第27話 死神の初恋⑳

 それは人の形をした、人ならざるものだった。

 もちろん動くこともなければしゃべることもない。乾燥し、ひび割れ、朽ち果てているだけの木乃伊ミイラだった。

 だが、抜け殻のような肢体を覆っているのは包帯ではなく、純白のドレスだ。そのきらびやかな衣装がかえって異様さを強調している。

「どうだ見てみろ、この美しい姿を」オルドロスはベッドに横たわる木乃伊をやさしく抱き上げ、振り返った。「こんなに生き生きと輝いているじゃないか」

 その眼にはうるわしき妻女さいじょとして映っているのだろう。最愛の人をでるように恍惚こうこつの表情を浮かべている。彼だけはすでに魔力のとりことなっているようだ。

「いいや……そこに在るのは躰だけだ。魂は無い」

「魂なら在るさ。このなかにな」オルドロスは己の眉間を指差した。

「無いものを在るとしているだけだ」

「貴様はまだこの世界のことわりが理解できていないようだな。いいか、よく聞け。人間は生まれてから二度死ぬんだ。一度目は肉体の死。そして二番目は魂の死。魂とは人としての情報であり、記憶や記録と置き換えられる。記憶や記録は言葉や文字となり、あまねく物語となる。人はな――すべての物語から忘れ去られないかぎり永久に不滅ふめつなんだよ」

 オルドロスは死神のように嗤った。

 命を操る司祭しさいのように振舞う。

「魂さえ在るならば、あとは元の躰に定着させて治癒ちゆを施してやればいい」

「魂をぶなど人智じんちを超えている」

「ならば人ならざる者の力を借りればいい。妻を眠りから覚ますための条件を整えるために十五年もの歳月を費やした。だが待った甲斐かいはあった。貴様は今日、なにが起きるか知っているか?」

「……日蝕か」

 それはハクロが誕生した日に起きた出来事である。ストーリーテラーなる者の力が世界各地で怪事件を起こしたと記録されている。その日蝕が再び現れようとしているのだ。

「今回はあのときの日蝕よりもさらに強大となる。『最後の審判』が始まれば天の扉が開き、眠りについた者も容易に目覚めるだろう」

「神の力を利用しようというのか!?」

「神だろうとなんであろうと、本質は言霊と変わらない。妻を元に戻すためなら悪魔だろうと手懐てなづけてみせるさ。今度こそな」

「今度こそ――って、まさか!?」

「思えばあのころの妻は様子がおかしかった。貴様ごときになびくなど……きっと、魔が差しただけなのだろう。だから死神の子を産もうなどという戯言たわごとを吐いたのだ。貴様をほうむるついでに正気を取り戻させてやろうと思ったのだが……どうしてこうも人生はうまくいかないものなのだろうな。不甲斐ふがいない術者どもはあっけなく死んでいくし、裏切り者は出るし……やはり、ただの狂言きょうげんでは効果がなかったようだ」

「狂っている……」立ち眩みがしてハクロは一歩退いた。「その身勝手さが世界を滅ぼすんだ!」

「妻のいない世界など滅びたも同然だ!」オルドロスは激昂げっこうし、叫んだ。「黒騎士・ハクロよ。貴様さえ俺たちの前に現れなければ、きっといまごろはなにもかもうまくいっていたはずなんだ。妻の病気だって、きっと……」

