マルゴット・マリー

 室内は雑然としていた。

 足の踏み場も無いほど書物が散らばり、食べた後の食器も片付けずに高く重ねられている。部屋の隅の方には尿瓶が並べられていた。

 俺は尿瓶の方に身体を重ねてノアの視界から遮った。

 ノアはと言うと部屋の光景を見て唖然としている。

 少なくともこの部屋の主が淑女と呼ぶには程遠い人物であることが一目で分かったはずだ。以前にマリーに排便はどうしているのかと尋ねると、窓の方を指差していたことを思い出す。何時の時代の人間だと俺は頭を抱えたものだ。


「この階にはいないな。上に行くぞ、ノア」

 俺がそう言うと、ノアはこくりと頷いて後を着いて来た。

「マリー!」と俺は彼女を大声で呼ぶ。

 返事はない。

 ここから上まで吹き抜けの構造になっているのだから、私の声が聞こえていても可笑しくはない。いや、聞こえない方がおかしい。つまりマルゴット・マリーはおかしい。納得だ。


 上の階につくと、そこには良く分からない実験器具の数々が大きなテーブルの上に雑然と並べられている。目に付いたフラスコの中には深い緑色に濁った液体が入っていた。

 また部屋の角に積まれてある檻の中には灰色鼠が一匹ずつ分けられて入っていた。チュー、チューと鳴いているのか、泣いているのか、判別はつかない。

 そして部屋の中央に実験器具に囲まれたマルゴット・マリーを見つけた。

 彼女は俺たちに背を向けるようにして、椅子の上で胡坐を掻き何かをしていた。

 彼女は一糸纏わず、白色の肌を晒していた。


「何をしているんだ、お前」

 俺がそう尋ねると、彼女は俺のほうに顔を向けずに言った。

「陰毛を剃っているんだよ、リカルド君」

 何を言っているんだ、この女――。俺はもちろん、ノアも口を開けてマリーを見ていた。

 マリーは尚も話を続ける。

「これが意外に難しいんだ。私の大切なものを傷つけやしないか、不安でね。剃刀を持つ手がいつも以上に慎重になっているよ。だから、私の気が済むまで少し静かにしていてくれないかい? 椅子はそこら辺にあるものを適当に使いたまえ」


 そう言ってマリーは剃毛作業を続けた。その彼女の後姿は淑女にとって毒だろう。

 ノアは色々と処理しきれないでいる。

 俺は言われたとおりにそこら辺にある椅子に座った。手に持っていた花をどうしたものかと思案していると、依然、花瓶に差してあげていた百合の花が萎れているのを見つけてしまう。本当に、どうしたものか――。


 俺たちはそこまで長い時間を待ちはしなかった。一度欠伸が出たくらいでマリーは毛の処理を完全に終えたらしい。

 そしてマルゴット・マリーは恥かしげもなく俺たちの方に身体を向けた。

 真っ白の肌を肩から垂れ下がる彼女の銀髪が幾分かそれを隠している。


「やっと終わったよ。私は朝からこれに悪戦苦闘を強いられたわけだからね。いよいよ次のステップだ」

 その口ぶりは楽しそうだ。腰に手を当ててどうだと俺を見て満足げに口元をニヤ付かせている。

 その中でノアがか細い声でマリーに言った。


「あの、マルゴット様、その……。服を……」

「むぅ……。君はリカルド君の妹さんだったかな? あの時はどうもお世話になったね」

「いえ、そんな。私たちの方こそ、マルゴット様に感謝しなければ……。ところで、服を」

「あんなのお安いご用さ。困ったことがあれば、君も是非私を頼るといい」

「あ、はい。分かりました。それより服、服を」

 ノアは何度も彼女に服と言うのだが、マリーは聞く耳を持たない。服という言葉だけ華麗に無視している。とうとうノアが服しか言わなくなると、ノアのことを無視し始めた。


「毛なんて剃って、何をしていたんだ?」

 俺がマリーに聞くと彼女は悪戯な笑みを浮かべて言った。

「私のパトロンは無毛が好みらしくてね」

「お前にパトロンが居たのか。こんな石塔で悠々自適に暮らすことが出来た訳が分かったよ」

「……冗談だよ、君。そんな反応をされると詰まらないじゃないか」

 そう言ってマリーは不機嫌にそっぽを向いた。

 自分で冗談を言っておいて、ウケなければ機嫌を損ねるとはなんと扱いが難しい女だろうか……。嘆きは胸の内に仕舞って、俺は言った。


「で、さっきの質問の答えは?」

 ああ、そうだったと呟いて、マリーは机に広げてあった古めかしく装飾された本を俺に渡してきた。

「骨董市で見つけた魔術書の実践さ。『女神ダゴンの奇蹟』。女の陰毛と魚の血だけで出来るまじないを試そうとしていたんだ」


 そう言って無邪気な子供の様に目を輝かせた。空想に思いを馳せる少女のようで愛らしく見えるが、それが恥じらいのない全裸の女なのだから、血湧き肉踊る蛮族の女と間違えても仕様がない。


