第五章 北坂優

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 テレビを見ていた。コンビニで買ってきたチルドラーメンを啜りながら、六時のニュース番組をぼんやりと眺めていた。

 なんでも屋特集。

 カメラが捉えているのは夕刻の街の歩道。東京だろうか? と思っていると、カフェから一組のカップルが出てきた。そこに一人の女性が勢いよく駆け寄る。

『○○さんですよね? 私、ファンなんです! この前のライブすごくよかったです! あの、握手してもらえませんか?』

 子どものようにはしゃぐ女性に、カップルの男性のほうが落ち着いた所作で応対する。いいですよ、と右手を差し出した。

『うわあ、ありがとうございます! すみませんでした、デート中に!』

 女性は深々と頭を下げると走り去った。

 ナレーションによると、カップルの男性のほうが依頼人で、バンドマンである自分を恋人に尊敬してもらうために、なんでも屋にファンの役をお願いし、デート中に握手を求めてもらった、とのことだった。代金、三万円。

「はあ? くっだらね」

 北坂優は苛立っていた。

 女性によるレトロゲームのゲーム実況はヒットするはず、とわざわざレトロゲーム互換機を購入して始めたライブ・ア・ライブだったが、昨晩公開した動画『【実況】しどくろ的ライブ・ア・ライブその二十』の再生回数は一万に届かずして落ち着いた。これは、その十九を下回る数字で、明らかに伸び悩んでいた。

 そんなフラストレーションを抱えて過ごしていた休日にピルエットから電話があり、明日は吉祥寺店のほうに出勤してほしい、という臨時の業務命令が下されたのだ。優は普段横浜から出ることがほとんどなく、吉祥寺に行ったことは一度もなかった。ただおぼろげに、遠い、めんどくさい、という印象しか抱けず、気が滅入るばかりだった。

 テレビを消してパソコンデスクに移動する。移動してきたものの、やりたいことが思い付かない。ストレスになるのでゲームに関連するものは目にしたくない。

 暇。

 ブラウザを開いて「なんでも屋」と検索し、適当にクリックしてなんでも屋のウェブサイトを閲覧する。トップページに業務内容が羅列されており、上から順に視線でなぞる。各種代理代行、生活サポート、浮気調査、ストーカー対策、出会い協力──。

「出会い協力って、なに……」

 今度は「出会い協力」と検索する。ところが、「出会い虚力」とタイプミスしてしまった。検索結果は一件。2ちゃんねるの書き込みがヒットしたようだ。スレッドのタイトルは『なんでも屋のヘビーユーザーだけど質問ある?』。クリックする。


 1: 名無しってなんですか? 2016/07/02(土)00:20:37.72

 身バレしない程度に答える


 2: 名無しってなんですか? 2016/07/02(土)14:51:16.46

 特定した


 3: 名無しってなんですか? 2016/07/02(土)14:55:36.51

 ツイッターのフォロワーのJDに会わせてくれ


 4: 名無しってなんですか? 2016/07/03(日)00:00:17.93

 >>3

 余裕

 出会い虚力ならここが最強

 http://oriental-quick-reserch.jp/deai.html


 ツイッターユーザーを特定するなどということが本当に可能なのだろうか。いったいどうやって? 半信半疑で書き込まれているURLをクリックする。

 なんでも屋、オリエンタルクイックリサーチのウェブサイトが表示された。闇サイトを想起させる黒と赤の不気味なデザイン。一目見て、普通ではない、とわかる。ヘッダーには「匿名依頼OK!」「絶対秘密厳守!」「非常識な案件大歓迎!」とある。ところが、肝心のページ内の文章は穏健で、よく行く店の店員を好きになった場合を例に、「プロ」という単語を多用しながら依頼することのメリットを説いている。ページ最下部にはバナーが貼り付けられており、「二十四時間即日対応!」と東京〇三から始まる電話番号が記載されている。

 優は両手を組んで頭の後ろに回し、椅子に背を凭せかけた。自作自演のステルスマーケティングだと結論付ける。要するに〝はったり〟だ。

 こんなの特定できるわけがない、とついつい新規タブでツイッターを開いてしまった。

 ちっ、と舌を鳴らす。またひとつ、嫌なことを思い出してしまった。現在、ツイッターには裏アカウントでログインしているのだが、来るはずの通知が一向に届かないのだ。

 二週間前、ニコニコ動画で『【幻想水滸伝2】回想【弾いてみた】』という動画を見つけた。感動した。幻想水滸伝2は初めてプレイしたゲームで思い入れが深く、また演奏も上手だった。マイリストを巡回して、もっと聴きたい、と思った。そして、投稿者のなかこのをツイッターでフォローした。なかこのはフォロー数、フォロワー数、ともに三千強。相互フォローをするタイプだ。にもかかわらず、未だにフォローバックされていないのである。

「なんで私だけ無視されてんの」

 せっかくフォローしてあげたのに、この仕打ちはなに?

