過去の亡霊

第7話 過去の亡霊①

 ちる。

 ちる。

 ちていく――。

 首にすみった少女は、蜥蜴とかげが創った大地の裂け目に着くと、その深淵しんえんに立った。亀裂きれつは村を縦断じゅうだんし、街へ通じる唯一の道は断たれている。助けは来ないし、呼ぶこともできない。もちろん渡ることも不可能だ。

 振り返ってみてもうしろにあるのは死にかけの貧しい集落しゅうらくだけ。見送る者は誰もいない。だが――

 それでいいと思った。

 十数年という短い生涯しょうがいかえりみても、幸せを感じた瞬間は片手に収まるほどしかない。乳飲ちの時分じぶんに母の背中で聴いたうただけが唯一の娯楽ごらくだったといえる。

 歩けるようになってからはほんとうによく働いた。人手が足りないのだから仕方がない。動ける者は女だろうとこどもだろうと否応なしに駆り出された。泣いても叫んでも許してはもらえない。遊ぶひまなど与えられず、学ぶ余裕もない。朝から晩まで大人たちの仕事を手伝った。いつしかそれが当たり前だと思うようになり、思考は人形のように停止していた。だがいまはもう、束縛そくばくし、追い立てる者はいない。

 停まっていた時間がぎしぎしと動き出す。

 奈落ならくの底まで続いていそうな深い闇を前にして、ようやく少女は人間らしさを取り戻すことができた。じっとてのひらを見つめてみれば、そこには数え切れないほどの肉刺マメができている。それ以外はなにも無い。わずかな駄賃だちんすら手にしたことがなかった。結局、

 ――私の人生は何だったのだろう? 

 分からない。少女はこれまで、生きる意味なんて考えたこともなかった。考える余裕なんてなかった。しかし、考えなくとも結論は出ている。

 ――意味なんて無い。

 そう。在ると思うからいけないのだ。執着しゅうちゃくして、り固まって、動けなくなってしまうのだ。

 無いのであれば捨ててしまおう。無いものを捨てるなんてできるのか分からないが、躰ごとててしまえば考える必要もなくなる。

 蜥蜴とかげは恐ろしいがどうせこの高さから落ちれば死ぬ。残った躰をどうされたようと知ったことではない。村から脱出できれば後はどうでもよかった。

 少女はさとかった。

 教育こそ受けていないが、本来の頭脳は優れている。

 人柱ひとばしらを買ってでれば、自分がいなくなっても両親はきっと村のみんなが手厚く介護かいごしてくれるだろう。そう計算して、読み書きさえろくにできない貧しい村の小娘が精一杯の愚策ぐさくろうした結果がこの顛末てんまつである。

 両親さえ無事ならば思い残すことはなにもない。

 気負うことなく、少女は前へ踏み出した。

 しかし。

 少女は優秀だったかもしれないが、軽率けいそつでもあった。

 想像力に欠けていたともいえる。憲兵が殺されていく様を見て、こんなものかと楽観視らっかんししたのだから迂闊うかつだったとしか云いようがない。実体験と疑似ぎじ体験は似て非なるものなのだ。自分の死と他人の死はこんなにもかけ離れているのかと、そう気づいたときにはもう、なにもかも手遅れだった。

 躰が浮き、はらの底から臓腑ぞうふを持ち上げられるような感覚に襲われたとたんに実感が湧いた。死――

 死ぬ。

 死んでしまう。それは、

 嫌だ。

 嫌だ。嫌だ。

 死ぬのは――いやだ! 

 血液が逆流し、青褪あおざめる。

 少女は胃液いえきを吐いて気絶した。

 だが失神しっしんしたのは一瞬のことで、意識が戻るとまだ墜ちている。地上は近く、底は見えない。無間むけん地獄とはまさにこのことだろう。底無しに堕ちていく己の不幸を呪う時間は果てしなく永く感じられる。いっそ気を失ったままならどれほど幸せだっただろう。

 ――助けて。

 ――誰か助けて! 

 声にならない悲痛な叫びを聞き届ける者はいない――はずだった。

 視界がとつぜん暗転した。

 夜が空から墜ちてきたかと思った。

 雷鳴らいめいとどろき、厚い雲が割れる。

 地鳴りとともに黒い影が現れた。

 少女は眼をいて仰天ぎょうてんした。

 男が空から降ってきたのだ。

 否――落ちてきたのか。

 村の者ではない。し物からしてあきらかに異彩いさいを放っている。

 それは光沢のある黒だった。逆光で暗く映っているのではない。漆黒しっこく手甲てっこうよろいに、暗黒の仮面かめんかぶど。金細工が各所にあしらわれているものの、そのほとんどが黒く塗り潰されている。手にしている得物えものまで黒い。形状からして鎌だろう。柄はおろか刀身までもが黒光りしていた。

 墜ちてきたのは全身黒ずくめの騎士だった。

 ――どうしてこんなところに騎士様が? 

