第3話迷わせ

「ねぇねぇ、行こうよ」


 少女の言葉に、僕は頷いた。


 曲がり角を駅とは逆に曲がり、坂を下る。

 地区センターを左手に、回り込むように裏道へ。更に更にと下っていく。


 左右には古い民家が並び、見上げれば染まり始めた紅葉の屋根。

 目の前に現れた橋を、少女は踊るように渡っていく。


 そこで僕は立ち止まる。

 すると少女も立ち止まる。


「行かないの? 未だ先があるよ?」

「ごめん、今日はバイトだから」

「そっか、じゃあ仕方ないね」

「うん、仕方ないよ」


 橋の真ん中で少女はくるりと振り返り、ちょっと寂しげに微笑んだ。

 僕は振り返り、立ち去りかけて、もの悲しげな彼女の様子に足を止める。

 振り返る。彼女は未だ其処に居た。


「また明日」


 少女は目を瞬かせて、それから弾けるように微笑んだ。


「うん。また明日ね」








【迷わせ】









「ねぇねぇ、行こうよ」


 少女の言葉に、僕は頷いた。


 時刻は夕暮れ、黄昏時。

 橙色に染まる川を見下ろしながら、僕は橋を渡る。


 目の前には、おかっぱ頭の少女。

 僕のものとは違う高校の制服を楽しげに弾ませて、鼻歌交じりに跳ねていく。


 辺りの民家は少し近代的に、そして無個性に変わっていく。灰色の四角い箱が、隙間も無く詰め込まれている。

 一定間隔で置かれる自動販売機が、なけなしの個性を主張する。炭酸飲料、お茶、珈琲が種類だけ変えて並ぶそれを、個性と呼ぶのなら、だが。


 下っていた道は、いつのまにか上り坂に変わっていた。


 その果て。


 家と家との狭い路地。そこにそびえた長い石段を見上げながら、僕は足を止める。


「この上だよ、行かないの?」


 少女が、半ば程で僕に尋ねる。

 僕は頷いた。


「ごめん、今日はバイトだから」

「そっか、じゃあ仕方ないね」

「うん、仕方ないね」


 少女が振り返り、ちょっと寂しげに微笑んだ。


「また明日ね」


 少女が言って。


「また明日ね」


 僕も頷いた。











「ねぇねぇ、行こうよ」


 僕は、頷いた。


 駅とは逆に曲がり、坂を下り、橋を渡って住宅地を突っ切る。

 見上げる石段を、一歩一歩、確かめるように上る。


「もう少しだよ、大丈夫?」

「大丈夫だよ、今日はバイト休みだから」


 半分を越えて、少女がふわりと振り返る。


「もう少しだよ、大丈夫?」

「大丈夫だよ、別になにもないから」


 少女が階段を上りきった。

 僕も、早足でそれに追い付いた。


 あと一段で、頂上だ。


 少女が振り返る。沈み行く夕陽に照らされた彼女の顔は、けれども暗くて見えなかった。


「もう少しだよ、大丈夫? 忘れ物はない? ?」


 僕は考える――毎日の生活を。

 家族、もう居ない。

 友達、別に居ない。

 学校、授業、バイト――未来。

 別に、無い。


「………」


 あと一歩。

 最後の、一歩。


 少女が待っている。僕は踏み出そうと足を持ち上げて、


「………あ」


 足を、止める。


「どうしたの? 何かあるの? ねえ、人生は辛くて、悲しくて、寂しいことばかり。一生かけて地面を這いつくばって、誰かの跡を訳知り顔でいていくだけ。それなら、? それとも、何かあるの? あなたをこの地獄に縛る何かがあるの?」


 僕はスマートフォンを取り出した。

 それから、メッセージを表示する。


「………ご近所の、お姉さん」

「他人じゃない、赤の他人。いずれ通り過ぎるだけだよ」

「最近、何故だか夕飯を作ってくれる」

「気の迷いか、下心。やがて冷めて褪めて覚めていくだけだよ」


 僕は、顔がほころぶのを感じた。

 唇が持ち上がる。思わず笑みをこぼしながら、僕は少女に首を振った。



 少女は呆然と、大きく眼を見開いて、口を丸く開いて、僕を見詰めた。

 僕は微笑みながら、視線を返した。


 やがて、少女も笑った。それまでのものとは違う、可笑しくて可笑しくて堪らないというような、少女らしい明るい笑いだった。


「そっか、そうなんだ」

「うん」

「じゃあ、仕方ないね」

「うん。仕方ないよ」


 また今度ね、と僕は振り返り。


 もう会わないよ、と少女は言った。


 階段を降りようとして、ふと気になって、僕は振り返る。










 其処は、切り立った崖だった。






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