 ブロックしようかな、となかこののツイッターのプロフィール画面を開いた瞬間、はたと思う。

 ……試そうか。

 どちらかといえば、冷やかそうか、という気持ちで、オリエンタルクイックリサーチのウェブサイトに戻り、記載されている電話番号をスマートフォンに打ち込む。

 四回のコール音のあと、電話は繋がった。

『はい』

 電話口の男性はそれだけ言った。──社名を名乗らない。この時点で電話を切ってしまおうかと興醒めしたが、切ってもやることがない事実を思い出した。

「出会い協力についてお尋ねしたいんですけど……ネットで知り合った人に会えますか?」

『それに関してはお電話でお答えすることができないんですよね。個人情報等のお話があるので今お伝えできないんですけれども、ご挨拶させて頂ければいろいろな形のお話はできるのかなっていうのはありますよね。ご希望に添えられる形を模索する意味も含めて弊社のほうでお話をお伺いさせて頂いてるんですね。よろしければ一度お会いさせて頂くことって可能ですかね? お会いする場所は都内になるんですけど、どちらにお住まいでしょうか?」

 喋るなあ。相手に考える隙を与えずに物事を進めていく──これは詐欺の手口だ。大方、多額の相談料でも吹っかけるのだろう。

『もしもし?』

 ほら、来た。このような輩は捲し立てるしか能がないのだ。電話代もかかることだし、早々に切ったほうがいいな、と思い直す。

『申し訳ございません。驚かせてしまいましたね。久方ぶりの歯応えのありそうな案件にいささか興奮してしまいました。現場にはその道のエキスパートが伺います。信用できる人材です。是非お話をお聞かせください』

 なるほど。要するに電話口の男性はなにも知らないのだ。それならば──。

「そのエキスパートに代わってください。本当に特定できるかどうか知りたいので。それが確認できないなら会えない。無駄足はごめんなので」

『只今他のお客様の対応中でして──』

「嘘なんでしょ?」

『やはり疑われているのですね。──わかりました。他のお客様の対応中、というのは嘘です。電話に出てはいけないのです。そういう規則になっております』

「はっ、なにそれ。苦しい言い訳ね」

『お会いして頂ければわかることです。相談料などは一切かかりません。交通費はご負担して頂きますが』

 ふうん。

 無料なら、と思う。憂鬱でしかない東京出張のいい刺激になる。

「場所は?」

『新宿になります』

 訊いたものの、東京には詳しくないのだった。新規タブで路線情報を開き、新宿から吉祥寺への移動時間を調べる。十九分。明日の出勤時間は三時なので二時半に出れば間に合う。話は半時間聞けば充分だろう。

「わかった。明日、お昼の二時に行くから」

 電話番号を伝えて電話を切った。程なくして一通のショートメールが届いた。そこには新宿にあるカフェの住所が書かれていた。横浜にもあるチェーン店だ。

 少しは楽しませてくれよ、と優は思う。


       2


 迷子になる可能性も考慮して早めに新宿のカフェに向かったらすんなり辿り着いてしまった。

「まあ、いっか」

 カフェだし。テーブル席でアイスコーヒーを飲みながらのんびりと待つ。時々目の前に置いたスマートフォンで時間を確認するが、約束の二時にはまだ半時間以上あった。

「こんにちは」

 突然話しかけられた。振り返ると、一人の女性が立っていた。すらっと背の高い綺麗なお姉さん。眼鏡がよく似合っている。その眼鏡をくいっと持ち上げながら、「お待ちしてました」と言った。

「担当させて頂きます、名前は──葵と呼んでください」

「なんでも屋の?」

 ええ、と頷いて、葵は正面に腰掛けた。

「どうして私だと?」

「昨日の電話、聞かせてもらいました。声を聞けば、おおよその人物像はイメージできます。イメージした人物が一人でカフェに入ってきてテーブル席に座った。特においしいわけでもないコーヒーを注文しただけで、なにをするでもなく、ただスマホを気にしている。人を待っているのは明らかで、加えて、その姿勢にまるで慣れたところがなく、初めて会う人を待っていることがわかる」

 造作もないことです、と葵は不敵に笑った。

 そんなことはない。ここは新宿のカフェだ。店内には数え切れないほどの客が入っている。一人で来ている女性も多い。誰かに見られている気配は感じなかった。近付いてきたこともわからなかった。体が強張る。

「さて、半信半疑のご様子なので諸々説明させてもらいますね。まず、私が電話に出られなかった理由ですけど、女が電話に出るとエッチなことを要求される場合があるので女性社員は所属していないことになってるんですよ。あとは、いろんな代役、それに伴う工作をこなしていますので、万が一疑われて電話がかかってきても大丈夫なように、というのもありますね」

「そんなことどうでもいい。ネットで知り合った人を特定できるかどうか知りたいの」

「まあ、聞いてください。次に、特定できるかどうかを電話で教えられない件ですけど、あなたが我々を疑っているのと同じように、我々もまたあなたを疑っているんですよ。リスクマネジメントを兼ねているということです。──確認させてください。あなたはインターネットで知り合った人のことを好きになり、会いたいと思っている。間違いないですね?」

 主従関係が逆転しそうな流れを察して一度視線をそらす。その先にあったアイスコーヒーを手に取って一口飲んだ。

 されるがまま、というのも悔しいが、嘘が通じる相手ではない。堂々とした口調で「いいえ」と答えた。

「こちらが一方的に知ってるだけ。好きじゃないけど、付き合いたい」

「矛盾していませんか?」

「私はゲームが好きなの。お姉さん、ゲームわかる? 苦難を乗り越えてクリアするの。で、クリアできた時の喜びって半端ないの。最近、悪者を見つけてね。退治したいのよ。ネットの情報のみという状況から付き合うっていうゲームで」

「なるほど。ではこれは、RMTといったところですね」

「なに?」

 RMTって、なに?

