第7話 真相

「えっ、だって、そんな……。私、確かに夏絵ちゃんに似てるとは言ったけど、後ろ姿を見ただけなの。やっぱり違うと思う、考えられないよ……」

 礼美が伊織を見て、心細げに言った。ユウはまだ顔を上げない。

「ええ。夏絵さんの普段のイメージを思うと、全く違うように感じます。ですが、表面のイメージに囚われないで下さい。先入観は今、何の役にも立ちません」

「じゃあ、何のために夏絵ちゃんは、赤いナイトガウンなんか着てホテルを歩いてたの? 私たちの知ってる夏絵ちゃんとは、本当に真逆なのよ! 濃いお化粧をして、とってもセクシーだったって言うじゃん」

 私の疑問はそこに尽きる。真綿を誘惑したかもしれない、それほど卑猥ひわいな眼差し。

 ガウンの下が本当に一糸まとわぬ姿だったとしたら、理由は一体何だろう。

 伊織が今まで何度も口にした言葉を思い出した。――脳で考えることは、いくら隠そうとしても自然に身体中に表れる。喋らないペットの気持ちがわかるように、五感を通し心に伝わってくるのだ。


「ふみさん、わかってきましたか? 赤いガウンの謎が」

 伊織がじっとこちらを見ていた。見抜かれそうで恥ずかしい。だって正直、私はまだ何にもわかっていない!

「例えば犬の五感は、嗅覚>聴覚>視覚と優先されます。それと違い人間は、視覚による情報がとても強い……。聴覚なんかよりも。逆に考えてみて下さい。夏絵さんはなぜ、そんな淫らとも思える姿で部屋を出るがあったのか」

 もう一度、期待を込めた視線で伊織が私を見た。でも、私は首を振るしかなかった。

「それはまさに、……男性の部屋へ行こうとしたからですよ。自分の性欲を満たすために」

「……ちょ、ちょっと伊織くん? どういうこと!? 何なの、その推理。あんな純粋で、汚れのない夏絵ちゃんがそんなことするはずないじゃん!」

「いや、俺もマジでそこは否定するわ。伊織悪いけど、今回の推理、見切り発車だったんじゃないか?」

 礼美も真綿も理解出来ず、思わずそう言った。それでも伊織はひとり、表情を崩さない。

「琥珀さん、本当のことを言って下さい。……それが事実ですよね?」


 顔に手をやり、黙り込んでいたユウが重々しく顔を上げた。戦場へ向かう戦士のような覚悟の瞳だった。

「……ペット探偵、さすがだな。確かにそうだ。……あの女は、夏絵本人だ」

 潮が引くときは何もかも連れ去ってしまうのだろうか。幻想も希望も。私たちはユウの顔を呆然と見ていた。真実だけが、そこに決まり悪く佇んでいた。

「夏絵は年頃になって、……たまにおかしな言動を見せるようになった。淫乱で、性に翻弄ほんろうされた娼婦のような姿だ。普段の夏絵からは想像出来ない、大人びた胸くそ悪い下品な表情をする」

 ユウは思い出したのか、ひどく嫌なものを見る目つきをした。

「普段は母親がいつも夏絵についている。そういう時は、何も起こらない。しかし、一度ひとたび目を離すと、夏絵は……変わる。男を誘惑し、大胆に迫っていく。精神的に威嚇してないと、俺にさえ身体を求めてくる」


 誰だって家族の秘密は知られたくない。これが本当だとすると、ユウがとった夏絵に対する冷たい態度には納得がいった。兄妹で間違いがあってはならない。

 しかも、ユウは有名人だ。他の男性との行為にしても、妹のこの性癖が世間に知られたら大変なことになるだろう。ユウはきっともう限界だった。

「琥珀さん、やはり予想通りでした。妹さんへの極端すぎる支配的な態度が気になったんです。……ですが、今回は琥珀さんの想像を超える出来事が起こってしまったんですね?」

 伊織は、ユウの顔をちらりと見てから言葉を続けた。

「夏絵さんの部屋に鍵を掛けて、妹を軟禁状態にするわけにもいかない。夜は睡眠薬などを与えていたのでしょうが、確かその日は香奈さんが夏絵さんを寝かせつけたとか。……きっと夏絵さんは薬を飲んだふりをしただけで、飲まなかったんだ」

