第9話 描かれているもの、描かれていないもの

 結局、河内さんの著作を借りてきて、『南風堂』で一人静かに読みふけることにした。

 啓一くんはスマホにメールが来て慌ただしく帰って行ったし、キッコもいないから一人でだけどね。


 目の前のテーブルには、注文したブレンドコーヒーと私のノート。

 私の書いた文字がずらずらと並んでいる。

 達筆でも、女の子文字でもなく、どちらかといえばシンプルなゴシック体みたいな文字。

 よく読みやすいとは言われるけれど、綺麗な字だねとは言われたことがない。


 河内さんの本は元々どこかの講演か講座をしていた時のものらしくて、すごくわかりやすかった。

 特に気を引いたものは、天文年間に発生した法華一揆の記述だった。


 当時の京では人々の間に法華宗が広まっていて、とうとう比叡山と対立してしまう。最初は近江六角氏が両者の調停をはかっていたが、やがて叡山側にくみするようになった。

 法華宗の寺院は堀や壁があって要塞のようだったらしく、人々がお寺を拠点に比叡山の僧兵と戦ったようだ。

 今でこそ宗教戦争は海外でしか聞かないけど、中世のこのころは国内でも起きていたわけで、そういえば江戸時代に入ってからも天草の乱があったわね。


 ともあれ、よく戦った京の町衆も、比叡山と結んだ近江六角氏の軍勢によってついに負けてしまい、お寺はおろか下京の地域が焼き払われてしまったという。


 その後、法華宗の洛中への立ち入りは禁止となったが、それも数年の後に還住の綸旨によって許されることとなる。

 その影では法華宗が六角氏を仲介役として、比叡山と仲直りをしていたようだ。


「あれ?」

 ページを繰っていると、途中で見覚えのある名前が出てきた。


 「本国寺

 本能寺

 妙顕寺

  諸寺代」


 まちがいない。リストにある3ヶ寺だ。

 どうやら法華一揆は、天文の戦乱を受けてそれまでの武力外交から贈り物外交へとシフトしたようで、上の3ヶ寺が六角定頼へ贈り物をしていたらしい。

「諸寺代?」

 これって他のお寺の代表って意味だよね。


 疑問に思いつつも読み進めていくと、ちょうど『上杉本』の成立のころに興味深い出来事があったことを見つけた。


 法華宗と一口にいってもその中には幾つもの門流があって互いに対立をしていたらしいが、各門流間の和睦運動があったというのだ。

 そして、その運動が永禄7年に実を結び、これが後に「十六本山会合」と呼ばれる連合体が組織されたらしい。


 その規約が結ばれたのが、永禄7年。――『上杉本』成立の前年だわ。


 そして、その15、6もある寺院の対外交渉窓口が、本国寺・本能寺・妙顕寺の3ヶ寺だった可能性が高いということになる。

 ……もしかして、これが『上杉本』に描かれている理由なのではないだろうか。


 ふうぅぅと長めに息をはきながら、いったん本を閉じる。

 思いの外に集中していたみたいで少し肩が凝ってしまった。


 肩をほぐしながら窓の外を眺めると、小学生たちが仲良く下校している姿が見えた。

 カラフルなランドセルが見え隠れしながら通り過ぎていくのを見ていると、自然と頬がゆるんでくる。


 ブレンドコーヒーを一口すするが、さすがにもう冷たくなってしまっていた。

 ここの珈琲はおいしいのに、ちょっと勿体ないことをしたかな?

