第2話 夏絵とソフィア

「この時期の箱根って、さすがに寒いわねー」

 礼美が唯一露出している頬に、手袋をした手を持っていくと白い息を吐きながら言った。ほれぼれするような茄子紺色のウールのロングコートに、ベージュ色の大判のフォックスファーを巻いている。お出掛け仕様の礼美は、驚くほど隙がない。

 私たちは琥珀ユウ・スペシャルパーティーに参加するため、前日から久しぶりに箱根までやって来た。芦ノ湖を見下ろす、石造りの塀で囲われたリゾートホテル前に降り立つ。ここまでは電車とバスを乗り継ぎ、ホテルで用意してもらったタクシーを使った。

 静まった門の前から辺りを見渡す。外観の写真が撮りたかったのだ。

 ホテルの公式HPの画像に比べると、冬の木々は葉を落としていて精悍せいかんさを欠いていた。それでも骨太の触手を伸ばし、白亜の宮殿を守ろうと切なく覆う。正門は自動車での来客用に石畳のロータリーになっていて、うっとりするような高級車やワゴン車などが駐まっている。ユウたちの車かもしれない。


 私たちは手荷物をいくつか持ちながら、ロータリーを避け、重厚な正面玄関へと向かった。濃紺のロングコートに黒のマフラー、手袋姿の長身のドアマンがこちらに気付いた。

「こんにちは。ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ。お荷物をお持ち致します。……お寒い中、お越し頂きまして、ありがとうございます。では、ロビーへお入り下さい。受付をさせて頂きます」

 白い息を吐きながら、私たちの荷物を軽々と持ってくれる。洗練された物腰と落ち着いた微笑みで迎えてくれたドアマンに、私たちの気分は早くも高揚した。礼美と目を合わせ、お互い沈黙のまま口元が緩んだ。


 ホテルのロビーは想像していたよりも、こぢんまりとして暖かかった。上質な西洋の装飾が白い壁に並ぶ。私たちはロビーを通過し、ラウンジへ通された。

 ロイヤルブルーを基調とした洋室。白大理石のマントルピースには、左右対称に置かれた美しいキャンドルが非日常を感じさせる。私たちは本物の暖炉に興奮した。

 だが、フランス窓から見える中庭に私はさらに感激する。

 そこにはヨーロッパの旅行パンフレットで見たような石造りの回廊がぐるりと一周し、寂しげな冬の芝生の庭に幾つかの石像があった。

 柔らかくどこまでも沈んでいきそうなソファに身を委ね、ウェルカムドリンクを頂く。ハイビスカスで彩られた深紅のハーブティーは、私たちの身も心も暖めてくれていた。


「花野ふみ様と星野礼美様でございますね。本日はようこそいらっしゃいました。館内は明日まで、琥珀ユウ様の関係者の皆様で貸し切りとなっております。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」

 ドアマンに代わり、四十代前半と思われる首にスカーフを巻いた制服の女性が対応してくれた。胸のネームプレートには、MANAGER・沢田と書かれていた。

 艶のある長い黒髪をアップにして、目元が綺麗な彫りの深い顔立ちだ。ある種の美人で、眉に意志の強さが表れている。少しだけ鼻にかかった色気のある声と上品な接客が素晴らしかった。すでにくつろいでおるよ~と心の中で思い、私は笑顔で返事をした。

「館内の客室は全部で十五部屋ごさいます。お客様のお部屋は、二階の東側二番目と三番目を二部屋ご用意しております。夜にあとお二人いらっしゃると伺ってますが、お間違えございませんでしょうか」

「はい。えっと、西宮で予約してると思います。よろしくお願いします」


 真綿と伊織は今回、ツインルームの同室にしてもらった。そして、私と礼美が隣のツインルーム。責任者の沢田が荷物を持ち、そのまま案内をしてくれる。

 私たちが今歩いている二階の廊下の窓を見下ろすと、先程の中庭が見えた。二階建ての洋館は、部屋がの字型にぐるりと中庭を囲む造りになっている。贅沢な空間を眺めながら、私たちは廊下を歩いた。

 沢田が客室の前で止まる。宮殿の雰囲気そのままの重厚なダークブラウンの扉に、アンティーク風の鍵が差し込まれた。

 ――カチャ。


 偶然、隣の部屋の扉が同時に開いた。

 突然の出来事に私たちは立ち止まる。そして隣の部屋から出てきた女性に、私は釘付けとなった。

 色白で優美な素直さをうかがわせる顔、ゆるく流れた肩下までの栗色の髪、細く華奢な姿態。見開いた大きな瞳は、少しだけゴールドの光を帯びていた。

 彼女は森の奥の塔に囚われた美少女のような面持ちで、私たちを見返す。室内着と思われるカットソー生地の白いワンピースが、中世のお姫様が着るネグリジェに見えて仕方がない。