 真綿がごくりと喉を鳴らした。

「そして夜、夏絵さんはオギトさんの客室へ向かったんです」


「あの時?」

 礼美が切ない声で言った。良くない前兆を感じたに違いない。

「そうです。礼美さんと真綿さんが、廊下で夏絵さんに出会ったあの直後です。……夏絵さんはオギトさんを誘惑しに行ったんですよ」

 今まで静かに話を聞いていた沢田が立ち上がった。私服の方がすらりと痩せて見える。

「私、用事がありますので帰らせて頂きます。オギトさんの遺体がどうとかっておっしゃってましたがそんな事実はありませんし、夏絵さんの話にしても聞いていられません! 琥珀さんも変な話に、やすやすと乗らないで下さい」

 沢田は憤慨していた。ユウが伊織に素直に応じる様子にも、疑問を持っているようだ。

 まあ、仕方がない。彼女は何も知らないのだから。以前、泰子さんとその恋人の死について、伊織が誰よりも先に見えない真実をたぐり寄せたことを。


「沢田さん、もう少しだけ時間を頂けませんか。時間は有限です。針のむしろ状態は、いずれ終わりますから」

「私はそういう意味で言ったのではありません!」

 沢田は八センチと思われるヒールのブーツで立ち上がると、黒い柔らかなコートとスエードのバッグを持ち扉へ向かって歩き出した。

「沢田さん! 待って下さい。……これは殺人事件です。断定してもいい。あなたが何も喋らなくても、真実はいずれ必ず浮き彫りになる。いや、してみせる! なぜなら、琥珀さんや夏絵さんの精神はこのまま徐々に疲弊していき、誠実な生きる喜びを失うことになるからです。それはまるで、生けるしかばね。あなたのやり方は間違っているんです。これからあなたの存在も、きっと過去の悪夢へと変化していく。沢田さん、理解出来ませんか? ――お願いです、ここで終わらせましょう」

 伊織の最後の言葉は、懇願に近かった。彼もまた疲弊しているのだ。私たちの見えていない未来をかんがみ、最善を尽くそうとしている。壮絶で痛々しいほどの気迫を感じた。

 琥珀兄妹や沢田が、この事件にどのように関わっているのか。何をどうすれば、この張り詰めた空虚から逃れることが出来るのか。私は考える。

 しかし、私たちにとって、謎はまだ謎のままだった。……そう、ペット探偵の頭脳を覗いては。


 ユウが沢田と目を合わせ、うなずいた。それは座れというサインだった。ふたりの間に親密なものを感じた最初のしぐさだ。伊織が口を開いた。

「……僕が琥珀さんと沢田さんとの関係を疑ったのは、ソフィアがきっかけでした。ソフィアは保護犬として夏絵さんに救われ、家族にしか懐いていない。それなのに全くの他人の沢田さんに、とても自然な態度を見せていました。それが僕には不思議でならなかった。きっと仕事以外で、彼らは何らかの交流があるのではと思いました」

 沢田が少し驚いた表情を見せた。ユウがため息をつく。


「……では、謎解きの続きに戻ります。夏絵さんがオギトさんの部屋へ向かってからのことです。夏絵さんは性の象徴のような姿でオギトさんの部屋へ行き、彼に迫った。オギトさんは戸惑ったかもしれませんが男としての気持ちが勝ち、受け入れたのでしょう。夏絵さんを部屋へ入れ、そして行為に及ぶ。そこまではよかった。しかし、この後、思いもよらぬことが起こったのです。……実はオギトさんと亡くなった泰子さんの恋人というのは、背格好や雰囲気がとてもよく似ていました。いろんな方の話や、今流れているリハーサルの録画を見てもわかります。長身でガタイが良く、白髪交じりの頭髪。ふたりは似たような特徴をしていた。しかもその日、オギトさんは白いシャツを着ていた。泰子さんの恋人もいつも白いシャツを着てたと、スタッフの女性たちが言ってましたね。それが悲劇に繋がったのです。夏絵さんは行為の途中に思い出したんだ。一昨年、泰子さんの恋人にレイプされた、地獄のような恐怖の瞬間を……」


 私たちは誰もがハッとした。そうだ、オギトと泰子さんの恋人は確かに似ている。シルエットや顔の作り、雰囲気など。

「でも、夏絵ちゃんからオギトさんに迫りに行ったんでしょ? それなのに、どうしてそこで我に返ったような事態になるわけ?」

 礼美が腑に落ちない顔を伊織に向ける。私もそこは理解出来ない。うまく言えないが、二重人格のような二面性を感じる。

「はい。皆さんの言いたいことはわかります。二重人格とはまた少し違うのですが。夏絵さんのトラウマが、スイッチを入れた……と考えたほうが近いかもしれません。彼女はそこで、究極のパニックに陥ったと考えられます。きっとひどく暴れて、部屋にあるものやツインのベッド両方を乱した。――そして、テーブルにあった果物ナイフで、思わずオギトさんを刺したんです」


