第17話 N大学史学会例会

 朝から清々しい青空が広がっている。

 今日は、例会の当日だ。まるで受験の日のように、朝から妙な緊張感とやる気がみなぎっている。

 大学へと歩きながら、この道もいつもとは違って光り輝いて見えた。

 颯爽と歩く私はきっとデキる女子に見えているに違いない。


 例会の一時間前に、先生の研究室に行く約束だ。

 ちょっとまだ早いけど、研究室のドアをノックすると、

「はい。どうぞ」と先生の声がしたので、「失礼します」と言いながら、ゆっくりとドアを開ける。

 研究室を見て、目を丸くした。

「啓一くん!」

 そこには啓一くんも来ていたのだ。

「よっ」と言いながら手を挙げる啓一くんに、ちょっとドギマギしていると、先生が、

「あれあれ。二人は仲がいいのかい?」

といいながら、奥のデスクから書類を持ってやってきた。


 打合せ用の4人がけのテーブルで先生と向かい合って座る。

 先生は、私のレジュメを手にしながら、

「よくできてるよ。だから自信を持って発表すること」

「はい!」

「それとね。京子さんはこういう発表は初めてでしょ? 質問や指摘をされたら、まず感謝すること。それからわかることは答える。わからないことは「今後の研究課題です」と言うんだよ」

「はい!」

 私の元気な声を聞いて先生は微笑むと、啓一くんに、

「ふふふ。まるで君が最初に発表した時とそっくりだね」

と話しかける。啓一くんは恥ずかしそうに頭をポリポリかいて、

「ま、まあ。やっぱり最初は緊張しますし」

という。

 へぇ。啓一くんも発表した時は緊張したんだ……、って今は他人事じゃないのよね。


 先生が、

「レジュメは院生に頼んで刷ってもらって、もう講堂に運んであるよ」

「あ、ありがとうございます」

「……まだ緊張してるみたいだね。大丈夫。例会だから、もしもの時はフォローするから」

 先生の励ましの言葉に、元気に、

「はい!」と言うと、先生はおどけて、

「私じゃなくて啓一くんがね」

といった。

 とたんに「ぶっ」と吹き出す啓一くんと私。

 すぐに三人で笑い合った。


 笑いが収まると、先生が、

「ふふふ。これで緊張は収まったかな。じゃあ、そろそろ行こうか」

といいながら立ち上がった。

 先生につづいて私と啓一くんが並んで歩いて行く。いよいよ本番までもう少しだ。


――――。

 例会がはじまった。

 私は発表者なので、会場の右の一番前の席に座っている。後ろには次の発表の丸岡秀夫さんという院生が座っている。

 会場は40人くらいの教室の大きさで、それほど広くはない。

 参加している会員は、どうやら20人ほど。それも院生と先生がほとんどのようだ。

 とはいえ、前に座ると緊張で胸がドキドキして、とても後ろを振り向く余裕はないよ。


「――というわけで、一人目は、まだ学部生だから甘いところもありますが、私の演習の授業でなかなか面白い着眼点をしてくれたのが北野京子さんです。二人目は院生の丸岡くん。では、早速、北野さん。よろしく」


 とうとう、この時が来ちゃったよ。

「はい」と返事をして、私は教壇に立って振り向いた。

 院生や先生方の視線が、びしっと私に集中する。ううう、やっぱり緊張するわ。


「学部生の北野京子です。今日はよろしくお願いします。――まずはお手元のレジュメの確認からいたします。本文レジュメがA4で8ページ。史料レジュメが同じくA4で4ページです。

 それでは始めさせていただきます」


「はじめに問題提起と致しまして、この『上杉本洛中洛外図屏風』は永禄8年ごろの成立といわれております。描かれている景観の年代については諸説ありますが、本発表では、特に描かれている法華宗寺院について、なぜ6ヶ寺ものが描かれているのか。その理由を検討いたします」