「夏絵さん、どうしたの? お部屋から出てはいけないはずですよ」

 案内の女性が少し小声になって言った。

「あ、沢田さん、ごめんなさい。私……下の中庭を、この子に見せてあげようと思って……」

 夏絵と呼ばれた少女は、恥ずかしそうに茶色い小犬を抱きかかえた。

「夏絵さん、いけません。無断で外出すると叱られますよ」

 その注意に小さく会釈をすると、彼女はすぐさま部屋の中へと戻って行った。

 私たちは何事もなかったように自分の客室へと進む。荷物を置くと待ってましたとばかり、早速礼美が喋りだした。沢田と呼ばれた、案内の女性にである。


「今の人、ユウくんとどういう関係なんですか!? だって、今日は関係者以外泊まらないはずでしょ? スタッフにしては、いやに若いし。まだ絶対十代ですよね?」

 ちょっと、礼美ちゃんったら露骨すぎ。沢田は困った顔も見せず、微笑みながら返答した。

「琥珀ユウ様の妹さんなんです。一回り年齢が離れていて。夏絵さんとおっしゃいます。去年の夏で、十七歳になったとお聞きしました」

「あ~ん、妹さんなんだぁ。結構、焦っちゃった」

 何を焦ってるんだか。それにしても、絶世のイケメン兄と儚げな美しい妹。

 生まれつきロマンティックな要素で溢れていた。私のまわりを丁寧に思い返してみるが、誰にも縁のない設定である。


「てことは、ユウくんも隣の部屋に泊まっちゃってるんですか?」

 礼美が肝心なことを聞く。

「あ、いいえ。琥珀様は、南側のスイートルームにお泊まりでいらっしゃいます。毎年、パーティーではそちらをご利用頂いているんです。一昨年おととしまでは夏絵さんも南側、琥珀様のお隣の部屋をお使いになっていました。バルコニーがあり、広めのお部屋なんです。でも今年はなぜか、そのお部屋は絶対にいやだということでしたので……」

「ん、去年は?」

 私の素朴な疑問。

「あ、はい。去年、夏絵さんはこちらには不参加だったんですよ。……ご病気が悪化してしまって。ずっと療養されていて、やっと今回からまたご参加出来るようになったんです」

 案内の女性は伏し目がちに言った。



「ね、ずっと療養してた病気って、何だろうね?」

 二人きりになった部屋で、礼美がぽつりとつぶやいた。上品なベージュ系ニットのセットアップがよく似合ってる。ベッドの端にちょこんと可愛らしく腰掛け、窓の外を見ている。曇り空が広がり、木々が枯れ葉を揺らしていた。

「夏絵さんのこと? さあ。でも、良くなったんならいいじゃない」

 コートを脱ぎながら、私は静かに答えた。まだ十代の女の子に、長期の病気はさぞかしつらいと思う。勉強や友達、ありふれた日常を私たちは軽んじてしまいがちだが、それを焦がれる生活を送らなきゃいけない人もいるのだ。


 礼美からの返事はなかった。この天井の高さの空間に対して、空気の量は比例してるのだろうか。落ち着いたダークブラウンの壁と深紅のカーペットが、物事を深刻にさせる。

 私は戸口にあるクリスタルガラスの平たい灰皿?、オブジェのような器に鍵を置いた。ここはクラシカルなホテルらしく、オートロックではなかった。出入りする時は必ず鍵を使用するため、わざわざ扉付近に器が置いてあるのかしらと思う。

 テレビとベッドに挟まれた中央のテーブルには百貨店の贈答コーナーで見かけるような、シミひとつない綺麗なフルーツの盛り合わせが置いてある。果物ナイフも添えられており、さすがのおもてなしが心憎い。

 天井の高い部屋はまたしんと静まり、威厳にみちた西洋の洒落たインテリアにふたりは置き去りにされた。

「ユウくんにご挨拶にいこうよ!」

 礼美がいつもの笑顔と元気な声で振り返り、私に言った。


「確か、南側のスイートルームって言ってたわよね」

 廊下に出て、夏絵の部屋の前を通り左へと曲がる。夏絵の部屋は、東南の角部屋だった。

「あ、あったよ。ふみちゃん、ここ、SUITE ROOMって書いてある」

 重厚なブラウンの扉は、私たちの部屋よりも少し大きく感じる。ドアノブがゴールドなのもVIP感を演出させ、私たちを緊張させた。

 礼美が私を見て頷き、三回ノック。ドアは返事もなく、すぐに開いた。

「……あー、えっと、どなたですか?」

 ドアを開けてくれた黒いニットの若者が、私たちを交互に見ながら言った。なんと、こちらの彼もイケメンではないか!

