第14話
魔法使いのマントみたいに、ブランケットを巻き付けたまま、散歩をしている。見た目もみっともないし、ずり落ちてこないように押さえていないといけないので、だいぶ邪魔だ。歩いているうちにあたたかくなるからいらない、と言ったのだけれど、類が承服してくれなかった。
「可愛いよ、それ」
「そう思ってるの類だけだよ」
「それじゃだめかな」
「私は可愛くないと思う」
「可愛いよ」
世界一馬鹿らしい水掛け論だ。恋人同士というのはお互いのためにどれだけ馬鹿になれるかを楽しむ関係かもしれないけれど、私と類はそうではない。私は馬鹿にはなりたくないし、類が馬鹿になるのを楽しめない。
目線の先で、子供がバドミントンをしていた。十歳ぐらいの男の子とよく似た彼より小さいな女の子。兄妹なのだろう。
「バドミントン、楽しそう」
「買いに行こうか?」
そういう返答を期待していたわけではない。私は首を振る。
「それはいい。海の方行こう」
「うん」
芝生を抜けると、花壇があった。今の時期は色が少なく、緑も沈んだ色をしている。土もぼそぼそと乾いて見える。その先に、海があった。青黒い海面に、白く波が筋をつけている。塩のにおいが強くなる。
「海だ」
「海だね」
「久しぶりに見た」
「僕もだ」
弱い風に流されそうになるブランケットをかき寄せて、突っ立って海を眺める。ずっとずっと先までこんな水が続いているというのは、考えてみれば奇妙だ。世界は広い。私は小さい。そして私はその世界に立っている。当たり前のことだけれど、おかしな感じだった。とるに足りないほど小さな私が、そんな世界で、別れて二度と会いたくないと願った相手とたまたま再会して、隣に立っている。それもまた、どうということではないかもしれないけれど、つくづく奇妙なことだった。奇妙な、偶然。偶然だ。ありそうにないことでも、起こることはある。ただの数字の問題だ。私は数字に意味なんか求めない。類が私に恋をしていると知ってからずっと、私は理由を探していた。類の恋に値するような自分の美点を、必死になって探した。でも、見つからなかった。現実は私を説得してはくれない。私はただ受け入れるだけだ。すべての現実を、仕方のないこととして。
何かが背中に、静かに触れた。類の手。見上げると、類は訴えるように私を見つめていた。背中を抑えるように、類の手のひらが触れている。私の肩がこわばる。
背中ぐらい、好きに触ればいいのだ、とは私も思っている。背中に触るだけなら。それを許すことが、本当にそれだけを許すことなら。でも背中に伸ばされている手と、類の瞳が訴えるものは、今ここに存在する接触だけを示しているんじゃない。だからこれを許すことは、もっと大きなもの、取り返しのつかないものを許すことに、なってしまう。
一歩、私は前に出た。類の手が離れる。
「何?」
知らないふりで尋ねる。類の顔が歪む。
「いや……」
私は海を見ているふり、類を見ないふりをする。でも目線は海に合っても、私は類を見ている気がした。ブランケットから、ジャスミンの香りがする。私を包む、類の香り。
「行こう」
耐えきれなくてつぶやく。うん、と類の声がする。私はそちらを見ないまま、歩き出す。類のついてくる気配がする。止めなければ、どこまでもついてくるのかもしれない。私はそれを疎んでいる。でも、本当に類が私を見離す日が来たら、どんな気持ちになるのだろう。よくわからなかった。傷つくかもしれない。多分、傷つくだろう。でもそんなものたいしたことではないのだ。きっと、私はすぐにそんな傷は忘れる。私はどんな傷も忘れてしまう。一人で自分を抱えることさえ許されるなら、私はどんなことにも耐えられる。
私が耐えられないのは、ただ、
足元だけを眺めながら、芝生にまた戻る。どこを目指すということもなく、ただただ歩く。私としてはかなりの早足で歩いているけれど、ついてくる類の足音は穏やかで乱れない。急かされるようで、速度を上げてしまう。馬鹿みたいだ。
スニーカーの下で、芝生がすべった。あ、と思ったときには、私は尻餅をついていた。ブランケットがばさりと地面に落ちる。
「里香!」
切羽詰まった類の声と同時に、体が抱えあげられていた。そのまま地面に降ろされて、着地する。呆然と突っ立っていると、類にブランケットでくるまれた。
「……ごめん」
ようやくそれだけ言うと、類は小さく首を振った。膝を折って、私と目線を合わせている。ヘイゼルグリーンの瞳には、優しさだけが溢れていた。目を、逸らせない。なんだか泣きたい。ひどく心細かった。子供のころみたいに。世界と自分の区別もうまくつけられなかったころみたいに。そう言えば昔にも、こんなことがあったような気がする。私は毛布にくるまれていて、もっと大きな毛布にくるまれていて、そこには類も一緒で、昔。遠い、昔。
