横を見れば壁の向こうに、朝目が覚めた瞬間から眠りに落ちるその瞬間まで、途切れることなく笑みを浮かべていた彼女の顔が浮かぶ。

 今は誰の横でその笑顔を咲かせているのだろう。悩んだ顔も年上には見えないくらい可愛かった、彼女の、あの、微笑みは。

 時刻は昼前で、仕方なく買い置きのパンをくわえ壁を見る。

 雨の降る音が聞こえてきた。曇ってきたな、と思っていたら急の驟雨で、その暗い空が部屋の明かりもつけていない事を教えてくれた。

 せっかくの自由な時間も意味がない。だってそこには感想や相槌をうつ彼女がいないから。

 彼女といたこの空間を、そう遠くないうちに俺は手放す。

 新しい部屋も周りにある店も変化して。

 そして俺は彼女のいない新世界で、また話術をこねくり回すのだろう。

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