「いいでしょう。ただの冷やかしではないようですね。ターゲットについて知っていることを教えてください」

「ニコニコ動画のアカウントとツイッターのアカウントを知ってる」

「ツイッターのアカウントがわかれば充分です」

「見てもいないのに? 鍵アカウントだったらどうするの?」

「ニコニコ動画とツイッターを知っているということは、ニコニコ動画に動画を投稿、或いは生放送の配信をしていてツイッターで宣伝しているという形でしょうから、それはないと思ったんですけど、仮に鍵アカウントであったとしても、アカウント名で検索をかけたらリプライが引っかかってフォロワーがわかるので、彼らと繋がればそこから辿り着けますし、フォローされるようなアカウントを作ることも可能ですから同じことですよ」

 比喩ではなく、開いた口が塞がらなかった。

 こいつ、使える……!

 アイスコーヒーを飲む。ストローが、ずずっ、と音を立てた。

「契約の話を聞かせてくれる?」


 新宿駅に戻る途中でATMに寄った。指定された口座に三十万円を振り込む。前金だ。あとはターゲットと無事会うことができれば成功報酬として更に三十万円を支払うことになっている。失敗することはまずないので支払うつもりでいてほしい、と葵に言われた。

 新宿駅に潜る前に大きく深呼吸をした。宇宙が透けて見えそうなくらい青い、どこまでも青い空があった。

 優は胸の高鳴りを抑えながら、階段を下る。


       3


「GAME START」のボタンを押した瞬間、電話がかかってきた。ライブ・ア・ライブをクリアしたので次に実況プレイするゲームを模索しているところだった。ライブ・ア・ライブのシナリオは西部編から始めた。銃にはロマンを感じる。本当はプレイステーション4のバイオハザード7の体験版がやりたい。別段レトロゲーム好きというわけではないのだ。

 スマートフォンを手に取る。ディスプレイには「葵さん」と表示されている。

「はい。優です」

『ターゲットの勤務先を特定しました』

 すげえ……。あれからまだ一週間も経っていないのに、もうそんなところまで辿り着いたのか……。

「どこ?」

『株式会社パステルミュージック。所在地は渋谷区』

 渋谷! 近い!

 これはなにかと都合がいい。ふふ、そうなのね──。

「東京なのね」

『ええ。ニコニコ生放送のコメントで鎌をかけました。サントリーホールのゲーム音楽のコンサートは行きますか? と尋ねたら、七時半までに仕事が終われば夜の部に行くつもり、と答えました。サントリーホールは港区で、夜の部は八時開演です。そんなことが可能なのは都内の会社に勤務している人間だけ。あとは、ツイッターに最も多く投稿されている風景写真をピックアップし、見切れている電線やビルのシルエットを周辺の景色と照合したところ、渋谷区の通りが浮かび上がりました。ターゲットは音楽に精通している。近くに音楽制作会社があったので在籍確認の電話をしました』

 なかこのの配信は優も一度見たことがある。累計来場者数は三百人を超えていた。あの絶え間なく流れるコメントの中で的確に拾われる話題を選択しつつプライベートに迫る、というのはメンタリストのようで、風景写真に写り込んだものから場所を絞る、というのは最早コンピュータのようだと思った。

「これを、葵さん一人で……?」

『造作もないことです。ターゲットが阿呆で助かっているくらいですよ。思った通り、なかこのというのは本名でした。なかこのという苗字は日本に一種類しかありません。大中小の中、大中小の小、野原の野ですね』

 中小野。

「渋谷にある株式会社パステルミュージックに勤める中小野」

『以上が現時点で入手できている個人情報になります。勤務先がわかったのでこちらサイドが接触するのは時間の問題ですね。それと、別ルートから電話番号がわかる手筈になっており、こちらも近く報告できるでしょう」

「ご苦労様。引き続きよろしく」

『では』

 優は電話を切ると、すぐさまピルエットの店長に電話をかけた。コール音が鳴っている間、一度咳払いをする。

「お疲れ様です。今、お電話大丈夫でしょうか?」

『ああ、いいぞ。どうした?』

「吉祥寺店のことなんですけど、新人の子がいるじゃないですか。相川さん。彼女、少し頼りないですね。気になって今日吉祥寺店に顔を出してみたんですよ。そうしたら接客が追いついていなくて。人数が足りていてもそんな状況ですから、しばらく厳しいかと。私、吉祥寺店勤務は全く苦ではないので積極的に派遣して頂ければと思いまして、お電話しました」

 嘘だ。相川が新人であること以外全て嘘だ。

『ああ、相川さんねえ。そうか、ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ』

 どうだ、と口角が上がる。私にだってこのくらいのことはできるのだ。演技力には自信があった。ゲーム実況においても女の子らしい女の子を演じ切っている。

 東京にいたほうが動きやすいだろうから、吉祥寺店に出勤できるようにしておいたほうがいい。

「他店で働くのは私も勉強になりますので」

『勉強もいいけど、癒しも大切だろ。次はいつ会う?』

 そういう魂胆で電話したんじゃねえよ。

「いいこと思いつきました。東京のホテルに行ってみませんか。東京の夜景も見てみたいです。吉祥寺店勤務の前日に行って、朝、吉祥寺に送ってください」

『大丈夫か? しんどくないか?』

 造作もないことです、と唇の裏で言う。


 次に実況プレイするゲームが決まった。ファミコンのロックマン2だ。いまなお派生作品がリリースされている人気タイトル。ロックバスターで敵を撃つのが楽しそうだ。それに、ロックマン2はプレイステーション3のゲームアーカイブスにあるのでロムカセットを探す手間が省けるという点も大きい。

 速やかに決まって安心した。世間は、ポケモンGOの国内配信が近い、と熱を帯びてきている。優も待ち望んでいる一人だ。ポケモンGOを始める前にひとつ動画を収録しておきたい。

 早速ロックマン2をダウンロードし、試しに一度プレイしてみる。

 むっず!

