43° 優しい雨垂れは石をも穿つ
リマが樹ノ実ヶ森学園へ向かって4日目の朝。
この日、黒摩も、ラグも、出席しなかった。
一昨日から続く雨が、昨日になって強みを増した。一向に止まない雨に、夜闇が眉を寄せる。
しおれた様子のカナメに、「今日、ラグちゃんと黒摩くんは来てないの?」と問うと、カナメは元気の無い声で「ああ、うん……」と頷いた。その歯切れの悪さを、夜闇は不審に思った。
そういえば、田代もどこか気分が覚束ないようだった。
「…………」
予鈴が鳴り、全校生徒が各々、自分たちの教室へ戻って行く中、夜闇はこっそりと校舎から姿を消した。
ビニール傘を差し、学園から離れていく。
足元を見下ろしながら、“何か”を探している。視覚ではまず捉えられない。夜闇は、すんっと鼻を立てる。雨の香りに紛れて感知しづらいが、なんとか見つけられそうだ。
匂いを便りに、歩みを進めると、次第に
学園から数ブロック離れた、とある公園に、彼の“足跡”を見かけた。
この公園の深部に、大きな木がある。その真下に設置されたベンチに、彼はいた。
「黒摩くん」
肘を膝に載せて、前屈みになって、項垂れていた。
夜闇の声に反応すると、地面を見詰めたまま頭を少し上げた。
「隠れないで、やったつもりだ」
その声に、生気は感じられない。
それだけで、事の経緯を大方、理解できた夜闇は、小さく見える黒摩に問う。
「本当に?」
黒摩は頭を上げ、夜闇を見詰めた。
「本当に、もう、出し切った?」
「…………」
まだ、何か隠してることが? 何を? 自分は何を隠してる? 何を伝えていない?
美麗にはちゃんと本心で答えた。隠し事と言えるものは、関係のある人にはもうしていないはずだ。カナメにも、リマにも、ラグにも――。
「……!」
――ああ。
あった。
ひとつだけ、隠していることがあった。
ひとつだけ、伝えていないことがあった。
「伝えてたら、何かが変わったのか?」
「どうかな。僕は何でも知ってるわけじゃない」
こんなときでも、淡々と言葉を零し、淡白な表情を浮かべている夜闇。
黒摩を安心させるわけでもなく、説教じみたことを言うわけでもなく、淡々と続ける。
「黒摩くん、事の経緯というのは全部、連鎖なんだよ。些細な言動が、みんなの未来に繋がる。言葉ひとつでも、行動ひとつでも」
その些細な言動には、意味があり、正解があり、間違いもある。
「例えば、僕がそこにある小さな花を摘んだとしよう。もし、僕の知らないところで、誰かがその花を育てていたとしたら、僕は知らないままその人を悲しませてしまう」
因果応報というやつだ。過去の行為の善悪に応じて、未来の幸・不幸の果報が生ずる。その因果は連鎖によって遠い未来の結果を作り出すこともある。「トラウマ」がいい例だ。
「キミが伝えていなかったことを伝えていれば、何かが変わったかもしれないし、変わらなかったかもしれない。人の感情に触れることならば、少なくとも迷いは生じたかもしれないね」
「…………」
答えを失ったのか、黒摩はベンチから腰を上げ、夜闇の横を通り過ぎる。
「……いいの? これで」
「いいんだよ、これで」
「本当はそう思ってないでしょ?」
「うるせぇな!」
言葉だけでは、なんとでも言える。
「どうしろってんだよ! 相手が悪ぃんだよ!」
「関係ないよ」
夜闇は振り返らずに、だけどはっきりと答えた。
「誰が相手だろうと、関係ないよ」
「お前には分からない……」
「そうだね。僕は、何も知らない」
黒摩がどうして落ち込んでいるのか。どうしてラグが現れなかったのか。2人の間に何があったのか、本当のことは、何も知らない。だけど――。
「だけど僕は、自分の直感を信じてるし、自分の持つ“力”のことを理解している」
夜闇が何者かは分からない。しかし彼の予言や忠告は、今の今まで外れたことはない。半信半疑であっても、結果的には彼の言葉を信じてしまっているし、頼っている。
夜闇がなんのために自分たちの前に現れ、なんの目的で自分たちに手を貸しているのか。
「僕はいわゆる、不運を呼ぶ黒猫みたいな感じで、幸運を運んでくる白猫みたいな存在」
自分たちにはメリットがあったとしても、彼にはどんな得があるのか。見返りを求めずに、ここまでする理由とはなんなのか。
「水は古代から、身体や精神を清めるために存在する洗礼の要。でも、どんなにキレイな水でも、人の穢れた手が加われば汚染する。汚れた水をキレイにするために、人類は今までどうしてきたと思う?」
