15 会う理由がなくなりました

ねぇ……」


 自宅のベッドでゴロゴロとしていた上原は、電話を切った後、頭を掻きながら起き上がる。

 そして冷蔵庫へと向かうと、遮光フィルムで厳重に保護してあるペットボトルを取り出した。

 それを手に、おもむろにパソコンを立ち上げると、検索窓に「薬品 成分分析」と入力する。そしてヒットしたのは国民生活センター。どうにも、犯罪臭のしない健全そうなサイトに不安を覚える。一応URLをメモ帳に控え、さらに検索を続けると、ある鑑定センターにたどり着いた。

 科学分析を一般人からも受け入れている。鑑定例を見ると、ワイシャツの口紅から浮気の証拠を得る、などという、結構俗な鑑定もやってくれているようだ。サイトをさらに読み込んでいると、酒に混入された薬物を調べるなどという例も書いてある。一瞬、気分が高揚する。だが、問題は料金だった。

 三十万という料金に流石にため息が出る。ボッタクリというわけではないのだろうけれど、それにしても高い。


「これはさすがにきついな」


 いざという時のための貯金は一応あるけれど、だとしてもぽんと出すには躊躇う金額だ。


(分析する気か?)


 上原はこめかみを揉む。この結果とバーの店員と上原の証言があれば、社会的制裁が加えられるだろうか――。

 考えたけれども、やはり未遂である以上、法律で裁くことは無理のような気がした。そして法で裁けない以上、結局は有耶無耶にされてしまう可能性は大きいと思う。


(あいつ、どうする気なんだ?)


 無鉄砲な女なだけに、不安だけが積み重なる。


(頼むから……頼ってくれよ)


 そうすれば、もっとはっきりと協力できるのに。

 けれど、彼女は意地でも上原などを頼ることはないだろう。最初が最初だ。払拭するには時間がかかることは覚悟の上。長期戦を挑むつもりだったのだ。

 だから、まだそれほどの信頼を得ているという自覚はまるでなかった。

 鬱屈しそうになった上原だったが、即座に頭を切り替える。卑屈になっても、何も良いことはない。いつものように、状況を読み、持てる武器で戦うだけだ。

 上原はペットボトルを横目にメールを送る。ただでを渡してやるわけには行かなかった。


(話さないんなら、話させるまで)


 そしてそれでも話さなかったとしても。その時は、再び、対策を考えるのだ。



 **



 その日は土曜日だった。

 昼食前の時間帯、街中のおしゃれなカフェはブランチに勤しむカップルなどで賑わっている。待ち合わせの時間通りにやってきたウエハラに、ミサは開口一番「ホントに持ってるの?」と疑いの眼差しを投げた。

 彼は、今日は綺麗な色合いのマドラスチェックのシャツにジーンズという出で立ち。ダークスーツに見慣れていたせいか、妙にあか抜けて見えた。やはりきちんとアイロンがかかっていて、清潔感がある。目線を下ろすと、足元は紺色のスニーカー。背が高い男は、足も大きいらしい。ミサの足が左右二つとも入るのではないかと思えた。

 そこまで見て、ミサは我に返る。


(あ――またもやフツメン観察をしてしまった……)


 と動揺するミサに、


「こんな事もあろうかと、冷蔵庫に入れて取っておいたっす」


 どこか誇らしげなウエハラは、テーブルの上に紙袋に入ったペットボトルを差し出した。それにはオレンジ色の液体。本山が睡眠薬を入れたスクリュードライバーの飲み残しが入っていた。


