生なる家族

西條寺 サイ

第1話

 寒い春だった。

 雪の降る、三月の終わり、二人は並んで庭を眺めていた。深々として、冬が帰ったかのように、静かに澄んだ午後だった。

 那生なおは傍らの叔父を見た。肉親とはいえ、如生しおの横顔は端正で、鮮烈なまでの清らかさを感じさせる。微かに細められた瞳はどこか遠くの景色を、あるいは虚空を見つめるが如く寂然として静まり、時折見せる慈母のような面影を押し隠している。しかし、如生はどこまでも穏やかだった。

 「今まで見た中で、一番きれいな雪だ」

 吐息のような声で呟いて、それが如生の最期の言葉となった。

 やがて、ゆっくりと、けれど崩れ落ちるように肩にもたれかかった叔父の身体を、那生は取り乱すことなく抱きとった。

 それは一輪の椿が落ちるほどの衝撃だった。

 生前の教え通り、那生は一滴の血も、流させはしなかった。そして、自ら涙を流すこともない。

 「叔父さん……」

 呼びかけても、腕の中の人が応じることはない。

 端正だった横顔の、青白い頬が、何より美しく那生には思えた。

 叔父の温かい身体を膝に横たえて、那生はしばらくの間、降り止まない雪を見ていた。叔父とともに、見ていた。

 それは本の少し前と、何ら変わりのない光景のようだった。


 「那生様」

 街の喧騒に容易にかき消されるはずだったその低くかすれた声。

 歩みを止めて振り向いた那生の目によく見知った顔が写った。

 憎悪と呼ばれる感情。それがまるで人の形をとったかとさえ思われた。那生は黙って目前の男を、高見沢潤一郎たかみざわじゅんいちろうという、如生の側近だった男を見返した。

 叔父が死んだ日、那生は押し殺した嗚咽を聞いた。雨月うげつが医師として如生の死亡を確認した夕方のこと。固く閉ざされた部屋には、叔父の亡骸と高見沢だけが残されていた。

 家の者がいる前でさえ、高見沢は既に顔面蒼白で、小刻みに震えているようだった。如生の躯に縋りつき取り乱すことがなかったのは、その行為が主を、その死を冒涜するものに他ならないと悟っていたからだろうか。全ての人間が部屋を去った後、高見沢は堰を切ったように泣き崩れたのかも知れない。

 死んだ人間の為に、人は泣けるという事実。那生は、いつ終わるともない低く苦しげな嗚咽を聞きながら、襖越しに立ち尽くした。

 如生の初七日を済ませた日、高見沢は屋敷を出ていった。それから何があったのか知るすべもなかったが、こうして再び見えた高見沢の真意は何か。那生がじっと沈黙を守り続けると、私は、と絞り出すような声を高見沢が発した。

 「私は、今でも、あなたを、許すことができずにいます。今でも……今この瞬間も」

 「許す?」

 殺意よりずっと暗い、ずっと密度の濃いその感情を、人は何と名づけるのか。那生は高見沢の言葉を繰り返し、再び沈黙した。言わんとすることが、わからなかったのではない。わかり過ぎて、しかし、だからと言ってどうすることもできなかった。

