6-5

「知らない人もいるかもしれないので、まずは概要説明から入ります」

 三浦さんがシャツの胸ポケットから紙切れを取り出し、顔の前にかざした。

「わたしは男性同性愛ものの創作物を好む女性、『腐女子』と呼ばれる存在です。腐った女子と書きます。現在は単なる女性のオタクを指して腐女子と呼称することもあるようですが、わたしは違います。純粋にホモが好きな腐女子です。腐女子が好むホモは『やおい』や『JUNE』や『BL』と呼ばれます。BLはボーイズラブの略語ですが、ホモの対象を少年には限定しません。中年男性同士の作品もたくさんあります」

 校長が、三浦さんの右肩をポンと叩いた。

「君」

「すいません、まだまだかかるので待って下さい。えー、わたしがホモにハマったのは小学校五年生の時です。その時に大好きだった少年漫画があって、本屋に行った時にその漫画のキャラクターが表紙に描かれた本があったから買ってみたら、二次創作のホモ本だったのがきっかけでした。わたしは子供心に『エラいものに手を出してしまった』と感じました。そして、とんでもなくドキドキしました。わたしはホモ本を読み耽り、そして読み終わった翌日、買った本の隣にあった別のホモ本を買いに行きました。気がついたらわたしは愛読していた少女漫画雑誌の購読を止めて、お小遣いの八割をホモに費やす立派な腐女子になっていました」

 教頭が、三浦さんの左肩をポンと叩いた。

「ちょっと」

「すいません、まだ小学生編なんで先長いです。えっと、二次創作から一次創作に手を出すようになるまではそんなに時間はかかりませんでした。インターネットの世界にはわたしと同じような趣味を持った人たちがたくさんいて、いくらでもホモを見ることが出来たからです。わたしもホモの絵を大量に描きました。おかげで絵がやたらと上手くなって、中学で入った美術部では一目置かれていました。ただわたしは、ホモが好きだということを公表はしませんでした。学校の男子が全員ホモだったらいいのになと思うぐらいには脳みそ腐ってましたけど、そういう趣味は隠さなくてはならないという分別ぐらいはついていました。だけどバレました。ノートに描いたホモ絵を他人に見られました。元からあまり仲が良くなかった女の子グループのボスに徹底的に責められて、わたしはクラスで孤立してしまいました。『わたしから友達を奪ったホモなんか嫌いだ』。三日間ぐらい本気でそう思いました。一週間後には『友達がいなくてもホモがあれば生きていける』に変わっていました。わたしの頭は、わたしが思う以上に腐っていました」

 生活指導の先生が、三浦さんのシャツの襟を引っ張った。

「おい! 止めろ!」

「いやです! まだたくさん話したいことがあるんです!」

「話させるか!」

 先生が三浦さんを後ろから羽交い絞めにする。三浦さんは「やめて!」と金切り声を上げて暴れる。それでも引きずられるようにマイクから離され、叫び声がどんどん小さくなっていく。

 風が、僕の真横を通り抜けた。

 風だと思ったものは、少年だった。僕の横を通って前に駆け出した少年は、バネみたいにぴょんと飛び跳ねて、雛壇に上がった。少年は勢いを落とさず、獲物を見つけた獣のように生活指導の先生に飛びかかる。すぐに先生を三浦さんから引きはがして後ろに倒し、その上に馬乗りになる。

 亮平が、起き上がろうと暴れる先生の身体を抑えながら叫んだ。

「三浦! 続けろ!」

 三浦さんが「分かった!」とまたマイクを握った。いや、握ろうとした。だけどそれより早く、教頭が三浦さんの腕を掴む。三浦さんの顔に絶望が浮かぶ。

 亮平が生活指導の先生から離れ、教頭を突き飛ばした。マイクを握ろうとする三浦さんを、今度は校長が「止めなさい!」と止める。亮平が校長に飛びかかろうとする。だけど起き上がった生活指導の先生に、後ろから羽交い絞めにされて止められる。つき飛ばされた教頭も復帰して、校長と一緒に三浦さんを抑える。絶体絶命。

