第31話

 類はソファの前まで歩いたけれど、座りはせずに立っていた。私も座る気にはなれなかった。一方が腕を伸ばしても、触れられない程度の距離で、向かい合う。常にないことに、類は自分の肩を見るように俯いて、私と視線を合わせない。

「元気だった?」

 最後に会ったのもほんの一週間ほど前なのに、随分遠くに感じて、そんなことを尋ねてしまう。類は首を振った。確かに、ひどく疲れた顔をしていた。

「里香は……」

「私? 元気だったよ」

 よかった、と、いじらしいほどの素直さで、類は呟いた。俯いたまま。

「里香」

「何?」

「クリスマスに言ったこと……僕にはまだ、本当に難しいんだ。というよりも……できないんだ」

「一人でやっていくことが?」

 類は頷いた。

「偉そうに言ったけど……君がそこにいると……簡単に、言ったことを忘れそうになる」

「類、苦しい?」

 くるしい。

 と、類は言った。

「理由は違うけど、私も苦しかったよ。ずっと。類のこと、類が私を好きなように……愛してくれてるようには愛せなかったし、そうならなくちゃいけないような気がしてたから」

「ごめん」

 私は首を振った。

 類のせいだけではない。今になれば、それは私の馬鹿げた思い込みだった。それでもそういう思い込みとわかちがたく絡み合った色々な思いや考えで、私という人間は出来あがったのだ。だから、ここにこうして立っている。もっと賢く強かったら受けずに済んだ、そして与えずに済んだ痛みも、全部必要だったのだと、信じたい。そして、信じるだけではなく、私が齎した全ての痛みを見つめ、そして癒して、その傷跡ひとつひとつに意味を見つけたい。

「いいの。私はもう、苦しくないから。それでね、類、私を見て」

「でも」

「見て」

 繰り返すと、類は緩慢に首を巡らせて、私を見る。その視線はまだ揺れている。ヘイゼルグリーンの、今の類の瞳。そこから愛されていることを感じ、愛さなくてはと思った、その色。

「恋人同士だったときも、私、類のことを愛してなかった。今も、類のことを愛してるわけじゃない」

 目を逸らさないまま、類の瞳が苦痛に翳る。その痛みを、私は見つめる。緑と茶が混じりあった、その瞳。

 幼いころ、私が無心に愛した男の子の、あの緑の瞳とは違う色をしている。でも、その翳りの奥には、まだあの脆い新緑の色が残っている。どれだけ形は変わっても、消えない。

 決して、消えない。

 見つめ合ったまま、私は類に歩み寄る。類は、わずかに身を引いた。いつもとは、まるで逆だ。

 私はこれから伝える、自分の気持ちを、胸のうちを覗き込んで確かめる。これは、類が私にくれたものだった。冬の初め、再会した頃には、私の中に一欠けらも存在していなかった気持ち。でも、それは類も同じことだ。あのクリスマスの日にくれた別れの言葉は、これまでの類の人格からは、出てこなかったものだ。類は、変わったのだ。私のために、今までできないことをする、新しい自分を作ってくれたのだ。そういうことができるのだと、類は私に教えてくれた。

 だから、今度は、私の番なのだ。私も新しい私を、類に差し出したい。勿論、まったく違う自分になることはできない。それでもきっと、変えたいと思ったことは、変えることができるのだ。

「私は多分、類みたいには、人のことを愛せないと思う。でも、私のやり方で、これから始めてみたい。類のことを、愛したい」

 類の目が見開かれて、そのヘイゼルグリーンの瞳の、丸い輪郭が露わになる。そこに、私はもうかつて愛した男の子を見ることができる。あの子は消えていない。ずっと消えない。そして彼への愛情も、私の中で消えていない。消したくない。

 私は目を閉じる。心の奥の奥で、どんなときも消えずにきらきらと光っている、大切なもの。その大切なものを、類と分け合いたい。

 目を開く。私は今、これまでにないほど、怯えていた。これまで誰にも、自分自身にさえ触れさせなかった大切なものを、差し出している。私自身にも、時間の風化でも、消せなかったもの、類にしか損ねることができないものを。

「類。私のそばにいてくれる?」

 見開かれた類の瞳に映る私の姿が揺らぐ。それが一つの滴になって、零れ落ちる。

「……僕は、もう絶対に君を傷つけないって、約束することが、できない」

 泣き声を無理矢理言葉にして、類が言う。

「変なことしたら、今度は私、ちゃんと叱るよ」

「今度は……」

 喉の奥から、苦しげな息を吐く。

「今度は、きっと、君を離してあげられない……里香がどんなに嫌がっても、もう離してあげられない」

「そうなっても、どうにかするよ」

 類の目から、涙は途切れずに溢れている。私は手を伸ばして、それを拭った。遠い遠い昔、いつもそうしてあげていたように。

「里香が、好きなんだ」

「そう」

「本当に、好きなんだ」

「ありがとう」

 類の腕が、花束でも抱くようにこわごわと、私を包んだ。私は類の身体を、両手を広げて受け止める。私の腕には少し大きすぎる身体。自分でも知らぬ間に、運命的な大いなる力にだか、偶然の連なりにだかで、私の人生に投げ入れられた、重すぎる荷物。出会ってから二十年以上が経って、私はようやく自分の人生に、これを引き受けると決めた。

 こんな手に余る荷物を抱えて、この先どうなるかは、わからない。私はこれからもきっと、苦しむだろう。でもどうにかやっていくしかないし、きっとやっていける。ただ苦しみに耐えるだけでも、逃げ出すのでもないやり方を、今ならできる。そう信じている。具体的な根拠などない。強いて言うのなら、それを信じたいと願う私のすべてが、根拠だった。なんの論理もなく、けれどそのすべてを、とても力強く感じている。今、信じられるということ。今、彼をこんな気持ちで抱きしめられるということ。この先起こるかもしれない苦難への報酬には、本当にそれだけで十分だった。

 類は私の首に顔を埋めて、泣き続けている。嗚咽と涙の熱を、肌に感じ、私は彼の広い背中を撫でる。類の身体は、とても、あたたかい。目を閉じて、ひどく安らいだ気持ちで、その重みを受け止める。

 そうやって私は、遠い昔に愛した男の子と、今まさに愛し始めた男を、抱きしめていた。

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