 「あなたが、憎い」

 激情から来るものか、苦痛から来るものか、高見沢の声は微かに震えていた。

 「掟とはいえ、如生様を奪った、あなたが、憎い」

 燃えるような眼差しの、底知れない絶望。痛みにまで引き上げられた悲しみを、那生は確かにその瞬間見つめていた。

 高見沢は一瞬たりとも那生から目を逸らさなかった。そして、音を立てない、重たげな足取りで、憎悪の対象へと向かう。

 「お前は……叔父さんに忠実だった」

 皮肉ではない。那生には様々な感情をそんなふうにしか表現できなかった。

 「でも、僕も譲れない」

 高見沢は歩みを止め、じっと動かなくなった。まっすぐに伸ばされた背筋は生前の如生に似ていた。

 「わかってるはずだ」

 無闇な多弁は、彼には不要だった。高見沢は、微かに目を見張る。

 「だから……後悔してるんだとしても」

 「っ!」

 那生の投じた小石は、忠実な従者の急所に命中したようだった。初めて、高見沢の眉間には深い皴が刻まれた。

 「私は……あなたが、憎い。この手で息の根をとめても、まだ、足りない」

 「……きいても、いいかな?叔父さんとお前は、どんな関係だった?それとも、お前が僕を憎むのは、お前が特別だから?……わからないんだ、僕には。母親が死んでも、悲しくなかったから」

 一刻一刻の夕暮れの移ろいに似た、高見沢の感情の機微。那生の理解を超えた、人間の心。悲しみ、憎しみ……どこへ行ったのか。あの家と決別した今も、那生の魂は古い家の奥深くにとらわれ続けているようだった。

 「私は……あの方を、如生様をお慕いしておりました。一人の人間としても、一人の男としても」

 そこまで一息で続けると、高見沢は初めて視線を背けた。

 「あの方より後に、私は死なないと思っていた……。この命に代えても必ずお守りすると誓っていたのに……」

 「守る?」 

 その言葉がひどく突拍子も無いものに、那生には感じられた。高見沢は敵意も露に那生を睨んだ。

御雲みくもの家に生まれた者が誰かに守られるなんて……しかも、男が男に守られるなんて、そんなの屈辱以外の何物でもない。叔父さんが何て言っていたかは知らない。でもそれがあの人の望みだったとは思えない」

「なぜ……」

 高見沢はそう言いかけてやめた。本の一瞬、垣間見せた表情は彼に似つかわしくない、狼狽した人間のものだった。

「御雲の家に生まれる子どもは、愚かであれば愚かであるほど好まれる。僕たちには、たった一つの区別さえつけばいいんだ。自分と、その他の。本家の連中は、家の人間とその他の区別だと思ってるみたいだけど、本当は違う。僕たちには、自分とその他の区別しかない……たぶん、叔父さんは頭がよすぎたんだと思う。あの人は僕と違っていろんなものを区別してたみたいだから。……それに」

 高見沢は目を見張って那生を見つめていた。

 「お前のことも、区別してたんだろうね」

 「……如生様は、いつも苦しんでいらっしゃいました……。ご自身のお姉さまを、那生様のお母様である美生子みきこ様を殺めた時から……いえ、もっとずっと前から……ずっと、御雲の宿命を。だからこそご自分で最後になさろうとしていたのに、あなたを殺めることができなかった。美生子様のことをお考えになっていたのでしょう……幼いあなたを手にかけることができなかった……。やはり私が殺せばよかった。那生様の物心がつかないうちに……。覚えてはいらっしゃらないでしょうが、如生様はあなたを、実の子のように慈しんでいらっしゃいました。それなのに……」

 あなたが憎いと、高見沢は再び告げた。先ほどよりも、ずっと弱弱しい声で。

 「僕も叔父さんには、感謝してた」

 那生の思いがけない言葉に高見沢が顔を上げる。

 「心配しなくても、御雲の家は、僕で最後だ」

 叔父には、看取られて逝くだけの価値があったと、生前の穏やかな面影に触れながら那生は思う。高見沢に言ったことは全て本当だった。恐らく高見沢を含めた多くの人間が考えている程、自分は叔父に対しては無関心ではなかった。少なくとも自身ではそう感じていた。ただ……優しい叔父には任が重過ぎると思っただけ。憎しみや無関心で如生という存在を消しされたわけではなかった。