「ちくしょう! 離せよ!」

 亮平が、もがきながら叫ぶ。

「大事な話をしようとしてるんだ! 今までずっと踏み潰してきたものと、無いことにしてきたものと、ちゃんと向き合おうとしてるんだ! また無かったことにして終わらせるなんて、絶対にさせねえぞ!」

 大きな声が体育館に響く。背後の空気が変わる。三学年分の大軍が必死な言葉に心動かされている。その気配を、背中から確かに感じる。

 亮平が、壇下に向かって喚いた。

「お前ら、手伝えよ!」

 嵐が起こった。


    ◆


 今度は、風ではない。

 怒号と足音で体育館中をビリビリと揺らし、革命を望む群衆のように雛壇に押し寄せる人々は、もう風なんていう生やさしいものではない。嵐だ。全てを吹き飛ばす嵐。束ねられた意志が、同じ方向を向く想いが、世界を塗り替えていく。

 名前も知らない少年少女たちが、校長や教頭や生活指導の先生に掴みかかり、動きを抑える。教頭が「先生方、来てください!」と壇下に向かって叫び、体育館脇で事態を呆然と眺めていた教師陣が慌てて動き出した。だけどそれは、風。吹きすさぶ嵐に阻まれ、壇上に到達することすら叶わない。

 一人の男性教師が「お前たち止めろ!」と叫んだ。嵐は怒号を返す。別の男性教師が「内申点下げるぞ!」と叫んだ。嵐は怒号を返す。若い女性教師が「どこ触ってんの!」と叫んだ。嵐は怒号を返す。一つの塊になった群衆に、言葉は通用しない。

 三浦さんがマイクを掴んだ。キッと顔を上げ、透明な声を騒乱の上に被せる。

「話します!」

 嵐となった群衆に交わらず、居座って話を待っていた聴衆が、わっと声を上げた。

「高校生になったわたしは中学生の出来事を反省して、絶対に腐女子バレはしないと心に誓いました。学校のノートにホモ絵を描くのを止めて、ホモ本は必ず遠出して買うようにしました。一年間はそれで乗り切れました。だけど二年生になる前日、春休み最後の日に事件が起きました。ホモ本を買っているところを、クラスメイトの男子に目撃されてしまったのです」 

 三浦さんがちらりと僕を見た。再び、顔を上げる。

「わたしはその彼に、わたしが腐女子であることを秘密にしてくれるよう頼みました。彼はその頼みを了承しました。でもわたしは不安でした。彼とわたしはそれまでほとんど接点がなく、わたしにとって彼は何を考えているのか分からない男子だったからです。わたしは帰って、インターネットで知り合いになった年上の腐女子仲間に相談しました。その人は『仲良くなってこっち側に引きずり込んじゃえば?』とわたしに提案しました。ちょうど腐女子が集まるアニメのイベントに行く予定があり、そこで売られている一人一個限定のグッズが複数個欲しいという事情もあって、わたしはそのイベントに彼を誘うことにしました。彼は快く――という感じでは無く、ひねくれた言い方をする人だったから『なんだコイツ』とか少し思いましたけど、申し出を受けてくれました。そして詳細は省きますが、わたしはそのイベントに出かけた日、彼に惚れました」

 ヒューと口笛が上がった。三浦さんが恥ずかしそうにはにかむ。

「惚れたはいいけれど、わたしはどうすればいいか分かりませんでした。なにせわたしは小学校の時からホモ一筋で、男子は全てホモであればいいと思って来た女なのです。恋の仕方なんて分かりません。だからわたしは好きになった経緯は脚色して、友達に相談しました。友達は快く協力してくれて、わたしに色々なアドバイスをくれました。わたしは積極的に彼に話しかけ、彼はちょっとめんどくさそうにしながらも、わたしの相手をしてくれました。そしてゴールデンウィークに友達の計らいで彼と一緒に遊園地に行くことになり、わたしは観覧車の中、彼に告白をしました。彼はわたしにキスをして、告白を受けてくれました」