「露天商曰く、十四世紀頃に書かれた黒魔術書らしいよ。この書の特徴はダゴンが悪神という扱いでなく、更に言えばぺリシテ人の崇拝する海神としても扱われていない点にある。何と上半身を魚の姿で持つこの神を、豊穣の神として扱っているのだよ。だから載っている魔術やまじないは農耕や漁、出産に関するものばかりなんだ」

 嬉々として語られるその言葉に俺はぴんとこない。魔術もそうだが、宗教や信仰に関しても無頓着な俺にはダゴンもペリシテ人も馴染みがない。

 ただ興味が無いわけではないので、質問を続けた。


「その呪いをすると、一体何が起こるんだ?」

「子宝に恵まれるらしい」

 お前は子供を産むのか――という言葉を呑みこむ。

「……信じるのか、その話?」と代わりの言葉を口にした。

「いや、信じやしないさ。でも物は試しと言うだろう」

 その即答に俺は呆れる。そもそも子種の当てはあるのか?

「徒労に終わると思うがね」

 俺がそう口にすると彼女は小さく笑った。

「それでも構いはしないさ。それに十四世紀に書かれたかどうかも眉唾だからね」


「騙されたのか?」

 俺が率直に言うとマリーは唇を尖らせて、子供の様に抗議する。

「違いますー。ノリで買ったんですー」

 そして頬を膨らませながら器用に喋り始めた。


「この魔術書のタイトルが女神ダゴンと書かれているだろう。ダゴンの一般的な姿は男神だ。それが女神と解釈されることも偶に見られるようになったのは、十七世紀のキルヒャーの影響が大きいと私は思っている。だから一つの可能性として、キルヒャーの著作に出てきたダゴン像に影響を受けて描かれた魔術書であると考えている。つまり十四世紀頃のものでなく、十七世紀後に書かれたものということだ」

 なるほど――と俺は頷く。けれどもそれだけでは白黒はっきりさせることは出来ていない。


「でも、十四世紀ごろに書かれたものである可能性も捨てきれないだろう。その著者が独自にダゴンを女神と解釈したのかもしれない。そっちの方が面白いと思って。それが完全に否定されなければ証明とは言えないな」

 魔術書なんて書く人々は、男神を女神にするくらいの不遜も働くだろう。

 俺はそういう偏見で語ってみると、マリーはそれに頷いて見せた。


「君の考える動機はあれだけれど、私だって十四世紀に書かれたものでないと完全に否定しているわけではない。その時代、黒死病が猛威を奮い、人々の数が減った。それに農作物も不作が続いていたからね。信仰する神が助けてくれないのだから、悪神に頼ろうとして魔術を生み出したことも頷ける。それに豊穣の神は女神として書かれることも多いから、それに倣ってダゴンを女神としたのかもしれない。更に言えば魚は多産だからね。ある意味では、豊穣と呼べる」


 その話を聞いていると魔術というものは神への信仰の様にも思えた。

 神から魔術。その信仰の対象が移っただけだ。敬虔なる信徒には失礼だが、どちらも胡散臭い。少なくとも俺の命を救ったのは神でも魔術でもなく、マリーだった。

 俺がマリーの話に聞き入っていると、隣にちょこんと座っていたノアが口を開いた。


「服! 服を着てください、マルゴット様!」

 大にして轟いた声にマリーは目を瞑った。その矛の先は俺にも向く。

「お兄様も! どうして平然とお話されているのですか! 淑女が裸体を晒しているのなら、その身体に上着を掛けてあげるのが紳士というものなのでは!」

 眉間に皺を寄せてノアは怒る。

 赤毛の我が妹は怒っていても可愛らしく見えるので、怒られている感覚が薄い。それに目の前の少女が淑女と呼べるのなら、俺は上着を掛けてやっている。しかしマリーは淑女ではなく変わり者であり、自ら裸体を好きで晒しているのだから――というよりも晒しているという自覚すら持っていないのだから、妹から怒られる謂れはない。


