第三章 一ノ瀬冬馬

       1


 はい、いらっしゃい。

 こんばんは──こんばんは。

 わこつです──わこつです。

 なかこのこのやろう──この野郎。

 今日の晩ご飯はなんですか──今日はね、このあと飲みに行くからそこで食べる。

 今日はなにやるんですか──なにやろうかな。

 初見、クロノ・クロスから──初見さん、いらっしゃい。そう、クロノ・クロスを上げたから配信したかったのだけれど、なかなか時間が取れなくて。

 なかこのこのやろう──わかったわかった、ごめんごめん。

 クロノ・クロスよかった──ありがとう。

『ザナルカンドにて』お願いします──OK、『ザナルカンドにて』はやらない。

 わこつです──わこつです。

 初見に言っておくが、なかこのさんはリクエストしたらやらないから──よくわかってるね。ははは。なんだろ、人間心理としてさ、「あれやって、これやって」って言われるとげんなりするじゃん?

 わかる──ああ、わかる? そうそう、そうなんだよ。

 なかこのさんの配信だ、待ってた──いらっしゃい。

『ザナルカンドにて』やらないでください──OK、やらない。ははは。まじでなにやろうかな。エレピつけてるから『ザナルカンドにて』は的を射た素晴らしいリクなんだけどね。ピアノ独奏曲じゃないのをピアノでやりたいな。……ゼノギアスやろっか。ゼノギアスの『飛翔』。『夜空一杯の星を集めて』じゃなくて『飛翔』のほうね。

 光田さんがマイブームなんですか──マイブームというか、もともと大好きだし、クロノ・クロスから来てくれた人もいるし。

『飛翔』やってください──じゃあ、やらない。いやいや、進まないから。

 最近彼女さんとはどうですか──彼女さんってなに? 今の言い方やばいね。なにそれおいしいの? みたいな。ははは。

 なかこのさんもてそう──そんなことはない……と思う。

 コイバナしようず──しないよ。

 なかこのこのやろう──はいはいはいはい、ゼノギアスの『飛翔』やるよ。


       2


 ビルの五階にあるその店は、全席個室の居酒屋だった。こんな隠れ家的な店が吉祥寺の公園口に──しかも〝バス通り〟にあるなんて、この辺に住み始めて二年以上も経つのに知らなかった。

 店員に「一ノ瀬で予約してあるのですが」と告げると「お好きな席にどうぞ」と言われたので一番奥の席を選んだ。ところどころ戸が閉まっていたので客は入っているようだが、静かだ。居酒屋とは思えないほど静かだ。


 なかこの @nakakono2525・8分

 居酒屋の個室でぼっちなんだが。待ち人来ず。

 ♥26


 基本的に病気 @kihontekini_・3分

 @nakakono2525 私も待ち人を待っているところです! 焦れったいですよね!


 まゆ @mayumayu28597・2分

 @nakakono2525 個室に一人は寂しいですね。


 五つほどリプライが付いていた。暇なくらいなら返信しようかな、と思い付いたところで、「わるいわるい」と一ノ瀬が入ってきた。あぶないあぶない。リプライした人としなかった人ができてしまうと不公平だ。

「思いの外、用事が長引いた」

 一ノ瀬は持っていた深緑色のビニール袋を、かさかさ、と軽く振って見せたあと、椅子にそっと置いた。

「吉祥寺に用事って、それ?」

「ジュンク堂に漫画買いに行ってたんだけど、なかなか見つからなくてな」

「なんでわざわざジュンク堂なの? 一ノ瀬さんの地元にも本屋くらいあるでしょ?」

「菜々子が、ジュンク堂じゃないと駄目、って言うんだわ。ジュンク堂の漫画本は、シュリンクって言ったっけか、透明なフィルムに包まれて売られてて、それがいいんだってよ。ちょっと潔癖入ってるんだよな」

