016

 おどろくべきコトに、灰色のコルブッチは〈東の森〉からたったひと晩で、〈いと甘き水の地〉へとたどり着いていた。その事実にはコルブッチ自身、衝撃を受けている。

 何とも奇怪なハナシだが、出発してから最初の夜、野宿をしたところまでは憶えている。しかし翌朝、水が激しく流れる音に目覚めて気がつくと、砂漠の真ん中にいたハズなのにいつのまにか川のほとりで寝ていたのだ。

 そして川のなかに、木の棒きれを振り上げて立つ女の姿があった。

 しかもそれはなんと、あの名無しの女だ。

 女はコルブッチが目覚めたのを知ると、「おはよう。そこで待ってなよ。今捕まえてやるから。“さあ、どこにいる、生みのおふくろの大地に抱かれて寝るのが望みという雄々しい若者は?”」

 そう告げるや、女は棒切れを水面へ振り下ろした。水しぶきが上がり、女の肌を濡らす。

「よし、上手くいった」

 女は棒切れを放り捨てて、衣服が濡れるのもかまわず、川から何かを抱え上げた。

「ほら、見てみなよ。すごい大物だ。さすがはこの川のヌシ。気絶させてなかったら、こんなふうに持ってられないだろうね」

 コルブッチは仰天した。それは見事に脂のノった鮭だった。そしてこの距離からでも、その全身からすさまじい魔力がほとばしっているのがわかる。

「――よもや、そやつが〈知恵の鮭〉かっ」

「アタリマエだろ」女はあきれた様子で、「アタシが何してると思ってたんだい」

「それは、じゃが、しかし……」コルブッチは言葉につまった。疑問に思っているコトが多すぎて、何から尋ねればよいかわからなくなったからだ。

「とりあえずこいつが目を覚ます前に、さっさとさばいちまおうか」

 しかし女の見通しは少々甘かった。即座に覚醒した鮭は大暴れし、逃がしはしなかったものの、女は取り押さえようとしたときにすべって転び、全身びしょ濡れになってしまった。


 名無しの女は慣れた手つきで素早く鮭を血抜きし、解体。ひと切れごとに細い枝を刺す。そのあいだにコルブッチはたき木を集めて火を起こす。「ケボ ヨエネヤジンデ ンヨラカサカサ」

 準備を終えた女が、そのまま鮭を焼こうとするのへ、「待て。焼くのはわしが自分でやる」

「そんな警戒しなくても、別に横取りなんかしないって」

「わざとではなくとも、不可抗力というコトもあるからのう」

「脂がはねたりとか? そのセリフはアタシじゃなくて、ジャンゴに言ってあげるべきだったんじゃないかい?」

「……なぜそれを知っておる」

「アタシは何でも知ってるのさ。“なぜなら実際、死を恐れるということは、諸君、知者でないのに、知者だと思うことにほかならないからである。”」

「まじめに答えぬか」

「何ごとも“まじめが肝心”ってわけ。ハイハイ、正直に答える。ずっとアンタらを尾行してたんだよ。これで納得?」

 コルブッチの長年の経験からくるカンからすると、この女は嘘を言っている。しかし、ほかに理由など思いつかないので、言葉どおり納得するしかない。

「とにかくわしにまかせて離れておれ。脂でヤケドしたくなくば」

「別にいいけど、チョット待ってな」

 女はコルブッチに鮭をわたすと、突如何の恥じらいもなく、びしょ濡れになっていた服を下着まで脱ぎ捨てた。「風邪をひいちまったらコトだ」

 衣服を火のそばに乾きやすいよう置くと、女はたき火から距離を取って座った。このあたりは比較的涼しいほうだが、それでもカラダが冷える心配はあるまい。それにハダカでは、鮭の脂がはねたときヤケドの危険が大きい。コルブッチはあえて引き止めようとはしなかった。

「……おぬしが、眠っておるわしをここへ運んだのか」

「ほかに誰がいる? 感謝してくれたってバチは当たらないんじゃないかねェ。“ありがとうも言えぬのか、おれは? おれの心の働きはすっかり消えはて、こうしてここに立っているのはただの案山子だ、いのちをもたぬ木偶人形だ。”」

「…………」

 次になぜと問うべきか、それともどうやってと問うべきか、コルブッチは逡巡した。

 だが口をついて出たのは、そのどちらでもなかった。「おぬしはいったい何者なのじゃ」

「アタシが何者なのかなんて、どうでもいいコトだよ。アタシは何者でもない。単なる通りすがりのお節介さ」

「…………」

「質問は終わり? それならチョット席を外すよ。ションベンしたくなっちまったでね。あとクソも」

 恥ずかしげもなく告げると、名無しの女は岩陰の向こうへ消えた。

 まったくつかみどころのない女だ。完全に手玉に取られてしまっている。その事実が、コルブッチはどうにも気にくわない。白のレオーネにならともかく、あんな小娘にまでコケにされてたまるか。

 何とか主導権を奪い取りたい。それにはとりあえず、精神的に揺さぶりをかけてみるべきか。

 だが、いったいどうやって?

 コルブッチは危うく鮭を焦がしかけるまで悩んだすえ、乾きかけていた女の服をたき火へ放り込んだ。服がなくなったとなれば、さすがのヤツもあわてるハズだ。でなければ女ではない。

 実のところ、こういうとき子供じみた発想しか思いつかないところが、レオーネに見下される要因のひとつなのだが、コルブッチに自覚はなかった。

「……それにしても、ずいぶん長いクソじゃな」

 ――はたして、女は戻って来なかった。

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