「でも、ほんとにやるんすか?」

「やられっぱなしじゃ悔しいから。私がキャリアをリセットするのに、あいつだけがのうのうと昇進するのだけはゆるせない」

「まー、気持ちはわからないでも無いんすけど……いまいちじゃないっすか、その案」


 ミサの作戦はメールで簡単に説明済みだ。根掘り葉掘り聞かれて鬱陶しかったが、教えないと渡さないと言われたのだ。

 ウエハラはミサが欲しいものを渡すことには応じたが、作戦の実行にはいい顔はしなかった。


「いまいちじゃないよ。大丈夫。これはあくまで添え物だし」

「でも相手が悪いと思うんすけどね。大体一人で乗り込むつもりとか……それよりはまだ、大人しく告訴した方がましじゃないすか」

「あんたが言ったんだよ。悪いことしようって考えてるだけじゃあ、罪に問えないって」

「まあ、そうなんすけど、弁護士にちゃんと相談したら別のやり方ありそうじゃ無いっすか」

「予算オーバーなんだよ。今回の件は、お金払ってもスッキリするだけで、見返りはないんだし」

「それもそうなんすけど、中途半端に攻めると、逆に攻め込まれるっすよ」


 渋るウエハラを見ていると不安になってくる。いい思いつきだと思っていた分だけ、穴があるような気がして心細くなった。だとしても、他にいい案も思い浮かばないのだ。

 ウエハラは何か言いたげにこちらを見つめている。やめろと言いたいのだろうか。心配そうな顔に、心細さが膨らむ。

 思わず「心配なら、ついて来て」などと頼みそうになるけれども、彼に縋るのはなんだか自尊心が許さなかった。


「とにかく。あとは自分で何とかするから。ええと……それ、ありがとう。じゃあ、」


 立ち上がったミサは、またね、と言いそうになって、ふとある思いが頭をよぎった。


(あ……もう会う理由、無いんだった)


 それはそうだ。ウエハラとは最初は被害者加害者だったけど、それももう曖昧だし、会社も違うし、友達でも、もちろん恋人でもないし……つまり関係はもうないのだ。用事が無くなれば、会う理由が全くない。

 ミサは急激に落ち着かなくなる。ウエハラに会う用事が何かなかったかと頭の中を探る。


(あ、そうだ。写真のこと――)


 辛うじて思いついたが、それを口に出すならば、削除を要求すべきだろう。そして写真が消えれば、ミサはもうウエハラには用は無い。完全に縁が切れてしまう。


(いいんだよ。それでいいんだって。やっとお別れだし。清々する)


 ミサの一人がそう訴えるが、もう一人のミサは諦めきれない。必死で心の中を探っていた。


(他、他は何かなかった?)


 ミサがウエハラに会わなければならない理由。それか、ウエハラがミサに会わなければならない理由。どっちかをでっち上げることができれば――

 ミサは必死で考えた。だけどどうがんばっても何も出てこない。


「じゃあ――」


 立ち上がってしまった手前引っ込みが付かず、気丈にさよならと言おうと思ったが、言葉が喉に詰まった。

 どうしてもそのひと言が言えないまま、ミサは無言でウエハラに背を向ける。何か、胸に込み上げるものがあって、ミサはそんな自分にひどく戸惑う。

 だが、


「待てよ」


 引き止められて心臓が跳ねた。ウエハラのもの言いたげな目がじっと見つめてくる。


「な、なに?」


 真剣な顔に何か期待してしまう。ウエハラが何かいちゃもんでもつけてくれたら。そうしたら、まだ縁を切らなくて済む。

 知らず期待で胸が膨らんでいくのがわかる。

 ミサが食い入るように見つめていると、ウエハラはやがてにやりと笑ってペットボトルを指差した。


のお礼に昼メシくらいおごってくんないんすか?」



 **



 なぜ昼ご飯をおごってあげているのをこんなに喜んでいるのか、ミサにはわからなかった。いやもう認めてしまえ、とどこかでもう一人の自分が叫んでいるが、認めるわけにはいかない。だって彼はフツメンだ。背だけはクリアしているが、顔も職業も年収もミサの好みからはかけ離れている。


(こんな男でするわけには――)


