第30話 過去の亡霊⑥

 そして――婚姻こんいんときが訪れた。

 日付が変わって朝を迎えてはいるが、しかし太陽はずっと闇に閉ざされている。

 だがそれも地下にいれば関係ない。くら獄中ごくちゅうで灯りもつけず、暗いしとねのうえに座している。光の届かない閉鎖空間でサーシャはじっと息を潜め、生贄いけにえとなる瞬間を待っていた。

 絶望的な暗闇のなかでサーシャだけが茫洋ぼうようとした光を放っている。首に白粉おしろいを塗り、入墨を隠しているのだ。さらに、純白のドレスをまとい、金やダイヤで着飾っている。髪にくしを差し、唇には薄く紅も引いている。鏡に映る彼女の容貌ようぼうは、過去の亡霊ではなく、地下牢の魔女を生き写していた。

 いまはサーシャではなく、サクヤなのだと自分に云い聞かせる。

 彼女は、サクヤとオルドロスの式を挙げさせるために、スケープゴートの代理を買ってでたのだ。

 策を話したあと、サクヤに「貴女はそれでいいのか」と何度も問い詰められた。

 いいと云った。

 サクヤ様のためならば、たとえこのまま永遠に闇のなかで過ごすことになろうともかまわない。貴女様に希望の光を与えるのは、オルドロスでもなく、黒騎士でもない。この私だと胸を張った。

 その気持ちに虚勢きょせいや偽りはない。

 独りになった今でも変わらない。

 決意の固さにサクヤは悲しそうに首を振り、最後は沈黙した。そして彼女は昨日のうちに駕籠かごで運ばれていった。いまごろは別の場所で式を挙げているころだろう。ほんとうならば街をあげて盛大に祝福しゅくふくするところだろうが、式は一部の関係者にしか知らされていない。城内のどこか――おそらく玉座だろうが――でしめやかに行われる。一般の者が這入る余地はない。

 そして式は魔法となり、最後の審判を下す。

 オルドロスが神の代弁者・ストーリーテラー役を務め、サクヤが光の巫女みこ・スケープゴート役を果たす。彼らに選ばれた者だけが新たな世界の住人となれるのだ。

 サーシャにもその資格はあった。

 盲目の医者・アンでさえ選ばれたのだ。ずっとサクヤの傍で仕えていたサーシャが選ばれないはずがない。紛い物の生贄ならば他にもいたはず。なにも自ら死地に留まる必要はなかった。

 魔法が成就じょうじゅすれば、この世界は終焉しゅうえんを迎えるのだ。

 それで永遠にお役御免やくごめんである。

 思えばなんと健気けなげなことだろう。命を懸けて献身するのはこれで二度目になる。躰は成長しても心のうちは幼いころとなにも変わっていない。

 自分で自分を傷つけたあの日のように、いまでも死にたがっているのだろうか。

 否、きっと違う。

 サーシャは死の恐怖をっている。知識としてではなく、己の躰を通して体験しているのだ。だからやはり、彼女にとって死は、根源的に忌避するべき対象なのだろう。

 だが、それでもさみしさや虚しさはなかった。

 むしろ最高に気分が良い。命を投げ打つ行為は排泄はいせつするよろこびにも似ている。抱えこんだ重荷を棄ててしまうような、そんな清々しさがある。

 サーシャはベッドから下り、裸足のまま祭壇さいだんに立った。冷えた空気が肌を刺す。

 高い位置から見下ろす眺望ちょうぼうは見通しが良い。暗くて全体を把握することはできないが、誰もいないことだけはよく分かる。在るのはおびただしい数の書架しょかとそこに収められた無数の本だけ。それらを除けば、広い地下牢にはサーシャだけが存在している。

 静寂のなかで己の呼吸と脈だけが聞こえた。いまこの世界を地下牢の魔女として支配しているのは紛れもなく彼女だ。サクヤがいては見ることができない景色であった。

 もちろんサクヤには感謝しているし、恩返ししたいとも思っている。いまでもうしろ髪を引かれる想いが残るが、それでもサーシャはこれで良いと思った。

 ――サクヤ様がいては主人公になれない。

 病弱な才女だけにかぎらない。

 サーシャは大勢のなかで積極的に生きることができなかった。奴隷と貴族では生まれた世界が違えば住む世界も違うのだ。入墨の少女にとって上流階級は、文化が異なれば習慣も違う異次元であり、異世界なのである。

