日常奇譚 奇想天外

レライエ

第1話雨の婚姻

 それは、或る雨の日の出逢いだった。


 より正確には今日よりも前、都合3日程前には既に、僕の方は彼女を見掛けてはいたのだが、今日この時まで、彼女は僕をちらりとも見てはくれなかったのだ。


 長く雨が続いた週だった。


 夏の終りよりは、秋の始まりに近い頃。

 暑さは過ぎ去り肌寒さが目立ち始めて来た時分で、僕も通う高校の制服を、夏服から冬服に切り換えたくらいの頃だった。


 久方ぶりのブレザーが雨に濡れるのを、不愉快に眺めていたのを、覚えている。


 雨の降り始めた日だったのだろう。

 奇跡的に――安い奇跡だが――ロッカーに入っていた、小さな折り畳み傘では全身を防ぐ事も出来ず。

 ズボンの裾やブレザーの袖口に出来た染みが、その生温い湿り気が、徐々に肌に伝わってくるのを為す術もなく受け入れつつ、家路を急いでいた。


 少しでも早く帰るために、公園を突っ切っていた僕は、空を見上げる少女を見掛けた。


 そう、空を見上げていた。

 傘も差さず、レインコートなど勿論着ずに。

 全身を雨に晒していたのだ。


 その姿に何処と無く不気味なモノを感じて、僕は足早に、少女の脇をすり抜けて行った。


 それから、今日で3日目。

 






【雨の婚姻】






「………あの、何をして居るのですか?」


 意を決して、僕はそう声を掛けた。


 流石に3日目ともなると不気味さも消えて、少女の様をよく見る余裕が生まれてくる。

 そうして見れば寧ろ、少女は美しくさえ在った――背後から声を掛けたので、顔は解らなかったけれど、それが逆に美しさの源となっている。


 手も顔も無い女神像ニケがそれでも美しいと言われるように。

 芸術とは、美しさを想像するものだ。

 想像して、創造するものなのだ。


 不幸な事に、少女は直ぐに振り返ってしまった。

 幸いな事に、少女はそれでも美しかった。


 いつ頃から、そこでそうして居たのだろうか。肌は生気が失せて蒼白で、濡れた黒髪は額に貼り付き、唇は青紫色に染まっていたが、それでも、少女は美しかったのだ。


 僕と年頃は同じくらいだろう。着ている制服は見覚えのあるセーラー服で、白い分濡れて、透けていた。

 同じ高校らしいとだけ判断して、僕は、紳士的にも視線を服から外した。


 少女は、何故だかかなり険の在る視線で僕を射抜いた。


「貴方。?」

「………は?」


 質問に質問で返すなとか、ありきたりな事が全く出てこなかった。

 人間予想外な出来事には、大した反応リアクションが出来ないものらしい。


 少女は、辛辣であったが親切では在った。雨音で聞き取り辛いと思ったのか、先よりも強く言い直してくれた。


「何故、貴方は傘なんて差しているのよ」

「………雨が降ってるから、ですけど」


 差さないと、濡れてしまう。

 そう言うと、少女は僕の袖をつまみ上げる。


「差しても、濡れているじゃあない」


 少女は、忌々しそうに、憎たらしそうに、僕の傘を睨み付けた。


「無駄だわ、邪魔なだけだわ」

「邪魔?」

「あなたたち。あなたたちがかざすそれのお陰で、空と大地に境界線が引かれてしまう。傘に引っ掛かってしまうのよ」


 少女は空を見上げ、僕も釣られて空を見上げる。

 真っ黒い雲にのし掛かられた空は、重苦しいが遠い。


 本当に、邪魔だわ。

 少女はポツリと呟いて、口惜しそうに唇をギュッと噛み締める。


「迎えが来ている。空に登って、私は彼と結ばれなければならないのよ」

「………雲で、空は覆われてるけれど」

「解っているわよ。だから、迎えが来てるの。彼は、に居るのよ」

 黒雲を、悔しそうに哀しそうに見詰めながら、少女はジッと立ち尽くしていた。







 翌朝。

 百年の時をささやかな修繕のみで乗り切ってきた荒谷荘。その一〇二号室は、安さだけが取り柄の狭くて古い、僕の家である。

 勿論テレビなんて物はなく、独り暮らしの貧乏学生たる僕は、窓を叩く雨風の音で漸くの到来に気が付いた。


 台風。


 季節外れにも程がある彼は、天気予報を嘲笑うように北上して、僕らの住むK県に到来したのだ。

 窓ガラスが揺れているのか、それとも建物自体が揺れているのか。がたがた音を立てる我が家に、僕は静かに脅えていた。


 学校からの連絡メールは、臨時休校を報せていた。前日辺りにはもしかして話が在ったのかもしれないが、俗世にまるで関わらない僕には初耳だった。

 突然の休みは有り難い気もするし、言われなくても休むような気もした。


 バイト先も、僕の欠勤を咎めるつもりは無いらしい。これで、用事は何一つ無くなった。


 今日はきっと、誰も外には出ないだろう。

 出たとしても、傘なんて差せはしないだろう。


 スマートフォンでゲームをしつつ、ふと僕は窓の外を見ながら考える。

 今日も、少女は空を見上げているのだろうか。


 何しろ今日は好機チャンスと言える。この風ならば、この辺りの誰も、傘を差しはしないだろう。

 ………少女の婚姻に、境界くちを差し挟みはしないだろうから。


 夜には、一際大きな雨風の最中に、閃光が煌めいた。直ぐに轟音が轟き、大地を揺らす。

 近くに落ちたかな。僕はため息を吐いて、目を閉じた。








 翌朝。

 過ぎ去った嵐のあと、勤勉な日本人の一員である僕は、枝やゴミが散らばる道を、駅へとのんびり歩いていた。


 台風一過というやつか、見上げる空は雲一つ無い青空。


 ふと思い付いて、僕は公園へと向かう。

 そこにはやっぱり、少女の姿は見当たらなかった。


 雷は、実は地面から空へと駆けていると聞いたことがある。昨夜のあの落雷は、少女を迎えに来たのだろうか。

 少女は、雲に乗れたのだろうか。

 あの嵐の上で、少女は雨と結ばれたのだろうか。


 一昨日と同じ場所に立って、僕は空を見上げる。抜けるような青空は、やっぱり手が届きそうにはない。

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