 ここで折れれば妥協と考えている時点で駄目な気がした。こと恋愛に関しては妥協などという言葉は、ミサの辞書には載っていないのだ。

 しかも、彼の気持ちが全く読めないところが痛い。たちが悪い。

 ウエハラが少しでも気があるそぶりでも見せれば、まだいい。だが、これまでの行動を思い返すと、口を開けば基本は駄目出し。とてもじゃないがミサに好意があるとは思えない。


『友達になってあげてもいいけど』


 そう切り出す自分を想像してみたミサだが、


『は? 冗談きついっす。なんであんたみたいな性悪女と』


 そんな図がまざまざと浮かび上がる。ほぼ100%想像通りの答えが返ってくると思えた。


『つ、付き合ってあげても――』


 と要求を釣り上げた場合も当然同じ答えが――いやもっと酷い言葉が返ってくる気がして、それ以上の思考をミサは切り捨てた。


(だめだ。絶対無理)


 ブルリと震える。どんな拒絶の言葉もミサの心を玉砕させる可能性が大。そんなの、プライドが許さない。

 ミサが考え込んでいると、ウエハラが焼きたてのパンを皿に山盛りにしてきた。

 このカフェはランチ時にはバイキングを行っている。女性客に人気な店なだけあって、ウエハラは確実に目立った。大きいー、ガタイいいよねとひそひそと囁く女性客も居て、ざわざわとした気持ちになる。


(あれ、もしかして、ウエハラって結構いけてたりする……?)


 眼中に無かったからだろうか。最初に会ったときの印象が最悪で、色眼鏡をかけて見ていなかっただろうか。

 息を吸って目を閉じる。偏見を捨て、目を大きく開いてウエハラを見つめる。

 ウエハラはまめまめしくミサの皿にクロワッサンを二つのせる。三種類のサラダを丁寧に取り分け、カフェラテを運ぶ。


「最初はこんなもんか。他、なんかいるっすか?」


 問われて、ミサは黙って首を振った。

 いや、声が出なかったのだ。先入観を取り払ってみると、目の前のウエハラが別の男のように見えていたのだった。



 **



 だが、食事の時間は瞬く間に過ぎた。二人分の会計を終え、表に出るとアスファルトの臭いと排気ガスの臭いが、身に染み込んだクロワッサンの甘い匂いを台無しにした。

 燦々と降り注ぐ日光は、地面に乱反射して紫外線という凶器となる。

 穏やかでほんのり甘い時間が一瞬で終わるのを感じ、また先ほどと同じ事で悩みはじめたミサだったが、その悩みはウエハラのあまりにも軽いひと言で終わった。


「じゃあなー、俺、会社寄ってくんで。ごちそうさん」

「ああ、うん」


 それっきり、ウエハラはミサを一度も振り返らずに西通りの方へと消えていく。

 やがて彼の着ていたマドラスチェックのシャツも見えなくなり、ミサは見送るのをやめてビルの壁に寄りかかる。

 あまりにも簡単に食事が終わってしまった。呼び止められた時に期待した分だけ、落胆が酷く、途方に暮れていた。

 今までだって次の約束などしなかったが、今回は完全に次が無いというのに、「またね」のひと言も無かった。

 ウエハラを見送ったときの笑顔を張り付かせたまま、ミサは打ち拉がれる。


「んな、告ったりしなくていいからさ。また、飲みにいこうくらい言えばよかったんだよ……あほか」


 そんな普通の誘いの言葉が今更出て来て、なんだか泣けてくる。どれだけテンパっていたのか、その理由がなんなのか、さすがにもう誤摩化しようがなかった。

 ちょっと手を伸ばすだけだったのに、ちっぽけな勇気さえ出せなかった。

 何を言っても彼なら気にしない、そんな気の置けない関係ではなかったのか。いつから彼に対してこんなに臆病になってしまったのだろう。ミサは後悔に沈み込みそうになる。

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