「えっ、そんな……夏絵ちゃんが!? そんな……まさか、オギトさんを刺しただなんて」

「ええ、ふみさん。覚えてませんか。先程、オギトさんの部屋へ入った時、フルーツの盛り合わせの側に果物ナイフがなかったことを」

 私は思い出そうと、必死で頭を回転させた。そう言えば、そうだ、あの時。手つかずに置かれたフルーツの側に……なかった。私は胸騒ぎがしたのだ。その時は何かわからなかった。あの部屋の違和感の原因が。

「……思い出した。伊織くん、確かに果物ナイフが見当たらなかった。フルーツは綺麗に盛られてたのに、そばに置かれてるはずの果物ナイフがなかったの」

 私は言った。呆然としながら。

「そうです。オギトさんのあの部屋が全てを物語っていました。夏絵さんはそのナイフで、オギトさんを刺したのです。しかし、もともと体力のない夏絵さんは、そのショックで気絶したのではないでしょうか。それとも、刺されたオギトさんに払い飛ばされたのかもしれません。とにかく夏絵さんは意識を失い、オギトさんはひとり部屋で刺されたまま取り残された。さあ、この後、真綿さんならどうしますか」


「え、俺!? えっと、……アレだよ。俺なら、安らかに死ねるようにふみちゃんに遺書を書く……かな?」

 なんで、私の顔を見るの。しかも他の女と浮気してから、私を思い出して遺書を書くだなんて! 真綿だったら、絶対そんな殊勝なことなんてしない。わぁわぁ騒いで、助けを求めるに違いないから!

「えっと……、ガタイのいい彼が小さな果物ナイフで即死というのは、ほぼ考えられません。考えられるとしたら、……フロントに電話をして、救急車を呼んで貰うことではないでしょうか」

 伊織のその言葉に、沢田の緊張が高まった気がした。顔がこわばっている。

「そして、……フロントにいた沢田さんが電話に出られたのですね?」

 沢田は遠くに視線を向け、声の主を追ったり諦めたりした。無言の抵抗は続いている。


「沢田さんが、オギトさんの電話に出たと考えられます。それは琥珀さん兄妹にとって、好都合と思われた。……沢田さんはオギトさんの客室へ行き、その事態を瞬時に把握する。きっと夏絵さんの奇行については、すでに琥珀さんより聞いていたのではないでしょうか。部屋には乱れた姿で意識を失った少女と、ナイフで刺され苦しんでいる男。……沢田さんは、夏絵さんの方を選んだのです。の妹を。重傷を負い苦しんでる男をおいて、彼女は部屋を出た。琥珀さんに相談するためにです」

 歳の離れた女性が盲目的に愛した、狂おしいほどいとしい有名人。沢田はユウに身も心も捧げ、良心まで売り払った。

 少し間を置き、伊織はユウを見つめた。

「その後のことは、驚くほど華麗なショーでした。……琥珀さん、水面下での見えないショー。あなたのクリエイティブな頭脳と感性に敬意を表します」


 私たちもユウを見た。礼美は今にも泣きそうに唇を噛んでいる。

 ユウはひとつ大きく溜め息をつくと、私たちに向き直った。

「……皆さん。これは全て、ペット探偵の想像の話だ。証拠など何もない。……夏絵の性癖は言い当てた。だが、それ以外は全部作り話に過ぎないんだ。しかし、おもしろく聞いてはいるよ。これが、君の自己満足かナルシストの表現なのかは分からないが」

 その時、伊織の瞳に明らかな光が見えた。ユウの挑発に乗ったと、私は思った。

 ユウは伊織を敵に回すつもりだ。伊織の才能を認めているのに、きっとそれ以上の何かのために。

「話を元に戻します。沢田さんはオギトさんを見捨て、琥珀さんの部屋へ行きました。現状を説明するためです。もちろん、琥珀さんはかなりのショックを受けたと思いますが、行動に移るのは早かった。……それは月並みではない独創的なセンスを要する、。琥珀さんにしか出来ない、大胆過ぎる犯行でした」

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