 見るものも聞くものも初めての体験ばかりだった。予備知識もないまますぐに馴染なじめる者はそういないだろう。

 いくら同じ人間だと認めてくれても、同じ言語を介していたとしても、どうしようもなくめがたい格差を無くすことはできなかった。サーシャが無意識に築いた劣等感コンプレックスという名の溝である。

 もちろん、補おうと努力はした。読み書きを覚えるとともに礼儀や作法も学んだ。だが、生まれ持つ気品や風格というものは、あとから容易に身に着けられるものではない。努力することが美徳だと信じる向きもあるが、圧倒的な天賦てんぷを前にしてはどんな美辞麗句びじれいくかすむばかりである。

 知識が増え、経験を積むほどに、サクヤとの距離を感じざるを得なかった。

 ――自分は偽物だ。

 ――本物ではない。

 裏側から覗く世界は張りぼてで、誰も彼もが書割かきわりで、最底辺の村社会であろうと、華やかな社交界であろうと、他人に仕えているかぎりはどこに所属していようと奴隷どれいと変わらなかった。

 三つ子の魂百まで忘れずのことわざどおり、入墨の少女は生まれもった性分しょうぶんを変えることができなかった。嫌というほど躰に沁みついたコンプレックスによって、主体性というものを見失ったのだ。サーシャは自分が世界を動かす歯車のひとつであると識っている。しょせん小さな部品に過ぎないのだ。他人の歯車を動かせるほどの影響力はない。

 それでも人は愛をうたい、絆をたたえる。

 だけど真実は違う。

 繋がることが美しく、離れていては生きていけないと、見えない誰かが信じ込ませようとしているのだ。そうすることで得をする誰かが影に潜んでいるのだ。

 すべて黒騎士が云っていたとおりだ。だけど……

 ――世界をかたっているのは誰だろう? 

 誰もが独りで歩ける喜びを知らぬまま年老いて、足腰が弱り、精神がえたときにようやく悟るのだ。人ひとり消えたところで気にめる者はいないのだと――。

 その点、サーシャは早熟そうじゅくだった。

 幼いころから劣悪な環境で育ったためだろう、他の者よりもずっと独立心が強かった。はすにかまえて奈落ならくの底を覗き込むように、蜥蜴とかげの群れでも見るように、鋭い洞察力を持って人間社会を俯瞰ふかんしてきたその結果――世界は自分がいなくとも回っていくのだと理解した。

 それが彼女の出した結論である。

 誰もが他人を利用することしか頭にない。そんなやからたちと世界を共有するなんてまっぴらだ。からめ捕られてなるものか。

 人はみんな、独りで生きて、一人で死んでいくのだ。

 ならばひとりがいさぎよい。

 ひとりならば主人公にだってなれるだろう。

 帰る故郷を失くし、両親を亡くし、親戚縁者や頼れる者もいないサーシャにとって、消えゆくおりのなかに留まることは、窮屈で息苦しいこの世界に対するささやかな独立革命であり、自由を求める叛逆はんぎゃくの精神だった。

 この首を絞めつけるものはなんだろう? 

 いっそ強く括ろうか。

 ナイフを突き立ててもいい。

 そうすればきっと風通しも良くなるだろう。

 どうせ間もなく世界は消えてなくなるのだ。命を懸けるだけの価値はある。だけど……

 とつぜん天井に穴が空いた。

 敷き詰められた岩盤が崩れ落ち、まばゆい光が射し込む。

 光を背にして立っているのは光沢のある黒い輪郭りんかくだった。逆光で暗く映っているのではない。漆黒の手甲鎧に、暗黒の仮面兜。細かい金細工が各所に施されているものの、そのほとんどが黒く塗り潰されているのだ。

「ようやく見つけたぜ、スケープゴート」

 黒き者が云った。

 明るさに慣れて見つめたその顔は――わらっている。

「どうだい、助かりたきゃあ俺が救ってやらなくもねえぜ?」

 サーシャはその、黒い翼を羽ばたかせて舞い降りてくる黒き者を括目かつもくする。

 壁を壊して現れたのは全身黒ずくめの騎士――自称死神の少年だった。

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