「あ、あの、すみません。星野礼美と言いますが、ユ……ウ、じゃなくて、琥珀さん、いらっしゃいますか?」

 礼美が激しい動悸に見舞われながら、何とか言い終えた。


「星野礼美さん? ちょっと待って……。ユウさん!」

 部屋の中にある続き部屋のドアに向かって、彼は声を掛ける。

 こちらの共有スペースの部屋には、他にも数人スタッフらしき人たちがいて仕事の話をしている。皆、ちらりと私たちを見た。ユウはまだ出て来ない。

「音楽でも聴いてるんじゃないか? ハルヤ、お客さんに待っててもらって。ユウを呼んでくるから」

「すみません、オギトさん」

 ハルヤという青年に待つように促され、私たちは扉の外側でじっとしていた。緊張してる分、時間がかかる気がする。

「……お待たせしました。こんにちは」


 音もなく突然、そこに琥珀ユウが現れた!

「こ、こんにちは! お久しぶりです。……私たちのこと、わかりますか?」

 礼美の声がうわずってる。私も頬が紅潮してくるのがわかった。

 紛れもない琥珀ユウが、カジュアルな黒髪のヘアスタイルで立っている。もう、だから、その目にかかる前髪の長さが好きなんですって、私……。

 オフホワイトの上質なVネックのニットを着た二十九歳のユウは、以前より落ち着いた雰囲気で彼史上最高の魅力を放っていた。

「星野礼美さんと花野ふみさん。でしょ? こちらこそ、お久しぶりです。今日はようこそ。真綿さんとあの……ペット探偵の彼も来られるとか。今回、会えるの楽しみにしてました。夕方のリハーサルから、楽しんでいって下さい」


 私たちは間抜けな顔をしていなかっただろうか。

 長身のユウは優しい笑顔で握手をしてくれた。あの夏の打ちひしがれたユウとは違い、トップスターという手の届かない存在になったようなオーラを感じる。いくら気さくに接してくれたとしても、嬉しい反面少し寂しい気持ちも覚えた。

 その後、黒いスーツを着た細身の若い女性スタッフがやって来た。肩下の髪をひとつに結び、ナチュラルなメイクでビジネスモードに徹している。

私たちにリハーサルの時間などを伝え、その時にお手伝いをしてくれるなら(イベント情報の折り込み等)助かりますと言った。

「ユウくん。私たちの隣の部屋に、妹さんが泊まってらっしゃるって聞きました」

 礼美が思い出したように言う。

 ユウの笑顔が消え、何とも言えない表情に変わった。身内の存在を言われると、みんなこんな気まずい顔になるのかもしれない。


「……ええ、夏絵といいます。年の離れた妹なんですよ。たぶん、今日のリハーサルも観に来るので、その時は相手してやってもらえますか。あいつ、ひとりでウロウロされても困るんで」

 ユウは前髪をかき上げ、ドアにもたれかかった。

「はい、そうします。あ、夏絵さん、わんちゃん連れて来てるんですよね? とっても可愛いトイプードル。私たちさっき、ちょっと見かけたんです」

 私がそう言うと、ユウが視線を向けてくれた。ちょっぴり嬉しい。

「ああ、ソフィアですか。……そうですね。家族にしかなついていないので、ちゃんと面倒見るという約束で連れて来てます」

 ちょっと困った顔をしたユウも素敵だった。

 最近はペットブームということもあり、ペット可のホテルも多くなってきている。ここもたぶん部屋によっては連れてきてもいいのだろう。


 私と礼美は大満足だった。また二時間後に会場でと言葉を交わし、部屋へ戻ろうとしたその時……。

「夏絵っ!」

 ユウが私たちの後ろに視線をやる。思わず、私たちも振り返った。

「こんなところで何をしてる! どうして寝てない? 風邪でも引いたらどうするつもりなんだ」

 怒鳴るようなユウの声を初めて聞いた私は、一瞬フリーズしてしまった。きっと礼美もそうだ。先程の白いワンピースの肩にタータンチェックのストールを掛けた夏絵が、たどたどしい声で言い訳をする。

「私、お昼寝しようとしたんだけど、……横になっても、なかなか眠れなくて。それで……香奈さんとお話がしたくなって。……ごめんなさい、お兄ちゃん」


 先程のスーツの若い女性スタッフが慌てて割り込んできた。

「夏絵ちゃん、一緒にお部屋に戻りましょう。少しだったら、時間あるから、ね」

 ユウが冷めた視線で夏絵を見る。

「……興奮して寝られないだけだ。香奈、夏絵を部屋から出すな。それから、夜はちゃんと睡眠薬を飲ませて」

「はい、わかりました」

 香奈というスタッフと一緒に部屋へ戻っていく夏絵を、私たちはとりあえず見ていた。帰る廊下は一緒だが、後をついて行く感じで気が引ける。

「驚かせて、すみません。……実は、夏絵は身体が弱いんです。昔から心臓に重い持病があって。三年前に心臓移植手術を受けています。だから、どうしても神経質になってしまう」

 先程の苛立ちは消え、いつの間にか普段のユウに戻っていた。あの突発的な怒りは、妹への心配からくるものなんだろう。

「じゃあ、後ほど。リハーサルで」

 私たちは笑顔を取り戻し、その場を後にした。廊下の先にはすでに夏絵の姿はなかった。

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