急に話題を変えられて、黒摩は首を傾げた。
「あるときは、小さなバケツを大量に持ってきて、大勢の人々が、海に浮かんだ汚染物を汲み取るという地道な作業を何日にも渡ってこなした。結果、海は元通りになったんだよ。人の手によって汚れたものは、人の手によってキレイになる」
それは、つまり――。
人の手によって傷付けられた人間は、人の手によって癒される。
「……けど、もう遅い」
黒摩は、ぽつりと弱音を零すと、雨に濡れてどこかへ行ってしまった。
夜闇は、その寂しい背中に、もう言葉を掛けてあげることができなかった。
***
その日、ラグが目を覚ましたのは午後の5時頃。
どれだけ寝ていたのだろう。2日前の夜も、昨晩も、うまく寝付けなかった。眠気と疲労に耐えられなかったのだろう。
重い体を起こすと、パサリと、長い髪が、手や脚に零れ落ちる。
「…………」
まだどこか意識がはっきりとしていない。顔を抱えて、目を伏せる。
一昨日起こったことは事実で。昨日起こったことも事実だ。
昨日の――。
「…………」
目を開け、辺りを見渡すと、ここは間違いなく自分の部屋だ。
時間を確認すると、いつもならこの時間に学園から帰宅している時刻だ。必要があれば夕飯の買出しに出掛けて、料理を始めて、リマと一緒に夕食を頂いている。
だが、そのリマがいない。叔母もいない。
だから、無理に夕飯をこしらえる必要もない。
ベッドから下りて、洗面所に向かう。
裸足で鏡の前に立ち、その表情を窺う。目元がむくんでいるのか、ひどい顔をしていて、髪の毛がひどく乱れている。
「…………」
子供の頃から弟と共にイジられてきた、異色の毛並み。
色が他の人よりも特殊なだけなのに、仲間はずれにされたり、変人扱いされたり、悪口を言われたり、突き飛ばされたり、たかだか彼らの“冗談”で大怪我を負ったり。初見で驚かれるのは、当然のリアクションだが、いちいち反応を示されるのも、少し不快である。
あの男も――例外ではなかった。
洗面台の引き出しを開けると、そこに鋭利な器物が収められていた。しばらく思い悩んで眺めていると、取り出すため、引き出しに手を差し込んだ。
***
その翌日。
リマが体験入学へ向かって5日目の朝。今日が最終日で、明日の朝、帰宅することとなっている。金曜日の夜、つまり今晩は樹ノ実ヶ森できちんと休んでから、土曜日の午前中には帰ってくる。
そんなことを頭の中で思い浮かべながら、ラグは華ヶ咲学園へ向かうため、家を出た。
学園の門が見えてきたところで、田代と出くわした。
「おはよっ、ラグちゃん! 良い天気だね」
元気よく挨拶してみたが、本日も昨日に続く、あいにくの雨。
「……はは」
無反応なラグにめげず、明るく振舞う。
「あ……新しいヘアスタイルすっごい似合ってるよ! 超かわいい! もう押し倒したいくらい!」
傘を器用に動かしながら、両手を組み、腰を振ってみるが、いつもなら薄いリアクションを示してくれるラグが、今日はノーリアクションだった。
……無理もないか。
田代は大げさに取っていたジェスチャーを解き、真面目に声を掛けようとすると。
「これは――」
ラグが急に口を開いた。
ばっさりと、切り落とされた毛並みは、ラグの雰囲気をがらりと一変させるほど、短くなっている。長い髪もとても似合っていたが、ショートヘアーも可愛らしい。
だが、彼女が髪を切った理由は、イメージチェンジのためではなさそうだ。
「長いのが、ちょっと邪魔になったから……」
髪先に触れると、じわりと瞳に水が溜まった。
「ラグちゃん……?」
傘で表情が隠れていたが、涙が零れ落ちているのを、田代は見逃さなかった。
「私が……っ、私が弱いから……私じゃ、荷が重くて……」
流れてくる涙を手で拭い止めようとするが、涙は容赦なくボロボロと零れてくる。
「ラグちゃん……」
田代は、小さなラグの身体をそっと抱き締め、ポンポンと背中を優しく叩いてあげる。
「色んなことがあったから、全部溜まっちゃったんだよ。いっぱい我慢したね。辛かっただろう」
何も話してくれなくてもいいと思っていたし、何も知らなくてもいいと思っている。
2人の間に何か複雑な事情があることは知っていたし、何か出来ることがあるなら何とかしてやりたいと思っていた。何も話してくれなくても、2人がそのことを忘れて、少しでも楽に過ごしていられるのであれば、何も知らなくていい。