 口許を押さえ、背中を丸める。嗚咽を漏らしながら睨みつけるその表情は呪われたようにみにくく歪んでいた。

「だがそれも今日でむくわれる。さあ、それでは式を始めようか」

 オルドロスは己の下唇を噛み切り、流れた血液をめ取る。

 そして命を分け与えるように、魂無き躰に口づけをした。

 狂気が。

 影が大きく渦巻く。

 オルドロスを中心に旋風つむじかぜが巻き起こる。

 すべての灯りが消え、天井が崩れた。

 厚い雲までが吹き飛び、宇宙が顔を覗かせる。

 月明かりはない。

 太陽も昇っていない――否、隠れているのか。

 すでに日蝕が始まっているのだ。

 黒く染まった新月に遮られ、太陽が失われる。

 すべての光を閉ざすと月はさらに移動していく。

 だが、太陽は顔を見せない。

 代わりに視えざるものが姿を現した。

 それは黒い円形の扉だった。

 扉は音もなくふたつに割れ、深淵なる闇を覗かせる。

 その闇に吸い寄せられるようにして、またたく星の光が次々に消えていく。

 膨大なエネルギーが摩擦まさつを起こし、稲光いなびかりが走る。

 大気が裂け、樹が枯れ、水が干上がり、土が灰と化す。

 空は闇色に支配され、大地に巨大な影を落とした。

 真っ黒な空間が広がっていき――

 その中心には巨大な目玉が在って――

 嗚呼といた。

 この世のすべての災厄さいやくを孕んだような音だった。

 冥府めいふいざな禍々まがまがしい呪いのうたげが始まる。

 まない風がさらなる怨嗟えんさを運んでくる。

 影が隆起りゅうきし、人の形をす。

 過去が――時間の呪縛から解き放たれた者たちが逆行してくる。

 亡霊だ。

 地下牢で殺し合ったという術者たちだろう。みんな痛い、熱い、苦しいと泣き叫んでいる。その阿鼻叫喚あびきょうかんする様子をオルドロスは冷ややかな視線で見つめている。

「使えないやつらだったが今度は役に立ってもらおう」

「亡霊など喚び寄せてどうするつもりだ!?」

「妻が城を出たあの日を再現するんだよ。元々こいつらは城に仕えていた神官たちだからな。彼女が起きている以前の状態を再現するためには、存在していなければ不自然になる」

「過去に巻き戻すつもりか……だが、それは概念のうえにしか存在しない」

「物語ならばこの世に存在するさ。記憶や記録を改竄するんだよ。ストーリーテラーを復活させ、すべての生者や死者の記憶から妻の眠りを無かったことにする。俺が理想とする新たな世界を構築こうちくするんだ」

「させるものか!」ハクロは鎌を手に祭壇へ走った。

 オルドロスの思惑おもわく成就じょうじゅすればハクロは生まれなくなり、この世に存在しなくなってしまう。そうなればサーシャと過ごした思い出も無かったことになる。

 ハクロはオルドロスの喉笛のどぶえを狙って鎌をぐ。

 言葉を失えば呪文は唱えられまい。

 だが刃は喉許まで届かなかった。

 大鎌がオルドロスの声を奪う直前、術者が云い放つ。貴様は――


 愛する者といたくないのか? 


 と。

 これこそがまさに生者へ送る最大級の呪文だった。

 言霊を受けたハクロの躰は硬直し、身動きが取れなくなった。肉体的に拘束こうそくされたわけではない。心のどこかで望んでいたのだろう。眼の前に在る木乃伊はただの抜け殻だと頭では解っていても、再会を期待してしまったのだ。

 思考が停止し、精神が絡め捕られていく。

 だがここで術中にまるわけにはいかない。

 感覚の麻痺まひした両手を無理やり動かし、鎌を突きあげる。

 だが、赤子でもかわせそうな緩やかな攻撃では傷ひとつ負わせることができない。

 オルドロスはハクロの横を悠然ゆうぜんと通りすぎた。それからあごをしゃくると亡霊たちがハクロに取りつく。物理的なダメージは受けないが、躰が重みを増し、ますます身動きが取れなくなる。

