第3話

 木曜日の午前中に図書館に行くという習慣は、失業してからのものだ。働いているころは、よっぽど暇な休日でもないとなかなか足が向かなかった。少し遠いところにあるのだ。今は片道三十分ぐらい、ちっとも気にならないけれど。

 新聞と雑誌のコーナーに行くと、高木さんは背中を丸めて科学雑誌を読んでいた。よかった。いた。

「こんにちは」

 目の前に立って、小さな声で挨拶をする。緩慢な動作で顔を上げ、それから微笑んでくれた。

「こんにちは」

 少し掠れた低い声。高木さんに会えると、そのたびに嬉しい。ものすごく嬉しい、というわけではなくて、散歩中に猫や、きれいな花を見つけたときに似た、ほっとするような小さな嬉しさだ。

 カウンターで借りていた本を返して、新しく借りる本を物色する。先週貸し出し中だったアガサ・クリスティの『ナイルに死す』が棚にあったのでそれを取る。あとは三島由紀夫を一冊と、ル・グィンのハイニッシュ・ユニヴァースものを一冊。

 貸し出し手続きをして、もう一度雑誌のコーナーに行く。高木さんは今度は文芸誌を読んでいた。近寄ると、待っていてくれたのか何も言わずに微笑んで、雑誌をもとの場所に戻した。

「行きますか」

 私は頷いて、そのひょろ長く姿勢の悪い人の後ろをついていく。

「寒いですね」

 高木さんはダウンジャケットに首を埋めるようにして、呟いた。ほんとに、と私は答えるけれど、そこで会話は途切れる。

 高木さんは早足で歩く。私が後ろを歩いていても、振り返ったりはしない。そのまま、いつものカフェに入っていく。まだ早い時間なので、客は誰もいなかった。テーブル席につく。

 高木さんはいつものように日替わりカレーを、私は日替わりランチの上海風やきそばと迷ったけれど結局オムライスを頼んだ。

「最近どうですか」

 まだダウンを着たまま、高木さんは水を飲む。寒がりなのだ。長い指の先が紫になっている。

「どうということもないですね」

「それはいい」

 片頬を歪めて高木さんは笑う。私も笑う。

 ふと、この人ならどんなふうに話を聞いてくれるだろうという気持ちが沸いた。

「どうということもないですけど、偶然元彼に会いました」

「へえ」

 笑みを含んだ落ち着いた声。

「それって、西町さんにとってはいい話ですか。悪い話ですか」

 思いがけない質問に、私の眉が寄る。

「半々ぐらいですかね」

「別れてからけっこう時間が経ってるんですか?」

「結構。四年ぐらいですね。大学生のときだから」

「それは結構前ですね」

 頷く。食事が運ばれてきたので、会話が途切れた。

「おいしそうですね」

 日替わりカレーはカシューナッツとチキンだった。赤っぽい雑穀米とサラダの彩りがきれいだ。高木さんは頷き、スプーンを取っていただきます、と呟いた。

 私も手を合わせていただきます、と言い、クリームソースがかかった半熟のオムライスに手を伸ばす。

 食べている間はいつも、私も高木さんもほとんど話さない。私も相当に食べるのが早いほうだけれど、高木さんは比べ物にならないぐらい早い。でも、綺麗な食べ方をする。一口が大きくて、食べ始めも終わりもペースが落ちない。見ていて笑みがこぼれるような、若い男の人にしかできない気持ちのいい食べ方だ。

「ごちそうさま」

 高木さんは食べ終わってからようやくダウンを脱いだ。まだ半分ほどしか食べていない私に頓着せず、奥の壁を見ている。このカフェは壁をスクリーンにして、毎日映画を無音で流しているのだ。私の席からは見えないから、何をやっているのかはわからない。振り返ってみると、少し古めの洋画のようだった。すごくカラフルな画面だ。映画には詳しくないので、俳優も全然わからない。

「何の映画ですか?」

 高木さんはこちらを見ずに答えてくれる。

「『シザーハンズ』」

 思いのほか有名な映画だった。監督と主演俳優の名前ぐらいは知っている。もう一度振り返ってみる。白塗りした若い男の人が、バーベキューをしている。その手が鋏、と言えば鋏に見えなくもない。

「じゃああの人ジョニー・デップ?」

「そうあの人はジョニー・デップ。知らないんですか?」

「海賊みたいな格好してるところしか知らないです」

 高木さんは視線は奥の壁に向けたまま笑った。

「はは」

 屈託のないその顔に、私の顔も緩んだ。高木さんは私に向けて笑っているわけではない、ということが、うれしいと思う。そんなことが嬉しいのは、きっと類に会ったからなのだろう。

「ごちそうさま」

 食べ終わって、手を合わせる。高木さんがこちらを向いた。

「それで、さっきの話はどうなったんですか」

「興味ありますか?」

「ありまくりです」

「本当に?」

「本当に。知ってる人の恋愛の話って面白くないですか」

「職業的な興味ですか?」

「いや、高校生ぐらいのときからずっと。なんか恋愛の話って一番意外性が出るというか、面白い人がすごくありきたりな恋愛してたり、適当な人がナイーブな恋愛観持ってたりするのがね、楽しくて。俺、恋愛相談してくれるなら金払ってもいいと思ってますよ」