「君の妹君はパワフルだね。君が静を体現するなら、彼女は動を体現している。バランスの取れた兄妹だ」

「それはどうも。だが、いい加減に服を着ろ。さもないと俺の妹がお前の耳元でがなり立て続けるぞ。哀れなお前は二度と瞼を開くことはないってモノローグも添えてやる」

 隣に居るノアは鼻息を荒くしている。

 マリーはそれを見て深遠の淵から噴出したかの如く、溜息を吐き出した。


「今は夏だよ、君ら。布を巻いて生活なんてすると暑さで死んでしまうよ」

「別に石釜の中に居るわけでもあるまいし……」

「それに着たり脱いだりするのも面倒くさい。汚れたら洗わなきゃいけないし」

 文明人としてそれはどうなんだ……。原始人でも植物の葉や動物の皮で隠すべきものは隠していただろうに――。寧ろ文明人であるが故に恥じらいもなく全裸を晒せるのかも?

 俺は頭を降った。今の考えを口にしてしまえば、妹の可愛らしい顔が益々赤くなってしまう。


「それよりも、君の持っているそれはどうしたんだい?」

 その言葉で俺が片手に花束を握っていることを思い出した。俺は紅く棘のある実をぶら下げた稲穂のような植物を彼女の前に差し出した。

「オルカとベルカから、お前に渡すように頼まれた花だ。黴臭い塔には花を添えるのが良いだろうと二人が」

「これが、花?」とマリーが珍しく眉間に皺を寄せた。

 花になんか興味の無い少女のはずなのに、皺を作ってまで注目するのは不思議に思えた。

 マリーの言葉に頷きながらノアは首を上下させる。

「やはりそう思いますよね。花と呼ぶには毒々し過ぎます。それに華麗でもなければ可愛げもありません」

「うむ。花でなく、草本と呼ぶ方が適切だろう」

 俺は握っていた花を見る。そうか――これ草なのか……。

 俺は握っていた草から目線を外してマリーに尋ねた。

「で、いるのか?」

 彼女はじっくりとその草を眺め、実の部分を指で摘むと口を開いた。

「机の上にでも置いてくれ給え。花瓶に差す必要なし。後で使う」

 そうですか――と俺は実験器具を避けるように、その草束を置いた。


「とにかく、服を着るために上がるぞ」

 ハッとマリーの顔に絶望の色が浮かぶ。

「いや、なんでそうなる!」

「お前が話を逸らす為に俺の持ち物にケチを付けたことくらい察しはつくからな」

 マリーは勢い良く首をぶんぶんと横に振った。彼女の長い髪の毛が鞭のように振り舞わされる。

「わ、私がそんなことするものか! なんで君がそんなものを持っているのか、ただ気になっただけだ! 本当だぞ! あわよくばとか思ってない! これっぽっちもだ!」


 あー、はいはい。俺は気にせずにマリーを抱きかかえる。女性にしては背丈の高い彼女だが、身体は細く、軽かった。しかし腕の中で暴れられると鬱陶しくは感じる。

 俺の後にノアも着いてきた。妹は不安そうな表情を浮かべている。

「あの、お兄様。それは強引なのでは?」

 ノアはまだ、マルゴット・マリーを淑女の括りで見ようとしている。

 それに俺は首を振った。


「強引にやらないと、太陽が西から昇るのを待つ嵌めになるぞ」

「服、服着るから! 降ろせ! 解放しろ!」

 顔を紅くして発する抗議の声は無視。恥らうのが遅すぎたなと俺は顔を顰めた。

 上の階に上がると天幕が垂れた大きなベッドが一つ。その脇に衣類と書物が文字通り山のように積み重なっている。

 俺は喚くマリーをベッドの上に放り出して、着ることの出来そうな服を山の中から探した。


 服と言っても俺が手にしたのは下着だった。キャミソールとドロワ。部屋着と呼ぶには薄すぎるが、これくらい薄くないと着せるのが大変だ。彼女はよく暴れよく噛み付くのだから。

 俺のチョイスにノアは不服そうだ。けれども裸でいるよりはマシと判断したのだろう。妹はドロワを持ってじりじりとマリーに近づいていった。


 マリーはシーツに身を隠して目尻に涙を浮かべている。

 「……いけないことをしている気分です、お兄様」

 「気のせいだ」

 俺は無慈悲に妹の言葉を否定して、暴れ始めたマルゴット・マリーに下着を身に付けさせたのだった。

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