意識が記憶を追いかけている間に、類の手が、私の頬にかかった。大きな、あたたかい手。類の手のひらに、私の全部が乗っているような、奇妙な感覚。動くことができない。類が近づいてくる。ヘイゼルグリーンのグラデーションが、私の視界を圧迫する。
唇は熱くて柔らかくて、触れ合った部分から溶けていってしまいそうだった。この感触を、覚えていた。類の首の傾げ方。瞼にかかる類の柔らかな巻き毛。まつ毛の先がぶつかっている。私と類の皮膚はあのころとまったく同じに馴れあっていた。会わなかった四年の間に作られた隔たりなんかなかったかのように私たちの距離はゼロだった。優しく見つめられて、唇を合わせてしまえば、動くことなんかできなくなる。あのころと変わらない。いつだって私の身体は、類のいいなりだった。ほんの些細な仕草に込められた彼の意思を正確に読み取って、その通りの反応を示した。私の意思など、まるで届かない。私の身体、なのに。
それは本当に、束の間触れ合っただけの、挨拶みたいなキスだった。でも私と類は、そんな挨拶をする仲じゃない。仲じゃ、なかった。違う。違うのに。
類にとっては、でもそうなのだ。いくらか時間があって離れていただけで、私と類は正しくはこうあるべきなのだと、類は信じているのだ。
私の輪郭を確かめるように、指先で頬をなぞった。頬だけじゃなく体中のありとあらゆる部分の輪郭を、その動作で奪い取られてしまった感覚に、喉がひりつく。
動くことができない私を風や人の視線から守るように、類の手が肩に周る。
「大丈夫?」
声が柔らかく皮膚に纏いつく。ほんの何秒か前とは違う器官から出てきた声。
「やめて」
私はブランケットを類の胸に叩くように押し付けた。類は事態が把握しきれないようで、きょとんと目を見開いている。
「私、ひとりで帰る」
「里香?」
類はひたすらに困惑していた。私は言葉がうまく出なくて、首を振った。その動作のつたなさに、自分が恥ずかしくなる。なんだかこんなの、無理が通らないことを承知で、構ってほしくて駄々をこねてるみたいだ。そうじゃないのに。そうじゃない。
「電車で帰る」
声を低くして、なんとかそう言った。
「里香、怒ったの?」
類はさっきよりも深く膝を折って、下から私の顔を覗き込んでいる。子供に尋ねるような声色に、瞬間的に頭に血が上った。
「怒ってない」
言葉を柔らかくすると泣き出してしまいそうで、短く言い捨ててしまう。
「いけなかった? ごめん。もうしないから、一人で帰るなんて言わないで。里香が嫌がることは、もうしないから。ごめん」
類はうろたえている。もうしない、というのも、おそらく本気で言っているのだろう。私は類の本気は疑わない。でも、
「信じられない」
私は類の言葉を信じない。嫌がることはもうしない。そんなのは嘘だと、疑っている、のではない。嘘だと、知っている。類は私が何をどうして嫌がるのか理解できないのだ。今だって、問題の所在は類には見えていない。はっきり嫌だと言われるまでは、すべて許されると思っている。違うのに。私は類に、特別に許した場所以外に立ち入ってほしくないのに。
「悪かった。でも、一人でなんて帰せないよ」
私は首を振る。
「……一人になりたいの。帰ったら連絡するから」
「でも」
「振られた相手に黙ってキスするような人と、同じ車に乗りたくない」
腹の底から冷え切った声。罪悪感と同時に、なんでこんなことまで言わされなければならないのか、という怒りが沸いた。類は唇を薄く開き、その目は凍りついている。私は一歩後ろに下がり、横を向いた。一緒にいるのが耐えられないのなら、立ち去ってしまえばいいのに、反応を待ってしまう。類を置いてはいけない。いっそのこと完膚なきまでに叩きのめしてしまえばいいのに。どうせ私がどれだけ傷つけたって、類は死んだりしない。それはわかっている。わかっていても、できない。捨て置けない。
「……ごめん」
謝られると、咄嗟に許してしまいたくなる。怒っていた私のほうが悪いのだと、反射的に考えてしまう。幼いころから何回も何回も反復してきた儀式だ。類は悪くない。私が悪い。そういう思考の癖。
でも。でも。やっぱり私は悪くない。本当はそう信じている自分がいる。悪くないのに悪いことにされるなんて、本当はそんなの、嫌だ。嫌だ。類を傷つけないために、自分で自分を傷つけたりもしたくない。
「もう、絶対にそんなことしない。だから一人で帰ったりしないでほしい。もし里香に嫌なことをしたら、もう二度と里香に会わないから」
「一人で帰りたいの。類と一緒が嫌とかじゃなくて、一人になりたいの。帰ったら連絡するし、今日は一人で帰らせて」
類の顔を見ずに、早口で言い捨てる。答えを聞く前に、私は類に背を向けて歩きだしていた。追いかけてきたらどうしようとこめかみのあたりが熱く波打っていたけれど、何事もないまま、私は公園を抜けた。途端に呼吸が楽になって、海の匂いの風を、肺いっぱいに吸い込んだ。
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