 ファミコンのゲームに慣れていないこともあり、そもそも操作がおぼつかない。開始僅か一分でゲームオーバーを迎えてしまう。

「ロックマン、ごめんね。私が操作したばかりにポンコツで」

 だけど、と優は思う。

 中小野は思い通りに操ってみせる。


       4


 仕事を終え、スマートフォンを確認すると、葵からメールが届いていた。そこには中小野の電話番号が書かれており、中小野が演奏した楽曲の音声ファイルが添付されていた。ニコニコ動画でゲーム音楽を演奏している人の楽曲をラジオで流す、という企画をでっち上げ、送らせたようだ。

 聴きながら家に帰った。ゲーム音楽のピアノアレンジのようだが、優にはわからなかった。それでも、最後まで楽しく聴けた。あまりにも楽しく、笑いを堪えるのが大変だった。


 玄関のドアを閉めたあとで、「あっ!」と思い出す。

「ポケモンGOしようと思ってたのに」

 今日、遂にポケモンGOの国内配信が開始された。ポケモンを探しながら帰ろう、と意気込んでいたのに。出遅れた……と肩を落とす。しかし、今となってはそれほどときめきを感じない。もっとおもしろいゲームが手に入ったのだ。

 鞄を放り投げ、パソコンの前に座る。昨晩投稿した『【実況】しどくろ的ロックマン2その一』の状況を確認する。前日総合順位二十位。

「いいじゃん」

 ランキングに載るとライト層を取り込める。これは忙しくなるぞ、とツイッターを開く。


 なかこの @nakakono2525・5分

 まいったな……。

 ♥7


 ああ、そうか、と頭を掻く。裏アカウントでログインしたままだった。

 機嫌がよかったのでリプライを送ることにした。


 基本的に病気 @kihontekini_・1分

 @nakakono2525 どうしたんですか? なかこのさんにいいことありますように!


 無視されながらも励ましのメッセージを送る慈悲深さに、我ながら酔いしれる。それから、しどくろのアカウントでログインし直し、フォローバックとお礼のリプライを与えられた仕事のように黙々とこなす。どこかの誰かさんのように見落とすような真似はしない。視聴者を思いやる気持ちに、更に酔いしれる。


 風呂に入っている間にLINEが来ているかもしれない、と風呂上がり、部屋に戻るとまずスマートフォンを確認するのだが、来ていた試しがない。「友だち」のページに登録されているのは誰一人として「友達」ではなく、家族と同僚しかいない。LINEの通知音は月に一度鳴るか鳴らないかの頻度なので、こまめに確認する必要はないのだが、だからこそ、貴重だからこそ、気になってしまう。けれど、近い将来、一度も使ったことがないLINE通話が来ているかどうかも含めて気にすることになるだろう。彼氏が登録されるのだから。