 そう思いつつ、珈琲のお代わりをお願いしようと顔を上げると、ちょうどよく彼女さんスタッフと目が合った。


 ニコニコと幸せそうな表情をしている彼女を見ると、なぜか私も幸せな気持ちになる。

 おかしいなぁ。いつもはうらやましいのに。

 やってきた彼女さんスタッフにお代わりをお願いすると、

「はい。かしこまりました。……頑張って下さいね」

と言われる。

 あはは。彼氏から何かを聞いたのでしょう。にっこり微笑んで、「ええ。ありがとうございます」とお礼を言うと、一礼して厨房の方へと去って行く。


 さてと、気を取り直してノートを見直そう。

 リストにある寺院の名前のうち、本国寺、本能寺、妙顕寺に三角マークを記す。

 そして、その横に河内さんの本のページを記して「諸寺代」と書き添えた。

 典拠となる史料は、卯月十四日の六角承禎の礼状。『本能寺文書』と呼ばれる書籍に収録されているらしいから、今度はこれを探さなければいけない。


 本能寺かぁ……。織田信長が明智光秀の急襲を受けて命を落としたお寺。高校生の頃までは名前までしか知らなかったけど、法華宗のお寺と知ったときは新鮮な感動があった。

 まだまだ勉強が足りないなぁと思いしった時だった。そんなことを思い返しつつ、再び『上杉本』の図録を眺めることにした。


 カランカラン。

と音が鳴り、なんとなくデジャブを感じながら顔を上げると、入ってきたのは啓一くんではなくキッコだった。

 彼女さんスタッフに一声かけてから、私の向かいに座る。

「ふう。ようやく指導が終わったわよ。疲れたぁ」

と言いながら、イスに背中を預けてぐったりするキッコに「お疲れさま」と言う。


 しばらくして、私のブレンドコーヒーのお代わりと一緒に、キッコの珈琲とチョコレートケーキがやってきた。

 早速、ぱくりとキッコが一口食べて、

「んん~。おいしい」

と頬をゆるませている。

 その様子が可愛らしくって、思わず微笑んで、

「もう。キッコったら可愛いなぁ」と言うと、

「そうかな。私的には京子の方が可愛いと思うよ。……こう、手助けせずにはいられない。みたいな」

 意味ありげに言うキッコに首をかしげながら、

「やだ。そんな男性いたら惚れそうだわ」

と言うと、キッコはいきなり吹き出した。

「あははは」


 あわてて、「キッコ! ちょっとここはお店だよ!」と止めさせようとする。

 幸いに、店内に他のお客さんがいなかったから良かったけど、厨房のマスターやスタッフの皆さんが私たちを見ていた。

 こっちを向いて座っているキッコはまるで気がついていない。

「だってさ。京子ったら。あなたにはもう手助けしてくれる人がいるじゃない!」

 や、やめて~。みんな見てるよ!


 あわてて立ち上がって、ペコペコと厨房に向かってお辞儀をすると、スタッフの皆さんが一斉に笑い出した。

「あら、やだ。京子、ごめんね」

としれっというキッコに「もう!」と怒りながら、イスに座る。


「私と啓一くんはそんなんじゃないんだからね」

と言うと、キッコは、

「うん。私は別に啓一くんとは言っていないわよ」

とニヤリと笑った。


 その黒い笑みに、私の顔に血が上り頬が赤らんでいるのが自分でもわかった。


 ――うう。なんだか今日のキッコはいじわるだ。いじわるキッコだ!


 落ちついてきたころに、キッコは遠くを見るような目をして、

「でもさ。京子。私はいいと思うわよ」

と突然シリアスになる。

 いいって、何のこと? と思う私にキッコが話を続ける。

「なんだか啓一くんのことを話す京子が楽しそうだし。まあ不器用なところがあるけれど、私は応援するよ」

「だから、そんなんじゃないって。啓一くんだってそういうつもりじゃないと思うよ」

「え~。そうかなぁ」

「とにかく、その話はおしまい!」


 微笑んでいるキッコが珈琲を一口飲んで、

「……ね。京子」

と改まった口調で言う。

「私思うんだけど、あなたの研究じゃないけどさ。……見えるものだけがすべてじゃないと思うよ」

 キッコの顔を見ると、真剣なまなざしで私を見ていた。

「目に見えないものを信じてみるのもいいんじゃないかしら?」


 見えないもの、か……。

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