それで、いい。
だけど、もう、見ているだけじゃダメなのかもしれない。
黒摩は、昨日のラグの言葉に、相当ショックを受けているに違いない。
「……あのさ、ラグちゃん」
やるべきことを忘れてしまうくらい、今のラグも、参っているに相違ない。
「その格好じゃ、学校には行けないよ?」
代え様の白いワンピースを纏い、ウィッグまで忘れてきてしまった様子を見ている限り。
***
家に帰る気分ではなく、とぼとぼと街中をそぞろ歩いていた。
田代の話によれば、黒摩は昨日も学園に姿を現さなかったと言っていた。そして、今日も欠席していた。姿を消したのだ、本当に。
昨日の、あの言葉どおり。
「…………」
不意に、涙が出てきた。
傘を肩で支えながら、焦点の合わない視線を震わせながら、歩みを進める。
「アンタ……」
正面で足を止めた人物に、声を掛けられた。
傘でその体をぶつける前に足を止め、そっと見上げる。
そこには、先日の、あの男が立っていた。
「落ち着いたか?」
「ありがとうございます……」
「別に。あんたにゃ詫びがあるしな」
花はラグを近くの喫茶店へ誘うと、温かいお茶をオーダーした。
ラグは、最初こそ警戒していたものの、昨日は頭を下げて懇願してきたことを思い出し、あのことも本人が自分の意志でやったことではなかったことから、彼の好意に甘えた。
「えっと……花、くん……でしたっけ?」
「黒摩はそう呼んでるけど、名前は「
「ごめんなさい……」
“黒摩”と聞いて、また涙が溢れ出てくる。
「……おいおいおいおい!」
急に泣き出した女の子を前に、花魁は困り果てる。
「ごめんなさい……すぐ、止めますから……」
「…………」
両手で流れてくる涙を拭っても、なかなか止まる気配がない。
花魁は頬杖を突いてその時を待っていたが。
「あの……俺のせい?」
昨日は警察沙汰にはしないと言ってくれたが、まだ自分に対する恐怖感があるのかもしれない。
だけどラグは、ふるふると頭を振った。
「そうじゃ、ありません……」
今更、後悔しているなんて。
もう、遅い。
「大事な友達に、酷いことを言いました……」
「……それで、後悔してるって? 謝りゃいいじゃん。友達なんだから」
ラグはまた頭を横に振る。
「消えてくださいと言ったら、本当に、いなくなりました……」
これまでのことは、彼が要因でもある。彼と関わりさえ持たなければ、こんなことにはならなかった。
そう思う反面、彼に「消えて欲しい」と言ったのは本当の気持ちではない。傷付けたくなかったのに、それでも、感情任せに言ってしまったということは、もしかしたら本心なのかもしれない。
わからない。
「会えねぇんなら、電話で話せば?」
「彼の連絡先は、持ってません……」
「は!? 友達の連絡先無いってどういうこと!?」
杖から顔を外し、目を見開く花魁。
ラグも、変だとは思いつつ、それに関しては何も言わなかった。
「アンタさ……」
少し呆れた顔で、再び顔を杖に載せる。
「好きだろ? そいつのこと」
「……え……?」
突如そんなことを言われて、涙がピタリと止まった。
「だって、おかしいじゃん。友達の番号無いとか。好きな奴の番号を持ってないなら、まだ解らないこともねぇけど」
「それは、ちょっと、事情があって……」
事情があって、お互いの連絡先を知らないのは本当だ。
けど今は、そんなことよりも。
(……魔王さんを好き? 私が……?)
そんなこと。
そんなことは――。
「ふうん。その割には、否定しねぇんだな」
「…………」
「ってことは、図星?」
「……わかりません」
そんなこと、有り得るのだろうか?
「男と女のいざこざって、基本的に恋愛が多いし。否定しねぇってことは、アンタ自分で知らないうちに好きになってんだよ、そいつのこと」
否定も肯定もできない。正解か不正解もわからない。明らかに、混乱している。
いや、しかし。仮にそうだとしたら、彼に対する嫌悪感への説明が付かない。好きだから許せるものなのではないだろうか。それとも、好きだからこそ許せないのだろうか。
いずれにせよ、もう、終わったことだ。
もう、自分にはどうすることもできない――。
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