 「なぜなんだ……」

 高見沢は、絶望的な声を上げた。

 「なぜ?どうして他の方法を思いつかなかったのですか?あなたも、如生様も……どうして……どうして最善の方法を思いつかなかったんだ……私も……」

 対象をなくした怒りが悲しみに変わっていく。時の推移のようなものではなく、それは性急で激しかった。

 「……最善?」

 幾許かの驚きとともに、那生はその言葉を繰り返す。

 高見沢の言葉がさすものは何か。そしてそんなものの存在を、彼は本当に信じているのだろうか。

 「如生様も、那生様も死なず、ただ御雲の流れだけが絶えればいいと、そう思っておりました。これ以上、あの方が、お心をいためることがなくなればいいと……それだけが、私の願いだったのに……」

 「そんなことが」

 嘲りか、驚きか。那生は、唐突な声を上げていた。

 「そんなことが本当に可能だと思うのか?当主ほどじゃないにしろ、力のある人間はいくらでもいる。逃げたってどこまでも追いかけてくる。殺さなければ、死ぬのはこっちだ。あの家に生まれた限り、どうしようもないんだ。運命とか、宿命とか、お前たちはそう呼ぶんだろ?あの血から解放されるには、死しかない」

 だから、と言いかけ口をつぐんだ那生に、それでも高見沢は苦しげな表情を崩さなかった。

 「私は……認めません。それに、許しもしない。そんな御雲の家を、如生様を奪ったあの家を。如生様は一体、いったい……何のために生まれてきたんだ……。悲しんで、苦しんで、ただ傷ついて……誰より、お優しい方だったのに……」

 理屈ではない。人間は悲しむ生き物なのだ。那生は不意にそう悟った。高見沢の感情はそれ以上説明できなかった。

 「僕が……最後だ」

 唐突に、まるで自らに言い聞かせるように那生が発した言葉を、高見沢は絶望の淵でそれでも確かに聞いた。

 「叔父さんは、もう、いない。あの人にできることはもうない。だから……あの人がしたかったことは僕がする。必ず」

 「那生様!」

 背後で高見沢の声がしたが、那生は振り向かなかった。このまま、刺されるのもいい……そう思ったのは本当だった。

 人として不完全だと、那生は自身をそう感じていた。叔父はそれを知っていたからこそ、自分にかけた。あの人は、どこまでも優しく、そしてずるい人だった。そう思うことで、心は静穏を取り戻す。しかしそれも束の間のこと。

 「いつからいた?」

 高見沢を残し、那生が表通りに出ると、長身で、長髪の、目立つ男が立っていた。顔に張り付いたような微笑の男に、那生は内心腹を立てた。

 「お帰りが遅かったものですから、心配になりまして」

 事もなげに、雨月はそう言った。思い出したように、学校まで迎えに来る日も確かにあったが、雨月が迎えに来る時には、たいていろくなことがない。

 「どうぞ」

 目立つから止めろと周囲には散々反対されていたが、雨月は赤いポルシェを乗り回していた。それでも本家が所有する黒塗りの外車より、那生は雨月のスポーツカーが好きだった。

 「懐かしい顔にはお会いになりましたか?」

 言いながら、雨月はドアを開けた。 

 「知ってたのか?」

 一体どこからそんな情報を聞きつけてくるのか、那生は思わず雨月の顔を見上げた。

 「如生様は、執念深い犬を飼っていらっしゃったでしょう?犬は鼻が利きますからね」

 雨月は反対側のドアから車に乗り込み、すぐにエンジンをかけた。

 「忠犬になれない僻みか?」

 感情の読み取れない微笑に苛立って那生が声をかけると

 「ここまであなたに尽くしておりますのに」

 雨月は残念そうな様子もなく、横顔で笑う。

 「何か召し上がってからお帰りになりますか?」

 「いや」

 「かしこまりました」

 雨月はそれ以上何も言わず、正面を見据えたまま車を走らせた。那生は、サイドシートに体を埋めながら、窓の外に目を向けた。

 あなたが憎いと叫んだ高見沢の声が耳に蘇る。

 自分の周りには、生々しい感情をむき出しにする人間がいなかった。高見沢にしても、感情を露にするようになったのは、叔父が死んでからだ。本家の人間には、寡黙な者が多かったし、口をきく相手は、本家で暮らしていた時でさえ限られていた。

