第27話 朝

 靴を失っているグレナドーラ姫を抱き上げ、マルタレクスは歩いた。通路の灯火はどれも大きく揺らぎ、燃え尽きようとしていた。


 グレナドーラ姫の膝裏に、腰に、当てた手が熱い。姫の腕が絡み、姫の吐息がかかる首筋が熱い。マルタレクスの頬は紅潮していた。それを隠そうとも思わなかった。姫の頬も薔薇のようだった。


 これは凱旋がいせんの行進だった。だからマルタレクスは胸を張り、顎を上げて歩いた。


 通路の突き当たりは扉だった。先を行く者がそれを開け放つ。


 外は、黄金色だった。


 庭園に面した回廊。木々の上に広がる空は見る間に明るさを増していく。夜が明けようとしていた。


「グレナ!」


 弾けるような少女の声が聞こえた。近づいてくる二つの人影。


「アルティ!」


 呼び返すグレナドーラ姫の体をマルタレクスは下ろした。彼女も駆け出す。


 二人の少女は互いに飛びつくように抱き合った。


「グレナ、グレナ、ああ、よく無事で……!」

「アルティ……!」


 もう一人は焦ることなく歩いてくる。マルタレクスもゆっくり歩を進めた。


「聞きましたよ、


 間近まで来たところで、リーアヴィンは悪い笑顔で言った。マルタレクスもにやりと笑い返す。


「耳が早いな」

「そりゃあ、それが私のとりえですから」


 小さく声を上げて友人どうし笑い合った。そしてマルタレクスは、笑みを収め真面目な顔で言った。


「お前には、助けられた。礼を言う」

「……まあ、アルティドーラ殿が危険だと嫌がるコルンヘルム王子殿下を、説得するのが一番大変だったんですがね」


 見ればアルティドーラは華麗なドレス姿だった。頭の後ろにはけられたヴェール。彼女が囮として「逃げたグレナドーラ姫」のふりをしたのだろう。従姉妹たちは互いの無茶をとがめ、泣き、そして泣きながら笑い合っていた。


 サアッと光が彼らを照らした。木々の向こうから日が昇り始めた。まぶしさに、マルタレクスは目を細める。


「マルスさま」


 呼ばれて振り返った。グレナドーラ姫が彼を見ていた。


 泥をかぶったように汚れ、あちこちが裂けたドレス。崩れ、乱れきった髪。顔も手も靴のない足先も、姫君としてありえないほどにみすぼらしく汚れ果てていた。けれど、彼女の姿は炎のように輝いて見えた。金と緑の、最上の色彩。