 中小野の電話番号を入手したことを思い出す。

 ……電話してみようか。

 悪戯心に従順に、中小野に電話をかける。中小野は誰からの電話なのかわかっていないが、こちらはわかっている。そのアンフェアが、愉快で仕方がない。

 コール音が鳴り続いている。出ないのかよ、と思いながらマウスポインタをぐるぐる回していた。ツイッターの通知が届いて、優は慌てて電話を切った。

 中小野にフォローされた。裏アカウントではなく、しどくろが。

 ちょっと待ってよ。

 向こうから近付いてくるというのは想定外だ。これでは依頼する必要がなかったということになる。三十万円が水の泡──。

 いや、と優はせせら笑う。俄然こちらが優位だ、と閃く。中小野は自ら進んで処刑台に立つことになる。

 フォローバックし、お礼のリプライを送る。すると、中小野からリプライが来た。


 なかこの @nakakono2525・1分

 @sidcro はじめまして。ロックマン2を見て。続き、楽しみにしています。

 ♥1


 はじめまして。

 うける。〝いいね〟を押さずにはいられなかった。

 もうひとつの裏アカウント──所謂闇アカウントでログインし直し、このリプライをリツイートする。拡散目的ではない。〝魚拓〟だ。

 葵に報告しようと思ったら、折よく葵から電話がかかってきた。

「はい。優です」

『ターゲットの自宅を特定しました』

 最早驚きはなかった。そう、と冷静に答える。

 帰路を尾行して突き止めたようだ。三鷹市と言われたが、やはりぴんと来ない。それを察してかどうかはわからないが、葵が情報を付け足した。その一言に仰天する。

『吉祥寺の程近くですね』

 運命だと思った。中小野は罰を受ける運命だったのだ。

「私、不定期だけどキラリナで働いてるの」

『それは、それは』

「中小野をそこに誘導できる?」

『造作もないことです』

「私、ニコニコ動画でゲーム実況をやってるんだけど、さっき中小野にツイッターでフォローされてね。そこで、偶然出会うシチュエーションを作りたいんだけど」

『それが最終ミッションということでよろしいでしょうか?』

「ばっちり決めてね」

 打ち合わせをして、電話を切った。決行日は次の吉祥寺店勤務の日。葵が中小野を連れて吉祥寺店にやってくる。

 のこのことやってくる。


       5


 大丈夫です? と相川が顔を覗き込んできた。

「生理中はトイレが近くなるんですよ、私」

 嘘だ。トイレが近くなるのは本当だが、生理ではない。頻繁にトイレに行く口実がほしかった。葵からのメールを見落とすわけにはいかない。

「あっ、わかります。生理中は体重が増えやすいって聞きますけど、私は生理が始まった途端すとんと落ちるんですよ」

 知らねえよ。いらねえよ、そんなくそみたいな情報。

 葵からはまだなんの情報も受け取っていない。時刻は八時になろうとしていた。あと一時間強で閉店になってしまう。

 エスカレーターのほうを睨んだ、その時だった。

 右足の太ももに違和感があった。今日着てきたワンピースはスカート部分がプリーツスカートになっており、右側にポケットがある。その中で、スマートフォンが振動した。

「トイレ行きます」

 トイレに駆け込んでポケットに手を突っ込む。一度スマートフォンを掴み損ねた。緊張ではなく、気が早った。

「プランB」

 プランAでは葵は中小野と同級生で優と友達、プランBでは葵と中小野の同級生の設定が外れる。つまり、プランBとはいえ、不利な状況に陥ったわけではない。作戦は共通している。吉祥寺に土地勘がない葵が優の職場まで中小野に案内をさせる、というものだ。本当のところは中小野よりも吉祥寺に明るいだろうけど。

「一分後」

 次のメールが届いた。一分後にやってくる、ということだろうか。必要最低限の文面に、緊迫感を覚える。

 優はトイレから出ると、エスカレーター側、ネックレスの棚が並べられたフロアに陣取った。「いらっしゃいませ。どうぞご覧くださいませ」と声を張る。もしかしたら中小野が声で気付くかもしれない。葵が上手くやってくれるだろうけど、中小野が先に気付かなければならない。

 手持ち無沙汰でなんとなく商品のネックレスを触っていた。クリスタルビーズが綺麗に繋がっている。

「優!」

 ──来た!

 葵の声がして、振り返る。葵と、そして一人の男性がいた。

 中小野。

 どうしたの? と惚けながら葵に近付く。まるで別人のような葵の無邪気な表情に吹き出しそうになる。

「遊びに来たよ」

「連絡くれればよかったのに」

「それじゃサプライズにならないでしょ?」

 えっと……と中小野を見る。紹介しろ、と目で催促する。葵が「ああ!」と中小野のシャツの袖口を掴んだ。

「こちらの方は私をここまで案内してくれた紳士です」

 紳士。

 ──ターゲットが阿呆で助かっているくらいですよ。

 限界だった。あははは、と声に出して笑ってしまう。なぜか中小野も笑い、事なきを得た。

 友達がご迷惑をおかけしました、と頭を下げる。中小野は、いえいえ、と手だけ振った。──反応が薄い。しどくろだと気付いていないどころか、まるで興味を持たれていない気がする。それとも〝コミュ障〟か?

 あまり気は進まないが、こちらから仕掛けることにした。

「はじめまして。北坂優です」

「どうも。中小野翔です」

 フルネームを名乗り、フルネームを引き出す。

 えっ! あのなかこのさん? と言おうとしたら、葵もリクアションをした。

「変わった苗字ですね」

「よく言われます。真ん中に小さい野原、と書きます」

 ナイスアシストだった。「変わった苗字」というのを強調してから尋ねたほうがより自然だ。もしかして、という風に「あの……」と切り出す。

「中小野さんって、ニコニコ動画の、なかこのさんですか?」

「優、この人知ってるの?」

 返答のない中小野に見かねたのか、葵が横から割り込む。中小野のほうを見たまま、「知ってる」と頷く。

「どこかで聞いた声だなあ、と思ってたんですよ。ニコニコ動画でゲーム音楽を演奏してるなかこのさんですよね? 私、生放送もよく拝見させて頂いてるんですよ」

 中小野は依然として黙っている。埒が明かないので畳みかける。

「私、しどくろです。ゲーム実況をしてるしどくろ。わかりますか?」

「ああ」

 ああ。

 腹が立った。思わず中小野を睨みそうになった瞬間、「世間ってほんと狭い」と葵が笑った。

「優、中小野さんに案内してもらったお礼にアクセをプレゼントしたいの。見繕ってくれない? ちょっとトイレ行ってくるから。よ、ろ、し、く!」

 歩き去る葵の後ろ姿を呆然と眺める。アシストか、それとも放り投げたのか、判然としなかった。もし後者ならば、中小野翔、恐るべき人材である。そう考えると、なんだか可笑しかった。落ち着いた声音で「中小野さん」と呼びかける。

「お会いできて光栄です。ツイッターでリプを頂いた時もすごくびっくりしたんですけど、ひゃあ、こんなことってあるんですね」

 中小野は、ねっ、とだけ相槌を打った。女性と話し慣れていないのかもしれない、と優は予想する。少なくとも、恋愛経験はあまりないように見える。女性が喜ぶ返事の仕方を知らない。こちらが会話をリードするのは正解だった。

「中小野さんは、この辺にお住まいなんですか?」

「うん、ここから井の頭公園を跨いだ所。すぐそこだよ。本当にすごい。こんな近くにしどくろさんがいるなんて夢にも思わなかったよ。ネットでしか見られない人を目の当たりにして今すごく感動してる」