 そして、唯一の例外とも言えるのが、幼い頃からの側近である雨月だった。

 雨月は、高見沢のように御雲と全く縁の無い人間ではなく、遠縁にあたる男だった。それ故に一層、あの家では異彩を放っていた。雨月は快活に話をするし、御雲の人間なら必ず持っているはずの、陰惨な雰囲気からも唯一隔たった存在だった。

 飄々としていて、本音を悟らせないという点においては、如才なく、切れ者だというのが本家での専らの評判だった。しかし、対照的な高見沢はともかく、あの寛容な如生でさえ、雨月を好いてはいなかった。何故か、はっきりとしたことはわからない。しかし、那生の小さい頃、如生は、何かあれば、雨月ではなく、自分の側近である高見沢に甥の面倒を見させていた。雨月の方も、それに対し異存は無かったらしく、如生の命令に口出しすることもなかった。最終的に、那生が成長するに従って、身の周りの世話は、本来の側近である雨月がつききりで行うようになっていったが、それはいつかいなくなる自分とではなく、唯一の味方とも呼べる存在である側近と信頼関係を築かなければならないことを、如生が理解していたからだった。例えそれが如生自身にとって信頼の置けないような人間であっても。

 しかし、出奔さながら家を出た那生を止めることなく、当然のように雨月はついてきた。それが本家の意志なのか、雨月自身の意志なのか、那生は知らなかった。如生と高見沢のような信頼関係が自分と雨月の間にも存在しているとはとても信じられなかった。雨月は、あるいは、職務に対し、誰より忠実なだけかも知れない。そんな風に思うこともある。

 雨月といえば、張り付いたような微笑のイメージしかない。確かに、感情豊かで人間味に溢れた高見沢より、那生にとっては身近な存在ではあったが、いつまでたっても何を考えているのか見当がつかない。そして、そんな雨月を理解することも、理解しようと努力することもなく、長い時間が過ぎていた。

 「着きましたよ」

 雨月が微笑みながら那生を見た。

 「ああ……」

 いつでも、わけもなく、雨月は微笑んでいる。それはある種の無表情なのではないか、いつか思ったことを那生は不意に思いだした。

 本家にいた時は、高見沢同様、雨月も常にスーツを着ていたが、こちらに来てからは、いつもカジュアルな服装で過ごしている。初めて私服姿の雨月を見た時、そんな服も持っていたんだなと、那生は素直な感想を口にした。雨月は、恐れ入ります、といつも通りに微笑んだだけだったが、その印象が服装一つでこれほど変わるのかと那生には驚きだった。雨月は、その長身と、肩まで伸びた髪のせいでただでさえ人目を惹いた。そしてそれ以上に印象的なのは、甘く華やかな顔立ちだった。連れ立って歩くと、彼を振り返る人間は少なくない。それが悪いとは言わないが、目立たないことを本分としている御雲の人間の中にあって、やはり雨月は特殊な存在だった。

 「今夜は、何がよろしいですか?」

 制服を脱いでリビングへ行くと、雨月がコーヒーを運んできた。

 「何でもいい」

 「いつもそればかりでは困りますよ。私は、本家にいた料理人とは違いますから」

 困った様子もなく、微笑みながら雨月は言った。本家にいる間、雨月が那生の食事の支度などしたことはなかった。体調が悪い時に、料理人に特別食を作らせたり、夜食を用意させたりすることはあったが、それもあくまでも指示の範囲だ。しかし、二人で暮らし始めてみると、雨月の意外な一面が見えてきた。雨月は家事全般率なく、どころか完璧にこなし、しかも料理の腕前もなかなかのものだった。ほとんど味覚が無いらしいと自覚している那生は、何を食べてもそれほど差を感じないのだが、雨月の作るものは、大抵旨いと感じた。