 一ノ瀬の現在の彼女の名前は菜々子というらしい。初めて聞く名前だった。ふうん、と相槌を打つ。

「吉祥寺に用事って意外とあるもんなんだなあ」

「そうだな。一昨日、和瑞もそんなこと言ってたもんな」

「うんうん。一ノ瀬さんも聞いてたのか」

「一昨日な、和瑞を飲みに誘ったんだわ。そしたら、吉祥寺に用事がある、って言って断られた」

「えっ」

「ナカ、ビールでいいよな?」


 わかってしまう。本題がなにかわかってしまう。

 ビールを一口飲み、喉を潤してから口を開く。「ああ」と意味もなく発音し、抑揚を殺すように意識して尋ねた。

「どこまで聞いた?」

「お前のことが好きだ、って」

「うん。一昨日のことだ」

「いや、違う。二年前のことだ」

「……なに?」

 一ノ瀬もビールを一口飲んだ。

「二年前──俺たち三人がコンビニにいた頃、和瑞に言われた。お前のことが好きだ、って。ちょうどお前は彼女と別れたばかりで、どうしたらいいかわからない様子だったから、とりあえずナカを元気付けるのが優先だって、支えになってやれって、そう言った。それが、始まりだな」

 なんだ、それ。

 ビールを一口飲んだだけなのに酔っ払ったように頭が回らない。そんなことあるはずがない、と思った。今年の一月、和瑞には彼氏がいた。ワイドショーのように始まりと終わりの報告しかなかったけれど、確かに和瑞には彼氏がいた。

「それから、いろいろあった。この二年間、俺はずっと和瑞の相談役をしてたんだわ。黙ってて悪かったけれど、こればっかりは当人のお前に話すわけにはいかないからな」

 二年間、和瑞はそんな素振りは一度も見せなかった。

 水のような汗が、ぽたっ、とお腹に落ちた。

 劣勢のオセロのように、和瑞との思い出が裏返っていく。色を変えていく。

 二年前、中小野は失恋した。大学生の時に付き合い始めた彼女にふられる形で別れた。定職に就く気配のない中小野に愛想を尽かした恰好だ。

 ──馬鹿じゃないの。

 今となっては導火線に火が点いた瞬間を明確に認識できるが、青天の霹靂だった。吉祥寺に住む彼女の家に近いほうがいい、と引っ越した矢先の出来事で、ひどく落ち込んだ。

 ちょうど仲良くなり始めた和瑞には随分と元気付けられた。見守る、という姿勢を取った一ノ瀬とは正反対に、和瑞はとにかく中小野を外に連れ出した。『落ち込むのは暇のせいです。落ち込む暇をなくせばいいだけのこと!』と和瑞は言った。

『心の傷は消えません。慣れるだけです。でも、慣れるんです。その間、他のことをしていたほうが有意義だと思いませんか?』

 二人で出掛けることが「他のこと」だったのは中小野だけだ。

 和瑞は悩みの種である当人と向き合い続けたことになる。

 一ノ瀬が二人で遊んだ詳細を逐一尋ねてきたのは和瑞のことが心配だったからだ。そして、一年後、突然それをやめた。突然だった。和瑞が一ノ瀬に諦める意思を伝えたのだろう。一年という期間に希望を消失したのは和瑞のほうなのだ。

 今年の一月、和瑞から「彼氏ができた」と報告があった。相談は、なかった。そのことに違和感はあったが、一ノ瀬が聞いているだろう、と深くは受け止めなかった。

 言えなかったのではないか。付き合うことを決断した要因のひとつに、中小野から遠ざかる、という動機があったから。

 中小野が失恋のどん底から救出してくれた和瑞に対して抱いた感情は恋ではなかった。あの一件を経て、和瑞を親友として見るようになった。

 ──親友だからな。

 和瑞に伝えたのは一度や二度のことではない。

 相手の傷心という壁を乗り越えても、結局、和瑞が気持ちを伝えることは許されなかった。他でもない中小野がそれをさせなかったのだ。感謝の気持ちを添えた「親友」という言葉は、和瑞の気持ちを封じ込める呪文になっていた。それを聞かされ続けるストレス。呪縛からの逃避だったのではないだろうか。逃避を目的とした物事は長続きしない。『男を見る目はありますから!』と豪語していた和瑞が僅か一ヶ月で別れた事実も納得がいく。

『男を見る目がない、という言い方はずるいと思いますね。己の観察力、忍耐力がないだけの話なのに、百パーセント相手が悪かった、みたいに聞こえますもんね。自虐的と見せかけて、その実、攻撃的な物言いなんですよ』