 また口笛。さっきよりも大きい。三浦さんの頬に赤みがさす。

「わたしは絶頂期に入ります。彼と一緒に中間テストに向けた勉強をして、ちょっとひねくれた口の悪い彼と言葉を交わして、本当に幸せでした。身体中にエネルギーが満ち溢れて、今なら何をしても上手く行くと本気で思えました。全能感、とでも呼べばいいのでしょうか。今回表彰を頂いた絵もその期間中に描いたものです。でも、幸せな時期はそんなに長くは続きません。わたしと彼をギクシャクさせる一つの事件が起きました。彼は、わたしを抱けなかったのです。勃ちませんでした」

 ざわっと、聴衆がどよめいた。

「ずっと恋の相談していた腐女子仲間の人は『高校生の男の子なんて性欲が服着て歩いているようなものよ』とか言っていたから、本当にショックでした。わたしの身体ってそんなに魅力ないのかな。そんな風に悩んで、ネットで調べた胸を大きくする体操に手を出したりしました。彼と館内を浴衣で歩く温泉施設に行く予定があったから、今度こそ湯上り浴衣姿で悩殺よとか、阿呆みたいなことも考えていました。でも結局、彼は浴衣にも湯上りにも嘘くさい反応しか返してくれませんでした。そしてわたしはその温泉施設で見てしまいました。彼が男の人と、キスをしているところを」

 三浦さんが笑った。もう笑うしかないよね。そういう表情。

「初めて出会った、ホモであって欲しくない男の子は、ホモでした」

 群衆が暴れる。聴衆が静まりかえる。嵐と凪。二つが同時に存在する奇妙な空間。

「彼は、苦しんでいました」

 三浦さんの声は、わずかに震えていた。

「普通に生まれたかった。普通に生きたかった。だからわたしと付き合ったと彼は言いました。自分はいつだって普通になれる。みんなと同じように生きることが出来る。それを自分に証明したかったのだと。わたしは、泣きました。彼の苦しみ。わたしの想い。どうしようもないものが全部一気に襲いかかって来て、泣いてしまいました。それから先のことは、皆さんもよく知っていると思います。色々なところで、皆さんが噂話をしているのを耳にしましたから」

 どんどん、三浦さんの声が弱々しくなる。自分のことを話している時と、僕のことを話している時で、全く違う雰囲気を醸し出す。

「彼はいつも、自分の前に透明な壁を作っています」

 三浦さんが開いた手を顔の前に掲げた。そして壁を撫でるように、垂直に下ろす。

「その壁の向こうからわたしたちを見ている。それは自分を守っているのではなく、わたしたちを守っているのです。僕が表に出たら君たちはきっと困ってしまう。摩擦をゼロにするように、空気抵抗を無視するように、僕を無かったことして世界を簡単にして解いている問題が解けなくなってしまう。だから、こっち側で大人しくしているよ。そう言っているんです。彼は自分が嫌いで、わたしたちが好きなんです。でも――」

 三浦さんの頬を、涙がつうと伝った。

「でもわたしは、彼のことが、本当に好きで――」

 言葉が途切れた。三浦さんが目元を抑える。聴衆から「がんばれー」と声が上がる。三浦さんは声援に応えるように顔を上げて、だけどすぐに、大粒の涙をボロボロ溢して俯いてしまう。