 「雨月」

 「何でしょう?」

 カップの中を見つめながら、那生は傍らの気配に声をかけた。

 「どうして、付いてきた?」

 「それには、何度もお答えしてきたはずですが」

 すっと、那生の足元へかがみこんで、雨月は那生の手を取った。

 「……」

 雨月は、那生の目を見つめたまま、その手の甲に口付ける。芝居がかった大げさな仕草は、それでも雨月には似合いだった。

 「愛故に」

 いつも通りの笑みで、雨月は囁いた。

 そうだったな、うんざりした表情で雨月の手を払った那生。

 「どうしても信じてくださらないのですね」

 傷ついた様子もなく、雨月は困りましたねと微笑む。

 「信じられるか」

 お前なんて、そう悪態をつく年少の主人の足元で雨月は柔らかくため息をついた。

 「それでは、いかがいたしましょう。那生様がお望みであれば、どんなことでもいたしますよ」

 望まれれば喜んで、その場で舌を噛み切るくらいのこと、雨月は実際にやってのけるのだろう。微笑みにしか見えない表情で雨月はじっとした眼差しを主に注ぐ。

 「僕は、お前に何も望んでない」

 突き放したいのは相手なのか、己の中の相手なのか。冷たく言い切って、那生は一瞬口をつぐんだ。

 「お前といると……時々、絶望的な気持ちになる」

 ゆっくりと自らの言葉をかみしめるように落ちていく那生の視線。

 「珍しいですね。那生様がそんな感傷的なことをおっしゃるなんて」

 これは、と那生が言った。

 「僕の望みか?」

 望み、と雨月は呟いた。

 「どうでしょう。那生様のお望みはいつでも私の望みですが」

 雨月、と呼びかけた主の声を遮って、雨月は那生の手に指先で触れる。

 「私とともにあることは……私の存在は、不快ですか?」

 言葉に反して雨月は至極穏やかな顔をしている。いつもと何も変わりはなくて、那生は微かに眉根を寄せた。

 那生様、と雨月が促すように名を呼ぶ。

 「不快、か……。たぶん、そうじゃない」

 「たぶん?」

 雨月が再び那生の顔を覗き込んだ。年下の主の言葉を繰り返し、興味深そうな眼差しで見守る。

 「お前といると、自分が、人間だったことを、思い出す……自分の限界を、思い知らされる気がする」

 まるで珍しいものでも眺めるように那生は雨月の手を取った。

 「例えば、お前はこの手だけで僕を殺せる」

 何の感情も読み取らせない、静かな声で那生は告げた。突然の出来事だった。

 「僕が、気づいてないと思ってたのか?」

 珍しく微かに笑った目元に、虚勢は感じられなかった。

 「私が、そのようなことを考えたことが一度でもあると?」

 どうかな、と那生は雨月の手を呆気なく放した。

 「僕は、生かされている。それが現実で、それが、僕の限界だ」

 「私こそ、あなたに生かされている身ですよ」

 「だから、お互い様だって?」

 「まさか」

 雨月は華やかな目元を陰らせることなく、穏やかに、ゆっくりと首を左右に振った。

 「あなたは私の主です」

 あるいは傲慢にさえ聞こえる声で、雨月はそう告げた。それはまるで宣誓のようでさえあった。

 「私は……」

 那生の手を取り、

 「あなたのもの」

 手の甲に、そっと口づける雨月。

 「そんなこと」

 知ってる。那生はつまらなさそうに応じ、忠実な従者の微笑を見つめた。雨月の本音はどこにあるのだろう。

 「……もっと、素直になってもいいんですよ。あなたがどうしたいのか、何を感じているのか、何を一番欲しているのか、誰よりご存じなのは、あなたご自身のはずでしょう」

 ゆっくりと視線を重ねて、雨月は臆することなく那生に言った。

 「あの人は……那生様よりよほど素直でしたよ」

 「あの人……?」

 那生には、雨月がうっかり口を滑らせるなどということは考えられなかった。雨月は、誰かの存在を示唆したいのだと直感したが、誰かはわからない。あるいは、那生の知らない、誰かの存在。