 急に喋り出した。まるで、よくぞ訊いてくれた、と言わんばかりに。よくわからない。

「私もです」

「しどくろさんもこの近くに住んでるの?」

「私、横浜なんです」

「それはまた……随分遠いね」

「普段は横浜のピルエットで働いてるんですけど、ヘルプでこっちに駆り出されてるんです。最低、って思ってたんですけど、中小野さんにお会いできたのでよしとします」

「人助けをするといいことあるんだな、って僕も思っていたところ」

 おどけてみせる。印象は悪くないようだ。お世辞が言えるような器用なタイプとは到底思えない。滑り出しはいいといえるのではないだろうか。

「そうだ、中小野さん。うちの店、メンズのアイテムは置いていないんですけど──ピアス、開けてます?」

「開けていないよ」

「むう、困ったなあ」

 むしろ、好都合だった。次に繋がるような代替案を提示できる。

「いいんだよ、本当に。『人助け』なんて大層な言葉を使ったけれど、京王井の頭線の改札口からここまで来ただけなんだ。散歩にもなっていないよ」

「じゃあ……ちょっと待っててください」

 レジカウンターに行き、メモ帳から紙を一枚破り取る。そこにLINEのIDを書いた。自分からLINEを教えるのは初めてだ。レアアイテムだ、喜べ。

 中小野の元に戻る。

「これ、私のLINEのIDです。よかったら今度食事に行きませんか。私が中小野さんのお話を聞きたいっていうのもあるんですけど、駄目ですか?」

 完璧だ。これは断れない。

「しどくろさん、通勤は車?」

「いえ、電車です」

「このあと、軽く飲みに行かない?」

「このあと、ですか」

「駄目ですか?」

 ちょろい。女性のほうから好意を向けるとすぐ食い付いてくる。ふっ、と鼻で笑ってしまう。

「いいですよ。じゃあ、九時半に交番のところで」

「よかった」

「私、待ってますね」

 LINEのIDが書かれた紙片を右手で差し出す。中小野が左手で受け取った。その薬指を見る。結婚指輪はない。事態は短期戦の様相を呈してきた。

 出来すぎたタイミングで葵が戻ってきた。めんどくさくなったのか、言動が雑になってきている気がする。遅かったね、とからかった。

「それがさあ、帰り道がわからなくなっちゃって。あれって不思議よね。帰り道ってまるで景色が違うんだもん」

 方向音痴という設定がここまでの展開を考えてのことだとしたら、やはりさすがとしか言いようがない。

「そんなことより優、中小野さんにお礼のアクセ」

 ミッションは完了したか? の意。

「それならもうお渡ししたよ」

 完了した、の意。

「そっか、ありがと」

 こちらこそ。


       6


「ここはハリーズ・ロンドン・パブ。とっておきの場所」

 ゲームの世界に連れていく、と言われて入った店はなんの変哲もないバーだった。

「イギリスが好きなんですか?」

「違うよ、キャサリンが好きなんだ」

「キャサリン?」

「うん、ゲームの」

「ゲームのキャサリン?」

 ゲームのキャサリンって、なに?

「知らない……? アトラスゲーなんだけど……?」

「アトラスゲー?」

 なにを言っているのかさっぱりわからない。まずい、と思い始める。レトロゲームの話題だとしたらまずい。レトロゲーム好きを公言しているしどくろはきっと知っているはず、という体で話している可能性がある。しどくろのキャラクターに疑問を持たれては厄介だ。リボンは一度解け始めると簡単に解けてしまう。

「アトラスのゲーム。女神転生やペルソナでお馴染みのゲーム会社」

 なるほど。ペルソナはわかる。ペルソナ4はプレイステーション3のソフトだ。この話題で押せばいい。

「あっ! ペルソナ4はやりました!」

「キャサリンはペルソナの開発チームが制作したアクションアドベンチャーゲームで、アドベンチャーパートはストレイ・シープっていうバーが舞台なんだけど、ここがそこにそっくりなんだよ」

「へえ、そうなんですね」

 レトロゲームの話ではなかった。安堵して笑みがこぼれる。しかし、この場面は明らかに選択肢を誤った。その証拠に、座ろうか、と中小野は伏し目がちに歩き出した。でも素敵なところですね、とフォローする。

「なに飲む? しどくろさんはどういうのが好きなの?」

 席に着くや否や、中小野が尋ねてきた。

 お酒もよくわからないのだ。甘いやつ、と適当に答える。これはこれでいいだろう。女性はお酒に詳しくないほうが可愛いと思う。もっと言えば、何事においても詳しくないほうが男性と平和的な関係を築ける。男性というのは女性に知識をひけらかしたい生き物なので、「へえ!」とだけ言っておけば勝手に気分をよくするのだ。

 中小野が両手にお酒を持って戻ってきた。

「飲むチョコミントことグラスホッパー」

「おいしそう!」

「名誉は挽回するためにある」

 へ? と首を傾げながらも、回復した様子がわかる。どうやら立て直せたらしい。

 いや、こっちの話、と言いながら中小野が椅子に腰掛ける。そして、「乾杯」と言った。発音しなかったが、その直前の二秒間、口が動いていたのを優は見逃さなかった。読唇術の心得がないのが悔やまれる。けれど、ひとつだけわかったことがある。中小野には隠している気持ちがある。