 そこにとどめを射す者が現れた。

「ごめんなさい」サーシャが云った。振り返ればすぐ後ろに立っている。

「なぜ謝る――」

 問いかけた瞬間、肋骨ろっこつの隙間に衝撃が走った。

 サーシャは深くもたれかかり、そして離れていく。

 あとに残ったのは鈍い痛み。

 触れてみると固いものが刺さっている。

 果物ナイフだ。

 ずっと隠し持っていたのだろう、つかはすで覆われている。

 心臓に近い位置だった。

 熱が広がり、赤いしずくが溢れだす。

 力が抜け、ハクロはその場で倒れた。

 近くでアンが悲鳴をあげた。サーシャを押し退け、這いつくばりながらハクロを探り当てる。その手には赤黒い液体が――

「なんということを……こんなに血が」

「邪魔をしないで! でないと貴女も……」

 サーシャはもう一本ナイフを握っていた。その手は小刻みに震えている。

 アンはハクロを抱き上げ、サーシャを睨みつける。

「やっぱり貴女は裏切り者の魔女だったのね!」

「違う。私は、私は――過去にとらわれた亡霊なの」

「呼び方なんて関係ないわ。どっちだって同じよ。嗚呼、ハクロ様が死んでしまう」

「死にはしない。黒騎士・ハクロとして再生するだけよ」

「意味が解らない」アンはかぶりを振った。

「そいつはな、黒騎士・ハクロの魂を宿しているんだ」オルドロスが云った。「妻の胎内たいないに自分の記憶を植え付け、呪いをかけたんだ。とうてい許せることではない」

「それは呪いなどではありません。子をすためにいとなまれる自然な行為です」

「いいや、呪いだよ。そのために妻は純血じゅんけつを失ったのだ」オルドロスは顔を歪め、唾棄だきするように云い捨てる。「ほんとうならば顔も見たくない」

「ならば見なければ良いものを――何故、墓を掘り起こすような真似をするのです」

「魔法は他人が勝手に解除できるものではないからな。呪いを解くには送り手と受け手の両者の間で無効にするしかないんだよ。妻を起こし、回復させるためには、どんなに憎くともこいつを生かしておく必要があったんだ」

「一度は捨てさせておきながら、また拾って育てさせたというのですか」

「そうだ。ハクロを鍛え、成長を促してきたのは他ならぬ俺だ。サーシャは俺が描いた筋書の手伝いをしていただけさ」

「なんて酷い……」

「サーシャは自ら志願したんだ」

「ほんとうに?」アンはサーシャに向かって叫んだ。「貴女はなんとも思わなかったの!?」

 サーシャは眼を伏せ、ナイフを強く握りしめる。唇を噛みしめたまま沈黙した。

「俺が代わりに答えてやろうか?」

「いいえ。自分の物語は自分で語ります」

 サーシャは首を振る。オルドロスの助けを断った。

 彼の隣に立つと黒装束を脱ぎ、細い首を露わにする。

 彫られた入墨が陰影いんえいを表した。

「その紋様――」アンは眼を見張る。「貴女、だったの!?」

「そう。この入墨は魔女の証なんかじゃない。私は、史実しじつから抹消まっしょうされた過去の負の遺産いさん。奴隷制度の名残なごり。名も無き入墨の女なの」

「だけど、まさか……信じられない。奴隷の生き残りが領家に仕えていたなんて……」

「身分など関係ないさ。優秀だったからやとったまでのこと」オルドロスが当然のように云った。「彼女は、奴隷だろうと同じ言葉が通じる人間だ」

「そう云ってくれる人は多くありません。人間は押された烙印で他人を視る生き物なのです。私自身でさえそうだった。自分の出自を呪ったの。だけど奥方様は、そんな私に手を差しのべてくれた。彼女はあまりにも特別な存在だったの。否――私だけじゃない。誰にとっても必要な御人おひとなのよ」

 サーシャは木乃伊に近づき、躰を寄せる。

 華奢きゃしゃな指先で頬をで、耳元でささやく。

 その躰に宿る魂を揺り起こすように呪文を放った。

「さあ、どうかお目覚めください、奥方様。貴女様こそがストーリーテラー復活の鍵を握る、女神の寵愛ちょうあいを受けた光の巫女みこ――スケープゴートなのですから」

 開かれた扉から黒い塊がどろりと溶け堕ちる。

 そして――最後の審判が始まった。

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