 「那生様……あなたは、私を何だとお思いですか?」

 「何?」

 雨月は唐突に話をそらす。会話らしい会話はいつも、雨月の声が導くまま、唐突に始まり唐突に終わった。

 「人にはそれぞれ役目というものがあります。例えば、如生様の犬は……忠実でしたでしょう?誰かにあれほど忠実な男を私は知らないし、那生様もご存じない。あれは、私に言わせれば役目を超えた仕事です。私はあなたにお仕えしてはいますが、自分の分をわきまえておりますよ。私の役目は……現在のところ、あなたのお傍にいることだと信じております。それ以上でも、それ以下でもなく。それなのに……那生様は、私をもっと複雑なものとお考えのようですね」

 違いますか、と、雨月は囁くように問いかける。

 「お前こそ僕を何だと思っている?」

 雨月は目を細めて綺麗に笑った。

 「私の、主人です」

 それが本心だったか、あるいははぐらかしたいだけだったのか、那生には雨月の心がわからなかった。もしこれが如生と高見沢だったら、二人は容易く、例えばどんなに精巧に作られた嘘だって見破って、互いの本心を知ることができたのかも知れない。そんなことを一瞬だけ考えた自分を那生は否定した。自分は如生ではなかったし、雨月も高見沢ではない。無言のまま見詰め合っていると、突然雨月が口を開いた。

 「あなたを、愛しています」

 「また……」

 今まで散々聞かされてきたセリフだったが、何故かその時だけは別だった。一瞬面食らった那生に、雨月はふっと笑った。

 「そう申し上げたところで、那生様は信じてくださらないでしょう?」

 「当たり前だ」

 雨月は喉の奥で低く笑った。

 「あなたは愛情なんてものを私に望んではいらっしゃらない……」

 長い余韻を残す雨月の声。そこには那生が触れたことのない感情が潜んでいるように思われた。時として軽薄とさえ感じられる雨月の、外からは計り知れない感情の深み。そこには暗い色をした川が、血液のように絶えることなく流れ続けているのかも知れない。

 「相思相愛だったのだとすれば、私は如生様たちを羨むべきでしょうか」

 「今日はよくしゃべるな」

 告白は容易く戯言に変わる。誰より傍にありながら、誰より理解できない人間は、どんな外敵よりともにある者を不安にさせる。

 長過ぎた会話に疲れたかのようにゆっくりと、那生はソファから立ち上がった。

 「お前は僕を愛してないし、僕もお前を愛してなんかない……。それで、あってるか?」

 残念ですね、と何に対してか雨月は頷いた。

 「そろそろ、お食事の支度をして参ります。それから、私は後で外出いたしますので、ご用があれば今のうちにおっしゃって下さい」

 「どこに行くんだ?」

 「妬いてくださるんですか?」

 雨月は微笑し、嬉しいですねと声音を落とし囁く。

 那生は雨月にそれ以上聞くなと、命じられたことを悟った。 

 雨月は時々、理由も言わずに外出する。如生と高見沢にならこんなこと考えられなかっただろう。そもそも側近が自分の都合で主の傍から離れることなど、御雲の家では本来ありえないことだった。しかし、那生には雨月を縛る意思はなかったし、雨月にも那生に縛られる気など、さらさらないに違いなかった。それも、いいと、那生は思う。雨月が自分のことを知り尽くしているのだとしても、自分は雨月のことを何も知らない。 

 けれど、それでも構わない。雨月にとって自分は、主という存在でさえあればいいのだろう。例え自分ではなかったとしても、雨月はきっと、忠実過ぎるほど忠実に、その任を果たしただろうと想像できる。

 那生が自室に戻っていくのを見送って雨月もキッチンへと向かった。

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