 そもそも見ていなかったのだ。

 和瑞が彼氏と過ごした一ヶ月間、二人で会うことは控えた。和瑞に対して恋愛感情はなかったし、和瑞の中小野に対する気持ちも知らなかったけれど、自分の彼女が他の男と二人きりで会うのを快く思う彼氏は少ないだろうから、カップルの円満を願うように、そうした。やがて別れたあと、今度は中小野が和瑞を励ます番だと、積極的に外に連れ出した。よかれと思った。けれど、一番会いたくない人に会わなければいけない状況を作っていたのではないか。思いの外、和瑞がけろっとしていて拍子抜けしたものだったが、相当な無理をさせたのではないか。

 ちっ、と舌を鳴らす。

「僕は、とんだ間抜け野郎だ。なにが、男女の友情は成立する、だよ。ただの押し付けじゃないか」

「おいおい、ちょっと待て、そう自暴自棄になるなって。無理もない。あいつは、不思議ちゃん入ってるから」

「そうだな。わからない」

 ここからがわからない。

 和瑞と最後に飲んだ日。和瑞は終電を逃した。おそらく、わざとだ。あんなに時間をかけて調べておいて間違えるということは考えにくい。最初から中小野の家に行くつもりだったのだ。──なぜだ。本当は中小野の家で告白するつもりだったのか? 黙って帰ったのはツイッターの悪戯書きが原因ではなく、未遂に終わったから? それにしたって、どうして急に……。

 家にやってきてから告白するまでの流れがまるで謎だ。なんの脈略もない。

「ナカ」

 一ノ瀬の声に、顔を上げる。手が、顎から離れる。

「場所を変えよう」


       3


 ビルを降りたかと思うと、またしても向かいのビルを昇った。エレベーターの扉が開いた瞬間、賑々しい音がどっと流れ込んでくる。同じ「居酒屋」という肩書きだが、先ほどの店とは打って変わって派手な雰囲気。〝はしご〟の楽しみというのはそういうものではあるけれど、あまりのギャップに目が覚める思いがした。喧騒の中、男性の店員が「少々お待ちください!」と張りのある声を飛ばしてきてますますたじろぐ。

 やがてやってきた店員に二人掛けのテーブルに案内してもらった。「腹減らねえ?」と一ノ瀬がメニュー表を手に取った。

「ナカ、食って飲むならここだ。アメリカかよ、って量で出てくるから。そのかわり大学生御用達でやかましいけどな」

 気を遣っているなあ、と思う。声のトーンが一段階上がっているのは騒音のせいではないだろう。一ノ瀬も元気付ける術を知っているのだ。

「さすがだね」

「なにが?」

「いろんな店知ってるなあ、と思って」

「歩く食べログと呼ばれてたり呼ばれてなかったりするからな。因みに、ここのおすすめはダブルチーズのビーフシチュースフレドリアだ」

「確かにカロリーの暴力だな、そりゃあ」

 運ばれてきたダブルチーズのビーフシチュースフレドリアを見て、ほお……とため息のような声が漏れた。スキレットに浮かぶ狐色の入道雲。さながら夏の空の圧迫感。なるほど、学生に人気なのも頷ける。

 食欲はなかった。興味本位で注文したに過ぎなかった。けれど、おすすめというだけあってとてもおいしく、スフレを崩す手が止まらない。

 あの時もそうだった。失恋で失意のどん底にいても、人間、お腹は空くのである。もう死のう、などと思いながら、カップラーメンってこんなにおいしかったっけ、とすごい勢いで平らげる。動物的で、滑稽で、一人、苦笑した。

 まるでその思い出を共有したかのように、一ノ瀬が静かに笑う。

「俺は和瑞の味方であると同時にお前の味方でもある。お前が前に進もうとしていることがわかって、その点は素直に嬉しい。いつも、女はもういいや、みたいなオーラ纏ってるし。それってすごくつまらない生き方だと思うんだわ。だから、相手が誰であっても、俺は応援する」