 重なるグラスに立てた音がゴングに聞こえた。──勝負に出ていい。思わせぶりに少し間を置き、「あの……」と遠慮気味に切り出す。

「お願いがあるんですけど」

 中小野が一瞬動揺を見せた。ネガティブな話題ではない、ということを伝えるための前置きだったが、この時点でそう取られたのかもしれない。笑顔を付け加えてから続けた。

「しどくろさん、って呼ぶの、やめてもらってもいいですか?」

「うわあ、ごめん! そうだよね、誰が見てるかわからないもんね」

 そうだね、と思いながら、「いえ、そうではなくて!」と口にする。

「こうして面と向かって話してるのに、なんだか遠いな、と思ってしまいまして。私、中小野さんとはもっと近い距離でお付き合いしたいと思ってるんです。感情を表に出すのが下手なのでわかりにくいと思うんですけど、めちゃくちゃ喜んでるんですよ、実は。私、お友達が全然いないので、こうして外でお酒を飲むなんてこと滅多になくて、あの、これからも一緒に遊んでくれませんか? って、今来たばかりなのにもう次の話……。すみません、スーパー構ってちゃんで」

 あなたといると楽しい、もっと親しくなりたい、彼氏はいない、いつも寂しい、というアピールを詰め込む。放っておけないでしょ?

「じゃあ、優ちゃん──でいいのかな? 僕からもひとつお願いが」

「なんでしょう?」

「タメ口で喋ってほしいんだけど」

「いいんですか? 私、二十二の小娘ですけど」

「しどくろさん──じゃなくて、優ちゃんの喋り方がすごく好きで。それが敬語になるといいところが死んじゃうんだよね」

「わかりました──わかった」

 あははは、と笑う顔が少し引きつった。男性語が出ないように気を付けなければ。


 ハリーズ・ロンドン・パブの出入り口である階段を昇る。ごく自然に好感度が上がっていくのを噛みしめながら昇る。

 地上に出ると、雨が降っていた。

「まじか。雨の予報じゃなかったのに」

 中小野がiPhoneを操作し、ため息を吐く。次いで、鞄を開け、その中に手を突っ込む。

 ──折り畳み傘を持っている。

 中小野の手元を凝視していた。中小野がそんな優の気配に気付き、そして尋ねた。

「傘、ある?」

「ない」

 嘘だ。

 すると、中小野は折り畳み傘を勢いよく取り出し、優の眼前で振り子のように揺らしてみせた。ご機嫌である。

「入っていく?」

「いじわるー」

「親切でしょ?」

「逃げ道のない質問はいじわるだよ」

 ごめんごめん、と中小野が開いた傘を優の頭上に掲げる。調子に乗るなよ、と優は微笑む。

 雨の中を、二人寄り添って歩く。いい雰囲気だ。雨は大嫌いだけど、今日だけは感謝しよう、と傘の天井を見上げた。

「傘に当たる雨の、ととん、っていう音、好き」

 そう言うと、中小野が吹き出した。

「えっ、どうして笑うの?」

「僕も今、同じこと思ってた」

「おお、やったー」

「やったー?」

「なんか、クイズに正解したみたいだから。──じゃあ、今度は中小野さんの番ね。私は今、どんなことを考えてるでしょうか?」

「ラーメン食べたい?」

「ぶぶー」

「なんだろう? 正解は?」

「楽しい時間がもう終わっちゃうなあ、って」

 優は確信していた。中小野は〝落ちる〟。このゲームは早くも終盤なのだ。今にしてみれば、葵というカードを切ったのはチートだった。

「次はどこに行こうか?」

 中小野が雨の夜に太陽の陽射しのような声で言う。

 ──勉強もいいけど、癒しも必要だろ。次はいつ会う?

 めんどくさい。終わってしまってもべつにいいや。


 吉祥寺駅のJRの改札口に着くと、優は鞄から折り畳み傘を取り出した。

「確信犯でした。ごめんね」

 あざとい。相合傘したかったから嘘を吐いたんです、といったところだ。中小野に対して「こうかはばつぐん」だろう。

 山場といえるイベントを演出できたことに満足していた。

 一瞬のことだった。中小野の顔がすぐ目の前にあった。背を仰け反る間もなかった。

 中小野は優にキスをした。

 勝った……と優は中小野の死角でピースサインを作る。予想以上の反応に、やればできるじゃない、と先輩のような気持ちになる。

 恥ずかしげに俯き、しおらしく黙っておく。長い沈黙があり、過ぎた時間だけ恋が加速するような気がした。無論、これは中小野視点の話だ。

 恋愛なんて、所詮知恵比べ。他人の心を操作する、ゲームだ。

 必死に選んだであろう台詞を、中小野は口にする。

「仕返し」

「やられたらやり返す?」

「チュー返しだ」

 強力なボスの撃破にコントローラーを振り上げる勢いで、中小野に抱きついた。「やったー!」と言いたいところを「チュー返しって!」に置き換えて大笑いする。ちょ、ちょっと、と中小野は慌てた。

「もう行かなきゃ」

「あっ、うん、また今度」

「あとでLINEする」

 電車の中、優はスマートフォンを強く握りしめた。中小野の未来は、この手の中にある。


       7


 LINEで中小野に告白されたが、保留にした。苦難も必要なのだ。頑張って手に入れたものを失う気持ちはどんなものなのだろう。フォローしてあげたのに無視された虚しさ、腹立たしさを凌駕するものであってほしい。