 ――否、それよりも。

 ――どうして一緒に堕ちているの? 

 その問いは声にならなかったが、代わりに眼が合った。

「おい、入墨の。そんなに助かりたきゃあ俺が救ってやらなくもねえぜ?」

 少女の疑問を余所よそに黒ずくめの騎士は、仮面越しに眼を細め、不敵な笑い声をあげて逆に問うた。全身は黒に覆われているが口許だけは肌が露出している。だから言葉は明瞭はっきりと聞き取れた。しかしなにを云っているのか意味は解らない。こんな状況でなにをどうしようというのだろう。

 さては狂人きょうじんかと身構みがまえる。

 自らも落ちているのに、笑っていられるなんてどう考えても異常だ。

 異様いようを前に、少女の頭はかえってえた。死の恐怖が一時的に麻痺まひする。

 冷静に観察してみれば、漆黒の騎士は異形と判る。背中に翼が生えているのだ。それもやはり黒。ならばからす化身けしんか、蝙蝠こうもりか……それも千里眼せんりがんを持つ異能者なのか。

 求めてもいないのに助けてほしいとどうして解る。

 強張こわばる少女を見て、黒騎士はなおも笑う。わらう。

「どうした。驚きすぎて口が利けなくなったか? けどよ、訊かなくたって一目瞭然いちもくりょうぜんだろう。死にかけてるのに助けて欲しいと思わない人間がどこにいるってんだ? そうだろう? そんなお嬢ちゃんに吉報きっぽうが届いたんだ。よかったな、毎日神に祈っててよ」

「なら貴方様は――」

 梵天ぼんてんより遣わされた異形なのか。

 否。結果には必ず原因がつきまとうものだ。祈ったところで現実に奇跡は起こらない。それで救われる道理はない。幼くとも、学が無くとも、少女にだってそれくらいは解る。

 しかし、それでも黒騎士は豪語ごうごする。

「心配すんな。俺に任せておけば無事に生かしてやるよ。まったく、幸運に恵まれ過ぎってもんだぜ。三千世界どこを探したって俺より強い男はいねえんだ。だけどよ、入墨のお嬢ちゃん。僥倖ぎょうこうに浸っている時間はねえぜ。下を見てみな。地上はもうすぐそこだ」

 うながされて下方に眼をやる。

 そこは冥府めいふではなく、魔界でもない。在るのは露出した土くれと岩盤がんばんだった。地層が裂けてできただけの、普通の谷底である。だが人を死に至らしめるにはそれで充分だ。

 それで十全じゅうぜんだが、さらに蜥蜴もいる。

 ありふれた地下峡谷ではあるが、同時に魔物の巣窟そうくつでもあった。

 蜥蜴は一匹に非ず。元より数え方なんて教わったことのない少女だが、それにしたって数えきれない。落ちたら受け止めるつもりなのか、ひしめめきあってこちらに手をのばしている。まるで救いを求める亡者の群れみたいだ。群体のようにうごめく様は眼にするだけでおぞましい。

 生きても死んでも地獄である。

「どうする、お嬢ちゃん。俺とちぎればあんなやつらの手籠てごめにならなくてすむぜ?」

 同じ狂人でも色狂いろぐるいか――黒騎士は、おびえる少女の肩に腕をまわしてそそのかした。

 空中で抱き止められて落下は免れたものの、このまま応じればきっとひどい目に遭わされる。だが、それでも蜥蜴に蹂躙じゅうりんされるよりはまだましだろうか……。救ってくれると云うのだから、選択の余地よちなどありはしない。どうせもう後戻りはできないのだ。毒をらわば皿までである。

 少女は黒騎士にすがりつき、叫んだ。

「お願いします。どうか――どうか助けてください!」

おうよ。それじゃちょいと辛抱しんぼうしてな。なあに、すぐに済む」

「いったい何をするおつもりで――むうッ!?」

 少女が問い終わる前に、黒騎士は己が唇でその口をふさいだ。のどの奥まで舌が押し込まれる。否、

 ――何か飲まされた? 