 ああ、そうか。一ノ瀬は知っているのだ。

 和瑞の告白を断った理由。

「好きな人がいるっていうのは初耳だぞ。和瑞は知ってる風だったけれど、俺は皆目見当がつかない。誰なんだ?」

「和瑞は知ってる……?」

 一昨日の和瑞とのLINE通話で、確かに、好きな人がいる、と告げた。『わかりました』と和瑞は返した。

『今のは忘れてください。昨日はありがとうございました。また一緒に飲んでやってもいいですよ』

『なんだよ、その突然の上から目線』

『それでは、中小野さん。いつものやつで同時に切りましょう。せーの! オジョギリダー!』

『……初耳だよ』

 具体的な話はなにひとつしていない。「知ってる風」とはどういうことだ。どこかで勘付いたということがあるのだろうか。記憶を逆再生してみる。どこだ。どこだ。

 そういえば、あの時。

 ──恋だな、そりゃあ。

 知っていた。中小野がのめり込んでいるゲーム実況者が女性であることを知っていた。ということは、ツイッターでしどくろをフォローしたのを見たのか、或いはしどくろに送ったリプライを見たのか。あのリツイートされたリプライ──。

「お前さ」

 宅配ピザのMサイズ相当のボリュームがあるピザを前にした一ノ瀬が、その大きな一切れを豪快に噛みちぎり、もごもごした口調で尋ねた。

「闇アカウントって知ってるか?」

 やみあかうんと、と鸚鵡返しに言う。「闇」なのか、「病み」なのか、わからなかった。何れにしても、ネガティブな語感だな、と思う。

「ツイッターの裏アカウントだよ。限られた人にだけ公開する、な。和瑞も闇アカウントを作っていて、そこではお前のことを中心にツイートしてるんだわ。今日は中小野さんとどこに行った、なにを食べた、とかそんな類のやつな。一昨日、居酒屋で乾杯してる写真が闇アカウントのほうに投稿された。これはつまりお前と飲んでるってことだ。でも俺は『吉祥寺に用事がある』としか聞いていない。あれ? と思って、お前に確認のLINEをしたってわけ」

 ツイッターは設定で非公開にすることができる。アカウントの持ち主がフォロー申請を許可して初めて情報が閲覧できるようになる仕組みだ。非公開アカウントを併用している、という話はよく聞く。ニコニコ動画で活動する中で仲良くなったボカロPの明太鼓はフォロワーを知人に絞った非公開アカウントを別に持っていて、中小野は両方のアカウントをフォローしている。非公開アカウントのツイートは他愛もない話題が多いが、フォロワー数が中小野の倍以上ある明太鼓にとって「普通のツイート」が難しいことは理解できる。利己的だな、という印象だった。しかし、改めて、表では言えないことを言うための裏、と考えると、得体の知れない恐ろしさを感じる。和瑞をたくさん傷付けてきた。その記録が残っているのだ。記録──。

「そのアカウントさ」

「ん?」

「うんこのツイート、ない?」

「ああ、あったな。その乾杯のツイートのあとだ。──お前、知ってたのか?」

「いや、知らないよ」

「ん? まあ、いいや。それでな、『やっぱり駄目だった』って書いてあったんだわ。『やっぱり好きなんだ』ってな」

「なるほど」

 不思議草で中小野が悪戯書きをしたのは和瑞の闇アカウントのほうだった。秘密の非公開アカウント。和瑞は、ばれた、と焦ったことだろう。どの時点でそれに気付いたのか。カラオケで終電を調べるためにスマートフォンを手に取っていた。妙に時間がかかっていたが、あの時だろうか。あの時、告白するしかない、と追い詰められた。その後の行動に謎が多いのはこの時の動揺に起因するのではないか。──いや、変だ。だとしたら、なにも言わずに帰るのは変だ。となると、中小野の家に行くことに関しては深い意味はなかった、或いはもっと──。

「もうひとつ、教えてくれないか」

「教えてほしいのは俺のほうなんだけど……なんだ?」

「僕のリプライのツイートをリツイートしたり、してる?」

「そんなのもあった気がする」

 しどくろに送ったリプライをリツイートしたのは、和瑞だ。

 全てが計画的だったのだ。

 あのリプライを見た瞬間、予感めいたものがあったのかもしれない。女の勘、というやつだ。中小野を一番近くで見てきた女の。焦りはそこから始まっていて、だから一ノ瀬には黙って中小野に会った。最初から普通の飲み会で終わるつもりなどなかったのだ。中小野の家に行ってどうするつもりだったのかはわからない。和瑞の予定は狂ってしまった。やはり最初の推測通り、そこで悪戯書きを見たのだ。最も不自然な行動である無言の帰宅。気が動転した和瑞が飛び出た、と考えれば自然だ。そして空白の二十時間。もしかすると当初の予定では告白するつもりはなかったのかもしれない。いや、おそらくなかっただろう。和瑞は常日頃から突発的に奇異な言動をするけれど、これまで本当の意味で悩まされた経験は一度もない。そういうのを一番嫌うのだ。長い時間、追い詰められ、苦しんだに違いない。