 あれから三日が経った。三日しか経っていない、といえる。中小野に呼び出されたのだ。前回と同じように吉祥寺店の仕事終わりに待ち合わせ。つまり、中小野は三日間しか耐えられなかったのだ。もっと長く苦しんでほしかった。

 そうはいっても、中小野に会うのは楽しみだった。こちらが完全に優位な立場で相対するのは相当に気分がいい。逸る気持ちで、退勤後、吉祥寺駅東口交番まで走っていく。

 飛び込むような気持ちで足を踏み入れた吉祥寺駅東口交番前だったが、不穏な空気にぴたりと足が止まる。

 中小野が泣いている。

 優の顔からうすら笑いが消える。ダメージ計算を見誤ったかもしれない。もう無理、と言われてしまったらどうしよう。形勢は一気に逆転する。恐る恐る「どうしたの?」と声をかける。

「私、疲れさせちゃった……?」

 中小野は、ううん、とかぶりを振る。関係ないんだ、と笑う。「だけど……」と小さく、それでいて力強く囁いて、優の手を掴む。

「連れていきたい場所があるんだ」

 なにが起こっているのかわからない。ただひとつわかったのは、予定が狂ったということだ。今日、中小野は告白の返事を催促してくるものだと思っていた。ここまで思い通りに事が運んでいるだけに、不安がよぎる。


「ご注文はお決まりですか?」

「あとで呼ぶよ。ありがとう」

「はあい」

 中小野と親しげにやり取りしたあと、店員はテーブル席を離れた。気のせいだろうか、振り向きざまに睨まれた気がする。どういう関係? そして、一体なにが始まるの?

「ここは不思議草。行きつけの居酒屋」

 なんの変哲もない居酒屋──いや、なにかのゲームの舞台に似ているのか? 頭の中をドット絵が目まぐるしく駆け巡る。

 あとになってわかったことだが、女神転生はファミコンから始まったシリーズだった。レトロゲーム好きを公言しているしどくろが女神転生を知らないのは不自然で、ペルソナだけに食い付いたのは大きな失敗だった。疑いを持った中小野の尋問が始まろうとしている、そんな重苦しい空気がある。「ほら、わからないでしょ?」という決め台詞を拳銃のようにポケットに仕舞っている気配がある。優の目に不思議草は、取り調べ室にしか見えなかった。

「優ちゃん、実は……」

 相槌が打てない。声が出せない。葵と初めて対峙した時と同じような緊張感が走る。下手なことを言えば、足元を掬われる。

 なにかを決意したような目で、中小野が優を見た。あの涙、そして、この神妙な面持ち。中小野の中で答えが出ている。ゲームオーバーが告げられてしまう。

「今日は返事が聞きたくて呼んだ」

 えっ……。

 張り詰めた糸が切れて、吊るされていた肩がだらんと下がる。

「びっくりしたあ……。私、中小野さんに嫌われてしまったのかと思った」

「嫌われる?」

「とてもつらそうだったから……。私に苦しめられてもう嫌になっちゃったんだと思った」

「そんな、ばかな」

 馬鹿はお前だ。本当に、阿呆で助かった。

「でもそうだよね。返事をしないと」

 両手で髪を撫でる。気持ちを切り替える。

「気負うことはないからね。NOなら、このまま。友達のまま。二人の関係がマイナスになるわけじゃないんだ。ただ、OKなら、僕はすごく幸せだよ」

 それが、OKでマイナスになるんだよね。ご愁傷様、と頭を下げる。

「謹んでお受けします」

 しどくろらしく決めた。

 中小野が両手に顔をうずめて喜んでいる。もっと喜ぶがいい。高く昇れば昇るほど、落下した時の衝撃は大きい。

「中小野さん、ごめんね。私、答えはもっと以前に出てたんだけど、言い出せなくて。今日、中小野さんが誘ってくれてよかった。それから、気負うことはない、って言ってくれて」

「こんなに幸せなことはないよ」

「ほんと? 私、お友達いないし、パソコンに向かって一人で喋ってるし、残念な子だけど、中小野さんが幸せでいられるように頑張るね」

 正しくは、頑張った。

「優ちゃん、ひとつ訊いていい?」

「なに?」

「優ちゃん、僕のこと、好きなの?」

「逃げ道のない質問は──」

「聞きたいんだよ」

「好きだよ」

 中小野がそわそわと落ち着かない動作を見せた。たった四文字で動揺を誘えるのだから、男性はやはりイージーモードだ。

「じゃあ、私からはクイズ」

「またクイズか」

「ふとした瞬間に顔が浮かんで会いたくてしょうがなくなっちゃう女の子わーたし?」

「クイズになってないんだよなあ」

 あははは、と笑う。どこからどう見てもカップルだ。全てのミッションを完遂したことを実感する。「ねえ」と大袈裟に顔を上げた。見下すように中小野を見て、勝利宣言のように言った。

「どっちが先に好きになったんだろうね」

 中小野が照れ笑う。無知とは幸せだなあ、と思う。 

「乾杯しよう?」

 勝利の美酒である。

 中小野が席に着いたまま店員に声を投げて注文する。それから、快楽主義がどうだとか、意味不明なことを口にした。

「いや、こっちの話」

 そう、そっちの話。

 わたしはプレイヤー。あなたはキャラクター。

 これは、ゲーム。

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