第2話 起きる前に気絶したと思うんです。

「十三世紀末、現在のトルコ共和国アナトリア地方に興ったとされるオスマン帝国は、十四世紀に入って勢力をひろげ、マルマラ海を渡ってヨーロッパに侵攻します。現在のギリシャ、ブルガリア、ボスニアなどにあたる地域を征服したオスマン帝国は十五世紀の中ごろ、ついに紀元前から続く古代ローマの後継国家、東ローマ帝国を滅亡させるわけですが、では一四五三年に陥落した東ローマ帝国の首都をなんというでしょうか──賀茂くん」


 教室の後ろからそっと入り、這うようにして自分の席をめざしていた賀茂タダヒトは、いきなり指名されて、動くに動けなくなった。


 体育は『3』以上とったことがないタダヒトだが、こういう隠密行動(?)には妙な才能がある。事実、中学時代から昨年まで、これでバレたことがなかった。

 しかし都立あやし野高等学校二年三組の副担にして、世界史を担当するサトミ女史にだけは通用しない。眼がいいのか勘がいいのか、今のところタダヒトの《潜入》は全敗だった。


「ええと──よく聞いてませんでした」

「よく聞いてなかった、じゃないでしょ?」


 きりきりと眉をつりあげて、サトミ先生は腰に手をあてた。

 細身ながらも出るところは出でメリハリのきいたボディを紺色のスーツで引き締めている。膝上のスカートから突き出た両脚を踏んばって、ぐいと胸を反らせて不届きな遅刻魔を見おろす横顔は、


『本年度ミス・キャンパス教諭部門のクイーン戴冠は間違いない』


 という、思春期男子も太鼓判の美貌だった。もっとも後夜祭で開催されていた同イベントは、激おこで殴り込んできたモンペによって中止に追い込まれ、今は某SNSで募った投票結果でしかないのだが──。

 それはさておき、


「授業を始めるときはいなかったでしょ。遅刻よね?」

「はあ。あのう、来る途中でバスがパンクを」

「賀茂くん。それって本当なの?」

「すいません。嘘つきました」


 適当すぎる言い訳は、あえなく秒殺された。

 学園トップクラスの美人教師にシラを切り通すほど、タダヒトのメンタルは強くないのだ。


「朝のホームルームは誰かに代返してもらったの?」

「ええっと──そのう──」

「その子も共犯よね。誰に頼んだの?」

「すいません。言えません」


 逃げも隠れもしませんが、友達を売るつもりもありません──という開き直りだった。

 サトミ先生はため息をついて、


「遅刻した理由は寝坊?」

「寝坊というか──たぶんですけど、起きる前に気絶したと思うんです。意識が戻ったときには、もう間に合いそうもなくて」

「寝ている間に気絶するはずないでしょ。何を言ってるの?」

「そう言えば、そうですね」

「先生、ふざけてると本当に怒る」

「すいません。やっぱり寝てて、起きれなかったんだと思います」

「それを寝坊っていうの。小学生からやりなおす?」

「いえ──」


 サトミ先生は、すっと廊下を指さした。


「立ってなさい」

「えー。廊下にですか?」

「そ」

「でも、あの、それって教育を受ける権利が奪われるっていうか、その、まずいんじゃないでしょうか、いろいろ」

「遅刻しといてヘリクツ言わない。補習はちゃんとします。さ、行きなさい」

「けど、これ、体罰なんじゃ──」


 タダヒトはなおも抵抗したが、さらに険しい表情で睨まれて、結局、すごすごと教室を出るしかなかった。

 クラスメートはニヤニヤしている。

 女子が口をおさえてクスクス笑う。

 何人かは我慢しきれず、ぷっと吹いた。


 無理もない。今どき廊下に立たされるなど、それこそマンガかアニメみたいだ。だが、もし二年三組の生徒たちに読唇術のスキルがあり、かつクラス副担の口許を注視していたのなら、声なきつぶやきが次ように読めただろう。


からって、やたらとように言っとかなくちゃ』


 もちろん、人一倍ぼんやりしているタダヒトもそれに気づかず、


(どうか、誰も通りませんように──)


 と、祈るような気持ちで立っていた。


 * * * * *


「一四五三年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国は、なおもヨーロッパへの攻勢をつよめて現在の東欧諸国、ルーマニア、ハンガリー、オーストリアなどを攻め、事実上の属国とします」


 遅刻魔を追い出して、教室では授業が再開されていた。


「一方、東欧側においては諸侯がはげしい抵抗をみせ、なかでも勇猛で知られたワラキアの君主ヴラド三世は、敵に対する残虐な行為から、のちに吸血鬼ドラキュラのモデルになったとも言われています──これはテストに出ないけど」


 などと脱線をまじえながら、いつにもまして飛ばし気味。そんなサトミ先生の張りのある声と、チョークの音を聞くともなしに聞きながら、タダヒトは廊下の窓から、立ちのぼる雲をぼんやり眺めていた。


 まだ暑い日が続くが、心なしか空が高い。


 木々をざわつかせた風が開け放しの窓から入って、タダヒトしかいない通路を吹き抜けていく。しばらく窓枠にとまっていたトンボが、休憩をおえて飛びたっていった。

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