「それがどうかしたか?」

「いや、こっちの話」

「そうだよ、お前の話をしてんだよ。俺にも教えてくれよ、好きな人」

 好きな人がいる、確かにそう言った。しどくろのお喋りが〝脳内再生〟される。こんなにも一人の女性に夢中になったのは久しぶりだ。けれど──。

「好きな人、というのとは少し違うかもしれない」

「はあ?」

 呆れたような、裏返った声を出したかと思うと、一ノ瀬が、どん、と身を乗り出してきた。ドラキュラに十字架を示すようにスプーンを掲げながら、「笑わないでくれよ」と前置きする。

「最近、ニコニコ動画のゲーム実況動画を見てるんだ。しどくろっていう女性ゲーム実況者の。その子が、なんとなく、いいな、って」

「それ、まじで言ってんの? 気持ち悪いやつだな! アニメのキャラクターが嫁とか、アイドルのスキャンダルでCD割るとか、そういうレベルの話かよ! 前に進んでると思ったら、逃げてるんじゃねえか!」

「ちょ、大きな声出さないでくれよ。二〇一六年にその発言はまずいって。石を投げればオタクに当たる時代だ。オタクに辛辣なんだな、一ノ瀬さんって……」

 他の客に聞かれていなかったか、きょろきょろと辺りを見回す。誰とも目が合わなかったことに安堵しながら、「確かにその通りだよ」と一ノ瀬に向き直る。

「会いたいとか付き合いたいとか、そういうのはなくて、憧れ、という表現が一番近いかな。だけど、和瑞は友達として好きなんだ。それに対してその子は女の子として好きなんだよ。この感情に、間違いはないんだ」

「ふざけんなよ。和瑞がかわいそうだ」

「わかってる……」

「わかってねえよ! 和瑞を友達としてしか見られない、それはそれでいいと思う。でもな、一度頭冷やせ」

 一ノ瀬が席を立つ。そのあとを黙ってついていった。エレベーターを待っている間、自分たちが座っていたテーブルをちらと見た。飲みかけのものや食べかけのもので、散らかっていた。


       4


 しどくろ @sidcro・7月31日

 こんびんは。気が付けば七月も終わりですね。

 八月は夏らしいことをして遊びたいと思います。

 やっぱり『ぼくのなつやすみ』ですかね?

 ♥74


 しどくろ @sidcro・7月31日

 しっとり挨拶したのに「こんびんは」って!

 ぷいきゅあ、がんばえー!

 ♥65


 しどくろ @sidcro・20時間

 動画に音フェチというジャンルがあるのですね……!

 料理動画の音が本当に最高で、これから巡回します。

 ペットボトルのお水の音を聞いてる場合じゃない!

 ♥30


 しどくろ @sidcro・6時間

 さっき卵を使った料理を作ったのですが、

 音フェチの動画を見たおかげさまで、ものすごく集中して音を聞いてしまいました。

 カシャコッ(卵を割る音)、トゥルントゥルン(卵を混ぜる音)。

 いい音……! 

 ♥31


 しどくろ @sidcro・11分

 Qしどちゃんって休みの日なにしてるの?

 Aシャツの首口に頭はめてガッハッハー!

 ♥14


 仕事帰りの電車の中、音楽を楽しむことが難しくなってしまった。いつだって電車に揺られていると、なぜだかノスタルジックな哀愁を感じてしまう。昔見たドラマや映画の影響だろうか。しかし、ドラマや映画で物悲しいシーンに電車が使われるということは、そもそもそういうものなのかもしれない。こういう時、それは増幅される。集中力が散漫している。チップチューンが、それこそぴこぴこと鳴っているようにしか聞こえず、中小野はいよいよイヤフォンを耳から外した。今日も各駅停車吉祥寺行きの電車は比較的空いており、iPhoneを手にしていた。ツイッターでしどくろのプロフィール画面を開き、適当にスクロールして過去のツイートに移動し、電車が駅で停車するたびに読み進める、という遊びに興じていた。

