第21話 死神の初恋⑭

 アンが眼を開くと同時にまた月が隠れた。

 生まれた闇は、暗がりに慣れたハクロでさえ視界が不確かになり、足許がおぼつかなくなるほど深かった。熱を奪われ、極寒ごっかんの地に放り出されたような寒気がする。街のなかにいるはずなのに、寝静まった人間や動物たちの気配が遠くに感じる。代わりに、まるで別の時空から飛ばされてきたかのように、幼少のころに墓場で感じたこの世ならざる者たちの怨嗟えんさが聞こえてきた。

 嗚呼、嗚呼――と、うめき声がする。

 助けて、助けて……と、繰り返した。

 見ればせた腕が、枯れ枝のような指先がぬう――とのび、ハクロの足首にからみついている。

 それは視えてはいけないものだった。

 それは在ってはいけないものだった。

 かろうじて人間のかたちを留めているが、もはや人ではない。これは――この世ならざる者だ。

 纏う襤褸ぼろには生前の面影が重なってみえる。

 だが、皮膚はがれて肉はげ、骨は砕けてんでいる。

 陥没かんぼつした頭蓋ずがいにはうじき、こごった血はそこかしこにこびりついている。

 全身が焼けて、ただれて、ちて、腐っている。

 ここまで躰が傷んで動けるはずがない。

 落ちくぼんだ眼窩がんかに眼玉は無く、代わりに揺らめく炎が視える。それは光を放つ代わりにまだら模様の闇を広げた。死体に宿る魂だろうか、そこに生命と呼ぶべき意志が見て取れる。

 これまでハクロは、この世ならざる者の存在を直感することはあっても、五感で捉えることはなかった。だが、現実に見えている以上は原因があって結果があるはずなのだが――どんなに思慮しりょを尽くしても、持ち合わせている語彙ごいだけでは説明がつかない。自身の持つ世界観だけでは整合が取れないことに混乱し、戦慄せんりつした。

 ハクロは亡者を振りほどこうと力を籠めたが、しかしいつの間にか床が朽ちており、沼にまったように躰が沈む。皮と骨しかない細腕なのに見た目以上に力強い。倒されまいと踏ん張るのがやっとだった。

 さらに、声の主はひとりではなかった。

 後ろからも手が現れ、ハクロの躰にしがみつく。

 同じように無残な姿を晒しているが、どうやらこちらは女のようだ。

 さらに現れた者も別の顔をしている。

 闇のなかから次々と湧き出てくる人間だった者たちは、亡者もうじゃしかばねといった言葉だけでひと括りにできる存在ではなかった。

 個人がいて、個性があるのだ。

 これがたんなる獣ならば――捕食しあうだけの関係ならば、鎌を振りおろすことに躊躇ちゅうちょはなかっただろう。

 だが、この人間だった者たちは助けを求めている。

 えてかわいてもいるのだろう。

 痛い、かゆい、辛い、苦しい――助けてと。垂れた蜘蛛くもの糸に縋る亡者のように、いて懇願している。とうてい切り刻んでいい者たちではなかった。しかしこのまま手をこまねいていては闇に引きずり込まれてしまう。

 鎌をかざしたままハクロはアンに問うた。

「こいつらはいったい――? 貴様こいつらになにをした!」

「私はなにもしていません。彼らはこの地で病に倒れ、躰を失い、魂だけの存在になった過去の者たちです」盲目の医者は首を振った。「私たちの魂は永遠の虜囚りょしゅうとなり、死ぬことも許されず、傍観ぼうかんする以外にはなにもできずにただ裁きを待つしかない、《生ける屍》なのです」

「なら――ほんとうに黄泉よみ返って、死体が動き出したというのか」

「彼らは死体ではありません。今でもれっきとした死者であり、亡者なのです」

「それは――」

 在ってはならないものだ。

 視えてはいけないものだ。

「視えないから無い。見えるから在るとはかぎりません。それは肉体の有無の違いでしかないのですから――見えなくとも在るし、視えていても無いことだってあるのです。そう、後ろにいる魔女のようにね」

 アンは視線をハクロの背後に向けた。

 振り返ってみればそこには、長い間生活をともにし、知恵を与えてくれた恩人の姿が。しかし、底無しの闇に浮かんで見える今のサーシャは、ハクロの知らない一面を覗かせている。

 魔力が回復しているのだろう。輪郭りんかくが鮮明になり、希薄きはくになりつつあった入墨もその色を濃くしている。

「魔女って、まさか――」

「もうお判りでしょう? 他に誰がいるというのです」

 他に生者の姿はない。ハクロのほかに在るのは無数にたかる亡者たちと、盲目の語り部と、入墨の魔女だけだった。

 もしもサーシャがアンのいう入墨の魔女であるならば、ハクロが生まれたときに出会っていたことになる。ならばサーシャがハクロを知っていても不思議ではない。だが、それが意味するところはすなわち――

 ハクロは頭を振って己の想像を否定した。

 嘘だ。

 ――サーシャは俺にとって恩人なのだ。

 ――サーシャは俺にとって大切な……

 闇から湧いた亡者がささやく。

 嗚呼、うるさい。かゆい。眉間をむしる。それでもどろどろした黒い影は否応なく流れ込んでくる。

 嘘だ。嘘だ。

「サーシャは――」

「ハクロ様をさらっててた張本人です」

「嘘だ!」

 ハクロはえた。

 渾身こんしんの力を籠めて跳躍し、沈みかけた闇から脱出する。亡者を振り切るとアンに飛びかかった。躰を押さえつけるとその喉元に鎌を突きつける。

「いい加減なことをぬかすと首をねるぞ! さあ、嘘だと云え!」

「真実は曲げられません。ハクロ様こそ、何故そのような妄言もうげんとらわれているのです。ほんとうは――赤子だった貴方様の眼にはもう、魔女の姿が視えていたのではありませんか?」

「彼女は――サーシャは魔女なんかじゃない!」

 語り部の戯言たわごとを止めようとハクロはきばく。

 鎌をその首めがけて振りおろす。だが腕をつかまれ、アンの躰に届かない。振り返ればそこに在るのは亡者ではなく――くだんの魔女だった。

 出逢ったあのころと変わらぬ姿をしたまま、時を止めた少女がそこにいる。

「サーシャ、何故止める!?」

「この人を――アンを殺してはいけないわ」

「だが、こいつ」

 乾いた音が響いた。

 サーシャが平手を打ったのだ。

 狂気にのまれているわけではない。りんとした言葉は鋭く、冷徹れいてつで、氷のように澄んでいる。

「落ち着いて。しっかり気を保ちなさい。貴方は死神ではないのでしょう? 此処で彼女を殺してしまえば二度とそのレッテルをがすことはできなくなるわよ。それでもいいの?」

 その静かな口調と、頬に残る痛みがハクロを冷静にさせた。必死に怒りを堪え、震える両手をいさめる。大きく息を吐くと鎌を収めた。しかし、サーシャを想ってこそ取った行動だというのに……叱責されては堪らない。

「なら、どうかこの医者の話は嘘だと云ってくれ。貴女は魔女なのか。サーシャが俺を――棄てたのか?」

 ハクロは怒りの矛先をサーシャに向け、詰め寄る。

 だがサーシャはなにも答えない。

 無言をもって雄弁ゆうべんに応えた。

 言葉はなくとも、首筋に彫られた刻印が明確な意志を持って真実を現している。私は魔女であると――。

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