 小さな異物が喉を通っていくと、とたんに首許が熱くなる。入墨がぼうと光ったかと思うと、黒い影がのびた。彫ったはずの墨が宙に浮いているのだ。それは一度躰から離れ、形を変える。模様もようが並べ替えられ、記号の羅列られつが構成された。どうやら文字と図形の組み合わせのようだが、少女には読み解くことができない。

 変化した墨が少女の首に戻る。

 黒騎士は、入墨の少女を抱き上げ、その首筋をなぞった。手つきはいやらしいが真剣な表情だ。現れた文字を読んでいるようで、両眼を左右に動かしている。だが、

「なんだ、またかよ」黒騎士は舌打ちをした。

「はずれ?」

「だが契約は済んだ。これでお嬢ちゃんは俺のものだ。それでは、いざまいろうか」

 ――嗚呼、お気に召されなかったのか。

 ――何がはずれかは分からないけど、きっと色気いろけのない田舎娘いなかむすめ落胆らくたんされたのね。

 ――でもよかった。これでひとまず助かった。

 少女は胸をで下ろした。

 だが安心したのも束の間、事は想像通りに運ばなかった。

 黒騎士は翼をたたみ、滑空かっくうしながら高度を下げていく。

「……あの、どちらへ?」

「あん? どちらもなにも、蜥蜴退治とかげたいじに決まってんだろ」

「まさか――戦うおつもりで!?」

「当然だろう。約束したじゃねえか」

「いえ、私は……」

 助けてくれと頼んだだけである。

 だが黒騎士は蜥蜴を成敗せいばいするつもりでいるらしい。

 飛べるのだからそのまま地上まで運んでくれるものと思っていたのに……黒騎士は思惑おもわくに反して颯爽さっそうと地底へ降りていく。

 そこには蜥蜴の大群が待ち構えているが、しかし黒騎士には微塵みじんも動じる様子がない。地に足を着けると少女をおろし、一歩進んで黒光りする大鎌をかまえた。

 蜥蜴らはふたりの姿を捉えると一斉いっせいに飛びかかってきた。発情はつじょうしているのか、眼球は黒く落ちくぼみ、もはや理性の欠片かけらも見当たらない。

 その形相に少女は改めておののいた。

「騎士様、名のある武将とお見受けしますが、おひとりでかなう相手ではありません。どうかお逃げください!」

「おいおいお嬢ちゃん、どうして戦いもしねえで勝てないなんて云えるんだ?」

「たった一匹の蜥蜴を相手に、街の憲兵けんぺいが束になってかかっても、傷ひとつ負わせることができませんでした」

「ほう……そいつはおもしれえ」

「おもしろいですって?」

血沸ちわき、肉躍にくおどるってやつ? この大鎌に宿る魔力を試すにゃちょうどいい」

「そのような戯言たわごとを――ふざけている場合ではありません。遊びに来られたのではないのでしょう」

「ああ、そのとおりさ。俺はいつだって本気だぜ――ッと!」

 黒騎士はたけると一気呵成いっきかせいに直進していく。

 蜥蜴の群れに突っ込むと、大鎌をぎ払った。

 すると空気が裂かれ、雷鳴のような亀裂がほとばしる。

 太刀筋の先にいた蜥蜴らの首が一斉に切り離された。

 短い悲鳴とともに頭が宙を舞い、あおとも緑ともつかない飛沫しぶきが吹き上がる。

 さらに異様な空間が現れた。

 黒騎士の一太刀が大気ごと切り裂いたのだ。

 真っ黒な気流が生まれ、じ曲げられた空間がうずを巻く。

 斑模様まだらもよう亜空間あくうかんが口を広げると、なかから黒い影がゆらりと現れた。

 嗚呼――

 と、影は悲鳴とも怨嗟えんさともつかないき声を発した。

 影は別の時空から飛び出すと一気に広がり、狭い峡谷を浸蝕しんしょくしていく。

 首を失った蜥蜴に絡みつくと躰を締め上げた。

 まだ息のあるものは暴れているが、しかし抵抗することは叶わない。その光景はさながら阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図だった。さらなる異形を前に蜥蜴たちは成す術なく闇へとほうむり去られていく。

 最後の一匹がのみ込まれると、影は鳴りをひそめて亜空間も閉じて消えた。

 蜥蜴の慟哭どうこくも止み、辺りはしんと静まり返る。

 黒騎士は鎌を二度三度と振るい、背中のさやに収めた。

ッ、なんだもう仕舞か。つまらねえ……まるで余興よきょうにもならなかったな」

 たったひと振りで蜥蜴は全滅してしまった。

 跡形もなくどこか別の世界へ連れ去られてしまった。

 少女は腰が抜け、呆然ぼうぜんと座りこむ。異形を従えた黒騎士にただただ震えた。

「あ、貴方様はいったい?」

「俺か? 俺はな――」

 黒騎士は振り返り、少女に向かって見得みえを切る。仮面をはずし、不敵に嗤いながらこう云った。

だよ」

 その素顔はまだ、幼さの残る少年だった。

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