 可愛い。一語一句が可愛い。

 これでよかったのだ、と思う。和瑞に対してこの感情はない。強引に和瑞と付き合って破局を迎えたほうが余程悲惨だ。

 しかし、この六日間、和瑞と一ノ瀬と一度も連絡を取り合っていない。毎日が、なにか気まずい空気に帯びている。

「このまま吉祥寺まで行ってしまおうか」

 ため息と一緒に声にする。

 中小野を乗せたまま、電車は井の頭公園駅を出発した。車窓に覗く井の頭公園。ポケモンGOに勤しむ群衆が見えた。


 さて、どちらに出ようか。北口か、公園口か。

 吉祥寺駅の改札を抜け、人波を外れて歩を緩めた、その時だった。

「すみません」

 声に振り返ると、同世代と思しき眼鏡女子が立っていた。──知らない人だ。けれど、その視線はまっすぐ中小野に伸びている。

「はい」

「アクセサリーショップはどこにありますか?」

「アクセサリーショップですか? ここにありますよ」

 僅か五メートル先にあるショッピンセンター、キラリナの扉を指差す。眼鏡女子が「えーと」と言いながらスマートフォンを操作する。

「ピルエットというお店を探してるんですけど」

 わからない。ファッションにそれほど頓着のない中小野はアクセサリーショップとは無縁の生活を送っている。キラリナにアクセサリーショップが何店舗か入っているのは知っているが、店名まではわからない。「見てみましょうか」とキラリナの扉を指差す。

「入ってすぐのところにフロアガイドがあるはずです」

 どうせ暇なのだ。中小野は眼鏡女子を従えてキラリナに入った。


 四階のページに「ピルエット」の文字を見つけ、眼鏡女子に「よかったですね」と指差して見せる。

「このすぐ上の階にありますよ」

「えっ、この上が四階なんですか?」

「はい。ここ三階なんで。──吉祥寺は初めてですか?」

「そうなんです」

「どうしてわざわざ吉祥寺のアクセサリーショップに?」

「友達がそこで働いていて会いにきたんです。──そうだ! お礼になにか買わせてください! 友達もいるので、いいアイテムが見つかると思います!」

「いや、アクセサリーは付けないので……」

「何事にも初めてはありますよね! 行きましょう!」

 新手のキャッチセールスか……? と身構えたが、すぐにその考えを打ち消す。店側が商品を買うのはおかしい。こういう人なのだろうか? 何れにしても、お礼をされるほどのことはしていないし、アクセサリーをもらったところで嬉しくもないし、ここは丁重に──。

「あっ、すみません。ご迷惑でしたか……?」

「そんなことないですよ」

「よかったです」

 断れない性格なのだ。きょろきょろしている眼鏡女子に「あっちです」と声をかける。

「エスカレーター、あっちです」

「すみません」

 手で口を押さえながら、眼鏡女子が恥ずかしそうに笑う。悪い人ではなさそうだ。中小野はエスカレーターのほうに歩き出した。

 ──いいですか、中小野さん。中小野さんは先輩なんですから上手に座っていないと駄目じゃないですか。

 エスカレーターに乗る直前、和瑞の声がよみがえる。先輩男子が上手に座るか、下手に座るか、未だ答えは出ていない。それなのに今、新たな課題を突きつけられたのである。エスカレーターの上に乗るべきか、下に乗るべきか。女性を下に乗せるのは落ち着かないのだが、この場合、案内しているのは中小野であり、先導している者が下に乗るのは不自然だ。どうする。どうする。

 たたたた、と足取り軽く、眼鏡女子がエスカレーターに飛び乗る。

「友達に会うのすごく久しぶりなんですよ!」

「そうですか」

 よくわからない人だけれど、こういう女性が自分には合っているのかもしれない、と中小野は顎に手をやる。

「ゲームばかりして全然会ってくれないので職場に乗り込んでやるんです」

「ゲーム、ですか」

「ニコニコ動画って見たりしますか? そこでゲーム実況をやってるみたいで」

 エスカレーターを昇りきる。すぐ左手にピルエットがある。


 いらっしゃいませ。どうぞご覧くださいませ。


 声。

 知っている声。

 知っている声が聞こえた。

 イングリッシュホルンを連想させる、低く、牧歌的な声。さりとて、女の子らしくないということはなく、いちいち跳ねる語尾があどけなく、可愛らしい。

 しどくろの声が聞こえた。

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