 その感覚は私にはよくわからなかった。店員が皿を下げに来たので、頭を軽く下げる。すっきりとしたテーブルを挟んで、水を一口飲んで話す態勢を整える。

「なんとなく、なんですけど」

「はい」

「私はもう恋愛したくない相手なんですけど、相手は私のことをまだ好きなような気がして、ちょっとなんだか、なんだかって感じです」

 口にすると、自分でも自意識の過剰さとまとまりのなさに呆れた。

「非常に抽象的な表現ですね」

「非常に曖昧な状態なんです」

「なるほど。で、別れたのはなんでなんですか?」

「性格の不一致」

 高木さんは笑った。

「雑な纏め方ですね」

「でも本当にそうなんです。幼馴染だったんですけどね、恋人としては合わなくて」

 高木さんの目が輝いた。

「幼馴染。いいですね」

「いいですか?」

「いいですよ。実際幼馴染と付き合う人なんてほとんどいないじゃないですか。浪漫ですよね」

「そんないいもんでもなかったですよ」

 自分でも驚くほどうんざりした声が出た。高木さんは冷静なまま、でも好奇心を隠さずに尋ねてくる。

「そうなんですか。具体的には?」

「お互いの家族が知り合いだから、付き合うときにも別れるときにも色々言われたり、大変でした」

 特に別れたときのことは、あまり思い出したくない。もうずっと無理に蓋をして遠ざけていたから、今となっては具体的なことはほとんど何も思い出せない。どんよりとした、重苦しい異臭のする記憶のひとかたまりがあるだけだ。実際に一つ一つのエピソードをきちんと思い出して整理していけば、どれもたいしたことなどないのだろうとはわかっている。けれど見ないふりをしている間に、その時期の記憶は、私の中で腐ってしまった。もうどうすることもできない。

「そりゃ、たいへんだ」

 軽い言い方だけれど、口だけじゃなく本当に大変だと思ってくれていることがわかって、少しだけ気持ちが軽くなる。高木さんの、こういうところがほっとする。性質の善良さ。優しさ、とは似ているけれど、少し違う。

「たいへんですよ。別れたのは二人の問題だったんですけどね」

「性格の不一致で」

「はい」

「どのぐらい付き合ってたんですか?」

「高校二年生から大学四年までだから、五年ぐらいですね」

「長いですね」

「かもしれないです」

 正直言ってその五年のことも、あまり思い出したくない。特別嫌なことなどなかったのだけれど、でもちいさな嫌なことが、いつも羽虫のように付きまとっていたように思う。大学四年の頃ほどではないけれど、その時期の記憶にも、なんとなく暗いフィルターがかかっている。もっとも、私という人間には、明るく楽しく幸福な思い出、というものがほとんどない。別に不幸だったということではなく、そういう性分なのだと思う。いつでも今が一番いいと感じる。無職でも。多分倒産寸前で雑務に追われていた頃の私も同じことを思っていただろう。過去の状態と比べてどうというんじゃなく、私は単に「今」という時制が好きなのかもしれない。今だけが、私の手元にあるから。そして類と付き合っていたときは、「今」さえ手元にないような気がしていた。

「でも、結局五年かけて「合わないんだな」って確認しただけのような気がします」

「時間かけますね」

「合わないなとはずっと感じてたんですけど、特別に別れる理由は何もなかったんですよね。お互い浮気もしなかったし、相手は優しかったし、お互いの家も賛成してたし」

「それでもだめでしたか」

 私は頷く。

「だめでした。それでもだめでした」

 力のこもった私の言葉に、高木さんはおかしそうに目元を緩めた。

「それじゃ、本当にだめだったんですね」

 私は頷く。胸に、ぽつんと破れ目が出来て、そこからあたたかいものが溢れた気がした。

 あの頃は、誰にもわかってもらえなかったのだ。本当に、だめ、ということを。私が五年かけてそれを確認したのだということを。

「それで、その元彼はまたやり直したそうだと」

「自意識過剰かもしれませんけど、なんとなくそんなような感じを」

「悪いこと言いますけど、そういうときの女の人の自意識ってたいてい正解だと思いますよ」

「ですかね」

「違ってても責任は取りませんけど」

 私は考えてみる。もしかしたら類にまだ好かれている、ということ、それを嫌だな、と思うこと自体を、楽しんでいるんじゃないかと。類が本当に私のことをもうなんとも思っていなくて、ちょっと行き違いがあってあまり円満じゃなく別れたことを気にして、また普通に話せるようになりたいだけだったら、本当はちょっと残念なんじゃないの、とか。

 わからなかった。実際そうなったらまた違う気分になるかもしれないけれど、想像ができない。今の私は類がじりじり距離をつめてこようとすることに、あまりいい気分ではなかった。

「色恋沙汰って、面倒ですね」

 私はぼやく。

「恋愛って、権力闘争ですからね」

「権力闘争?」

 その言葉の硬い感触に、驚いた。高木さんは頷く。

「なんか、俺にはその言葉が一番しっくりくるんですよね」

 私にはよくわからなかった。恋愛。権力闘争。

「ちょっと考えておきます」

 高木さんははい、と言い、薄く笑った。

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