 ――緊張もなくなり、やがて、私は無心で内容を発表し続けていた。


「さて、永禄7年には、京に存在する法華宗本山寺院は15ヶ寺でありますが、ここには6ヶ寺のみが描かれています。『上杉本』は絵画資料であるということを考えますと、ここに描かれた6ヶ寺には描かれるべき理由があったと考えられます」


 ――研究会に参加し、都立中央図書館に連れて行ってくれた啓一くん。


「このうち、本国寺、本能寺、妙顕寺の3ヶ寺については、『本能寺史料』に収録された六角承禎状により、諸寺代、つまり、他の本山寺院の代表として見られていたことがわかりました」


 ――夜の公園で私を守ってくれ、この発表にも何度も協力してくれた啓一くん。


「なお、永禄7年に、法華宗では連合組織として「永禄の規約」を結んでおり、このことが瀬田氏による――」


 ――私の家で発表を聞いてくれて、おいしそうに夕ご飯を食べてくれた啓一くん。


「改めまして『上杉本』を見ますと、妙覚寺は諸寺代3ヶ寺同様の、堀や塀のある強固な作りとして描かれており、事実、この後、織田信長、信忠の宿所として使用されております」


 ――見ていて。これは今まで、二人で調査してきたその成果よ。


「残る2ヶ寺について、他の寺院より小さく描かれており、重要性は一段低かったものと思われます。そこで、依頼主の足利義輝の視点に立つために、義輝の近辺を調査しましたところ、非常に近衛家との関係が深い。いや、母も妻も近衛家出身ということで、むしろ近衛家の将軍と言ってもいいほどの緊密な関係があったことがわかります」


 ――必ず、この発表をやり遂げてみせる!


「そこで記録類を調べましたところ、この頂妙寺、本満寺の2ヶ寺は、近衛家の菩提寺ともいえるくらいに厚い帰依を受けていた寺院であったことが判明しました。……つまり、この2ヶ寺は義輝自身・または近衛家有縁の寺院として描かれたのではないでしょうか」


 そして、遂に、私の発表時間が終了した――。


「私の発表は以上です。諸先生や諸先輩方のご指摘、ご指導をよろしくお願い申し上げます」


 やりきった充足感があるけれど、まだここで緊張を解くわけにはいかない。

 司会の吉見先生が拍手をすると、他の参加者も拍手をしてくれた。

 私に向けられた拍手に照れながらも、これが二人の成果だと誇らしげな気持ちで啓一くんを見る。

 啓一くんもうんうんと何度もうなづきながら、拍手をしてくれている。


「さてと、只今の発表は論旨がわかりやすい発表であったと思います。『上杉本』の法華宗寺院の描かれた理由。他の本山寺院十五ヶ寺を代表する諸寺代の3ヶ寺。後に織田家の宿所となるほど堅牢な妙覚寺。そして、依頼主である将軍義輝と非常に近しい摂関・近衛家の帰依を受けた二ヶ寺というわけですね。

 それでは、皆さんの方からご質問やご指摘、あるいは事実確認でも結構ですから、何かございますか?」


 吉見先生がそう言うと、早速、一人の先生が手を挙げた。

「大変結構な発表をどうもありがとうございます。学部生でこれだけの発表をされるんでしたら、院生の諸君にも非常に刺激になったと思います。

 ……私からは、一点質問を。『上杉本』については、今谷さん、瀬田さん、黒田さんの勝れた論考がありますね。その中で、将軍義輝が依頼主として描かせたわけだけれども、そもそも制作理由は、上杉謙信に上洛を促すために贈ることにあったといわれています」


 私はうなづいた。うん。それは読んでいて知っている。


「そこで、今の発表では、理由として3つあったわけですが、それを踏まえて、将軍義輝は上杉謙信にどのようなメッセージを込めていたのかということをお聞きしたいのですが、いかがですか」


 この6ヶ寺についてのメッセージ?