 一人の少年が、三浦さんからマイクを奪った。


「アンドオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」


 咆哮が、世界を揺らした。

 三浦さんの涙が止まった。聴衆の応援が止まった。群衆の暴走が止まった。

 嵐が、止まった。

「てめえ、いつまでそこでぼーっと見てんだよ!」

 少年――小野が壇上から僕を指さした。いつものように険しい目つきを僕に向け、敵意剥き出しで叫ぶ。

「三浦がてめえのために泣いてんだぞ! それをてめえは呑気に見学か! 僕はホモだから女の涙には動じませんってか! あ!?」

 小野は嘘発見器。世界の嘘を暴く正直者。

「てめえ! 自分はホモだから、苦しんでるから、他の誰よりも自分が一番かわいそうだと思ってんだろ!」

 誰も分かってくれない。そう嘯きながら膝を抱えて蹲っていた。悲劇の主人公ぶっていた。分かって貰おうとしたことなんて、一度もないくせに。

「ふざけんなよ! てめえにてめえの都合で騙されて、好き放題された三浦の方がよっぽどかわいそうだろ! お前はそれにどうオトシマエをつけるんだよ! どう責任を取るんだよ!」

 オトシマエ。責任。僕は手を差し伸べられる側じゃなくて、差し伸べる側。

「さっさと出て来い! そんで、ケリつけろ!」

 小野が、叫んだ。


「男だろうが!」


 世界を簡単にする。

 僕は女を愛せない。だから三浦さんを愛することも出来ない。僕は三浦さんの想いに応えることは出来ない。僕と三浦さんは結ばれない。全て無視する。

 そして、一つだけ残す。

 男は――

 責任を取る。

「……勝手な」

 僕は小野を睨み、叫び返した。

「勝手なこと、ほざいてんじゃねえよ!」

 右足を踏み出す。

 大げさに床板を踏み鳴らし、力強く走る。身体中にビリビリと衝撃が走る。傷ついた腕が、肋骨が痛む。それでも脚の力は緩めない。近づいていることが分かるように、きちんと伝わるように、二本の足を激しく地面に叩きつける。

「急げー!」

「彼女が待ってるぞー!」

「責任取れよー!」

 一つの嵐が止み、別の嵐が生まれる。聴衆と群衆が一つになって僕を囃し立て、教師たちが穏やかな目で僕を見守る。僕を同性愛者だと知り、女を愛せないと知り、それでも女のところに向かう僕を応援する。

 ――どうして。

 どうしてお前ら、そんな世界を簡単に出来るんだよ。

 どうしてそんな能天気に、他人の背中を押せるんだよ。

 摩擦も空気抵抗も無視しないまま問題を解こうとして、考えて、考えて、考えて、結局解けないで死にかけた僕が、これじゃあ一番の大馬鹿野郎じゃないか。

 ちくしょう。

 泣けてくる。

 息を切らし、雛壇を上る階段を一気に駆けあがる。目を真っ赤に腫らした三浦さんが両腕を大きく広げた。僕はその腕の中に飛び込む。僕の背中に両腕を回す三浦さんの真似をするように、左手を三浦さんの背中に回す。

 三浦さんが僕を抱く。僕も三浦さんを抱く。柔らかな感触と甘い香りが五感から伝わる。僕のセンサーには反応しない、女の子のフェロモン。

「ごめん。あと、ありがとう」

 頭に浮かんだ言葉を、何の捻りもなく口にする。三浦さんは僕の胸に顔を押しつけ、ふるふると首を振った。そして潤んだ瞳で僕を見上げ、ぷるぷるした唇を開く。

「ねえ。キスして」

 キス。僕は返事を言い澱んだ。

「でも――」

「安藤くん、見て」

 三浦さんが僕の言葉を遮った。そして上向かせた右手を大きく伸ばし、周りをざっと示す。示されたものは、名前も知らない大勢の仲間たちによる期待の眼差し。

「こんな簡単な問題も解けないの?」

 赤く腫れた目を細め、三浦さんが笑う。こんなの小学生にだって解けるよ。安藤くんはお馬鹿さんだね。そうやって僕を嘲る。

 僕は、言った。

「うるさい」

 唇で唇を塞ぐ。それが正解だと教えるように、体育館中から割れんばかりの歓声と拍手が上がった。

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