 濡れた彼女の瞳が夜明けの光を受けてきらめく。朝露を乗せた若葉が、陽光に生き生きと広がるように。


「ありがとう……ございました」


 そう言って。彼女の唇が、ほころんだ。堅いつぼみがゆっくりと開いていく。今初めて咲いた花のように、彼女は笑った。彼のために花が開いた。


 マルタレクスは、その彼女の足下にひざまずいた。彼女の手を取る。


「私、マルタレクスは」


 彼は彼女を見上げ、彼女は彼を見つめる。


「グレナドーラに、求婚します」


 そっと、彼女の手の甲に口付ける。彼女の手が彼の手の中で震えた。


「私、グレナドーラは」


 彼女の声が彼に降り注いだ。彼は顔を上げる。


「マルタレクスのもとに、嫁ぎます」


 マルタレクスは立ち上がった。そして愛しい姫の体を、力一杯抱きしめた。


 姫は驚いたようだったが、すぐに、彼に身を任せた。彼女の手が彼の胸に、彼女の頭が彼の肩に。


「よかった、本当に、よかった……」


 アルティドーラの涙声が聞こえる。リーアヴィンの控えめな、困ったような口笛も聞こえた。


「この剣にかけて、誓いましょう」


 マルタレクスは腕の中の姫へ囁いた。


「あなたを生涯、愛します」


 朝日が惜しみなく彼らを照らし出していた。



 グレナは鏡台の前に座り、侍女に髪をかれていた。東からの日光が鏡に、そして壁の緑のタイルに反射し輝いている。その日も穏やかな朝だった。


 侍女の手で髪が結い上げられる。後頭部に複雑に編んでまとめられ、残りは背に流される。その上からヴェールが丁寧に被せられた。


 鏡台の鏡には、緑と白の美しく上質なドレスを身に着け、髪を結いヴェールを被った、一人の王女が映っていた。


「これでよろしいでしょうか、グレナドーラ王女殿下」


 侍女が訊いてくるのに「ええ」と頷く。文句の言いようもなかった。


 グレナが立ち上がった時、扉が開いてアルティが入ってきた。やさしい笑顔。


「おはよう、グレナ」


 アルティの着ているのも緑と白の服。お揃いなのがグレナにはうれしい。


「おはよう、アルティ」


 グレナも晴れやかに笑って、従妹と手をつないで寝室を出た。


「今日は気持ちのいい天気ね」

「うん、本当に。……ね、今日はバルコニーで朝食を食べたいな。一度そうしてみたかったの」


 それはすてきな案だわとアルティがにっこりと言うと、グレナが指示を出す前にさっそく侍女たちが動き出した。


 侍従の手でバルコニーにテーブルと椅子が用意され、侍女たちがその上に布やクッションを置く。グレナとアルティは、ただ居間のソファで座っているだけでよかった。


 皿が並んでいき、料理も運ばれてきた。そして従姉妹たちは席に着く。給仕が始まる。


 南に開けたバルコニーはかすかな風が通り抜け、朝の新鮮な空気に満ちていた。眼下には一面に花の咲いた庭が広がっている。その向こうにはやはり花の咲く木々。


「おいしい!」


 うふふ、と従姉妹たちは笑いあった。


「外で食べるって、こんなに気持ちいいのね」


 侍女や侍従も笑顔だった。


 朝食を終えても、二人はそのままバルコニーに座っていた。侍女たちは下がり、衝立ついたての陰に控えている。


「やっと……慣れてきた、かも」


 風に吹かれながら、ぽつりとグレナは呟いた。


 アルティが立ち上がり、自分で椅子をグレナのすぐ隣に移して、また座った。そばに従妹が来てくれたのがうれしくて、グレナはちょっと彼女にもたれた。従妹もグレナにもたれる。花の香りが風に乗って届いた。


 室内と同じくバルコニーの手すりも床も、カルメナミドの象徴、緑のタイルで彩られていた。王室の者が暮らすのにふさわしい部屋。多くの侍女や侍従が控え、何でも手助けしてくれる環境。――王室の者が暮らすのに、ふさわしい待遇。


 グレナにとっては今更とも言えた。けれどこれが兄や父のせめてもの思いやりなのだと、アルティにくり返し諭されて、ようやく徐々に受け入れられるようになっていた。


「ノルフィージャに行ったら……どうなるのかしら」


 呟きがまたこぼれる。従妹のやさしい笑顔が返ってきた。


「あなたがあなたのままでいれば、大丈夫。何も変わらないわ」


 幼いころから変わらないアルティの笑顔。その笑顔がいつもグレナに勇気をくれた。


 グレナは従妹の手を取った。従妹も彼女の手を握り返した。


「あの、ね……」


 ゆっくりと、グレナは口を開いた。花の香りの風がまた吹き抜けた。


「私は……ノルフィージャに嫁ぐ、けれど……」


 従妹のようにやさしい花の香り。それをグレナは胸一杯に吸い込む。


「アルティは……一緒に行ってくれるの……?」


 サラサラと木々の葉がそよぐ音が聞こえた。従姉妹たちは互いの手を握っていた。


「私は……」


 アルティのやさしい声。


「ノルフィージャには、行かないわ。カルメナミドに、残る」


 グレナの胸が突かれた。息が、止まる。


「……アルティ……」


 グレナの目から、涙があふれだした。


「アルティ、アルティ……」


 ふわりと従妹の腕がグレナの体を包んだ。まるで昔、母がグレナにそうしてくれたように。


 どうしようもなくただ涙がこぼれていく。そんなグレナの耳にアルティがそっと囁く。


「私たちはもう、悪意におびえる子供じゃ、ないから。離れて過ごしても、違うベッドで休んでも、いいから」


 やさしいアルティ。従妹の腕は、体は温かい。ずっとグレナのそばにいてくれた温かさ。


「あなたは私を守ってくれた。私もあなたを守ってあげた。でももう……終わりにして、いいのだから」


 母であり、姉であった、グレナの従妹。


「愛しているわ、グレナ、私の従姉。でも、あなたを愛してくれる人は、私以外にもいる。大勢いる」


 愛していた。誰よりも愛していた。グレナにはアルティだけだった。世界には二人だけだった。


「だから私たちはもう、お互いの手を……離すべきなのよ」


 けれど世界は変わり始めていた。マルタレクス王子が再びグレナの前に現れた時から。彼が剣を取って、駆けてきた時から。彼が、世界にひびを入れ、開いた。


「ね、あなたの笑顔を見せて?」


 アルティがグレナの顔をのぞき込んだ。アルティも泣いていた。グレナは必死で笑おうとした。


「大好きよ、アルティ……」

「私も大好きよ、グレナ」


 緑の光が満ちる中で。従姉妹たちは、不幸で幸せだった世界に別れを告げて、それを壊した。

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