 謙信は戦国武将。その武将の謙信に将軍が送ったメッセージ。

 私の頭の中で6ヶ寺の名前と図像がぐるぐると回り出す。

 諸寺代、本能寺、本国寺、妙顕寺、堀、塀、宿所、妙覚寺、近衛家、母と妻、頂妙寺、本満寺……。

 将軍と戦国武将、公家と将軍……。

 そうか。もしかして――。


 私は顔を上げた。

「ご質問ありがとうございます。今、その点に気がつきましたので、すぐに満足のいく答えは出せないかと思いますが、ぼんやりとした解答で失礼します。

 この『上杉本』全体との関係を見てみますと、当時の現実の京には存在しなかったものも描かれております。瀬田氏は公方の構想と表現しましたが、私もその見解に同じく、公家、武家、寺社家の調和の取れた洛中洛外の姿を描き、それを義輝自身の目指す治世として謙信に示す。そういうメッセージがあったのではないかと考えております。そして、その中にこれらの寺院もあったと考えております」


 すると先生は、

「なるほど。うん。答えにくい質問で申しわけなかったですが、わかりました」

と答えてくださった。


 つづいて一人の院生が手を挙げて、

「そもそも論になってしまうのですが、一つ一つの図像、つまり建物が何の絵であるのかを特定するのに、脇に書き込まれた筆の文字を根拠にしていると思います。ですが、その文字は、後に書き加えられたものという可能性はありませんか? そうすると、論の土台がまるっきり崩れてしまうんですが」

とするどい質問をする。


 ううむ。それはまったく考えていなかったわ。いい答えが全く浮かばない。でも……、


「はい。ご指摘ありがとうございます。申しわけありません、その視点で検討したことがなかったので、今後の研究課題とさせてください。ただ、今谷さんや瀬田さんたちも、その文字を信用して論じておりましたので、そのまま踏襲して考えていました。今後、検討したいと思います」


 そこで吉見先生が、

「そろそろ、時間なのですが、司会から一点。確か瀬田さんはこの寺院について、代表的門流の寺院と書いていたと思います。北野さんはそれと別の見解を論じたわけですが、その上でなお、結論的に見れば、実際にこの6ヶ寺が代表的門流寺院でもあったとは考えられませんか?」

と最後の最後で大きな質問をしてきた。


 ううむ。確かに、私は瀬田さんの説を真っ正面から検証せずに、自説を述べてしまった。私の示した3つの理由で選ばれた6ヶ寺が、そのまま代表的門流寺院でもある可能性。やはり、これもきちんと検討しなくてはならなかったと思う。


 素直に私は、

「はい。ご指摘ありがとうございます。瀬田さんの説の再検証についてはきちんと行ってはいなかったので、それも今後の検討課題をさせていただきます。ありがとうございました」

と頭を下げた。


 吉見先生はうなづいて、

「うん。じゃあ、他に質問がある方は後で直接ご本人にお願いします。それでは北野さんの発表を終わります」

と言うと、会場の人が一斉に拍手をしてくれた。


 はあぁぁ。終わった。そう思いながら、私は一礼をして、緊張から解放されてちょっとふわふわした気持ちで、慌ただしく自分の席に戻った。

 入れ替わるようにして次の丸岡さんが登壇し、吉見先生の司会のあとで発表を始める。


 私は自分の発表が終わった安堵で、申し訳ないけど、丸岡さんの発表が全然耳に入ってこなかった。

 終わった――。もうそれだけで、ほっとしている。


 その時、ブルルと、マナーモードにした私のスマホが振動していた。

 そっと隠れるように確認すると、啓一くんからだった。


 ――お疲れ。立派だったよ。……終わってから話したいことがあるから、時間を空けといて。


 私はニンマリしながら、返信を打つ。


 ――うん。ありがとう。わかったわ。……あんまり遅くなるようだった、送ってよね。


 すると、すぐにまた返信が来る。


 ――了解。

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