26° 雨季。雨承け。雨景色




5月上旬。雨。

中等部の西校舎と高等部の東校舎、そして両舎に挟まれている中高共通の図書館によって囲まれている庭――現在は「魔窟」と称されている。

数十年前までは健在していたらしいが、現在では草木もぼうぼうとしていて、花壇の周りは荒れている。人が踏み入ることもほとんどない。それでも土を支えている花壇だけは、撤去されることなく残されている。入学して来たばかりの頃、学園の案内をされたときに知った場所。当時はそこが「魔窟」だとも知らずに、持参した種を植え始めた。

花壇は全部で8つ。去年、植えた種はすくすくと育ち、一度は枯れてしまった種もあるが、また来年、花を咲かせるだろう。

西校舎に、この庭へと続く裏口がある。そこを出ると、決して美しくはない風景が目に飛び込んでくる。だけど季節ごとにその景色は多彩な表情を見せる。春は桜の花弁が地上で散り、夏は蝉の鳴き声が喧しいくらいに響き、今の時期では木々が紅葉し、冬には雪で庭中が埋め尽くされる。

今日は、青葉の先端が赤色に染まり、きれいなグラデーションを彩る木々に雨が滴り、それをリフレクションする地面の水の溜り場と、花壇で誇らしげに花を咲かせている光景はどこか趣がある。

地獄の魔獣が住んでいる「魔窟」だなんて、よく言われているものだ。

裏口から左の方向へ歩いていくと、体育館が見えてくる。そこを通り抜けると、人一人がやっとのことで通れるような狭い道がある。その道を進んでいくと、裏庭とはまた別の庭園が存在する。

鬱蒼とした木立。葉が落葉するに先立って、赤や黄色へと変色を始めている。今月の20~25日くらいが見頃だろう。この不思議な庭も、春夏秋冬によって情景が変わるだろう。

あたり一面が真っ赤に染まる日が、ひそかな楽しみだ。

背後の木から一定の距離を置き、木々の傘によって乾いた地面に横座りしながら、木立の間に降り注がれている雨を眺めていたとき。


「しけた面してんな」


相変わらずのふてぶてしい立ち振る舞いの、黒摩がやって来た。

ここは彼の秘密の場所だ。一人になりたいときに来る、誰にも教えたことのない、彼だけの場所だと言っていたのに、先日その大事な場所を、教えてもらった。

いくら教えてもらったからといって、図々しく勝手に入るのは少し気が引けたが。


「すみません……勝手に入って来て……」

「別に。本当は俺んじゃねぇしな」


本来は華学の所有地であって、誰も足を踏み入れないから勝手に“秘密”呼ばわりしているだけだ。だから本当は、誰が入っても追い出す権利はない。


「魔王さん、濡れています……こちらに……」


垂れる雨をものともせずに、そこに突っ立ったまま。木々の下で雨宿りをしている自分の隣を手の平で指しながら誘うが、黒摩はその場から動かず「いい」と否定した。

湿気はあるが、秋の雨だ。風邪を引いていけない。そう案じたラグは戸惑いの表情を見せる。「でも……」


「お前が降らす雨は嫌いじゃないって、言っただろ」


思いがけない言葉に、少し恥ずかしくなった。

その表情を隠すように、目を逸らしながら俯く。


「で? 用件はなんだ?」


しばしの沈黙の末、口を割ったのは黒摩だった。

わざわざこんな場所にまで足を運んでくるくらいだ。何か理由があるだろう。「……用件、といいますか」


「委員長が、学園を去りました……」

「ああ、知ってる」


瞬間、サ――ッと雨音が増した。

その音に紛れながら、ラグは涙目で声を絞り出す。


「私のせいで……っ」


大城が、傷付いた。


「私が、弱いから……っ、私が、もっと、ちゃんと、しっかりしていれば……!」


あの場で、何もできなかった無力な自分が憎い。

決死の抵抗はしたものの、あの後、自分だけの力で黒百合ヶ丘を追い払えることが出来たどうかは定かではない。大城が来てくれなければ、結果は違っていただろう。勇気を振り絞って助けに来てくれた大城には、謝礼の言葉しか告げていない。

結局自分は、自分の身を庇ってくれたそれ相応の恩返しを、黒摩にも大城にも出来ていない。

黒摩は特に表情を変えず、ポケットに手を入れたまま、静かに続けた。


「”弱い”ってのは、”何も出来ない奴”のことを指すんじゃなく、”何もしない奴”のことを指す。敵わないと分かっていても、立ち向かうことは弱さじゃない。あの地獄耳、はじめて根性見せたな」


ラグの知らない場所で、ラグのために動いた大城義築。

クラスでは頼りない委員長だったとしても、その頭脳と秘めた積極性を表を曝け出す術さえ見つけることができれば、あの男は義を尽くすことで、いずれ大きな城を築き上げることだろう。

この学園を去った理由がただの現実逃避だったとしても、先日のように、臆する自分に打ち勝ち、自分の意思を貫き通すことができる日がくるだろう。


「お前は弱い。自分でそう決め付けてるからだ」


返す言葉がなく、鼻液を啜り上げながら横座りから体育座りに変わり、両足を抱えて膝に顎を埋める。

それに対し、黒摩は。「ところで――」


「最近、視力が悪くなった。お前のその変色頭のせいだな。肌も荒れてきてる」

「……私の髪の毛は放射光ですか」

「厳密に言えば、電磁波だな。紫外線ものとも自分のものにしてやがるとは」

「赤外線なら良いと言うんですか……」

「それじゃレーザー線になるだろ」


いつものイジリだ。髪の毛から始まって、訳の分からない話題まで広がっていくのがこの2人の台本だ。

黒摩とのこういう会話は嫌いではないが、無理矢理、話を変えられた気がしてならない。それとも、あえてのことなのか。


「お前のヘアスタイルが何故目障りなのか説明しようか? “黒”はそもそも太陽の光を吸い込む色だ。つまり俺たち黒髪は光を吸収するだけであって、お前の水色なのか緑色なのか分からない眩しい髪色は光を跳ね返し、俺たちの目を刺激するんだ。目だけじゃねぇ。肌荒れの最もな理由だ」

「そこまで私の髪を否定するとは思いませんでした!」

「人種差別だ」

「わかってます……!」


今に始まったことではないが。


「魔王さんの肌荒れの原因が私の髪なら、私の肌は一体どうなっているんですか……」


黒摩の発言通り、自分の髪が他人の肌荒れの原因ならば、常に自分の肌と接触をしている自分こそがとんでもないことになっているのでは。


「お前の肌は、その変色と過ごしすぎたせいで進化を遂げたんだ」

「進化を!?」

「誰かが言ってただろ。“最も強いものや賢いものが生き残るのではない。最も変化に敏感なものが生き残る”って」

「ダーウィン!? 発言が深すぎてどう突っ込めば……! 」

「それとも進化を遂げたのは、お前の肌じゃなくて毛色なんじゃないか? 元はもっと濃い緑色だったとか」

「色が褪せたってことですか!? 太陽の光を吸収したあまり!?」

「そんな深刻な悩みをどうして打ち明けなかった。解決法ならいくらでもある。罪悪感なんて抱えるな」

「色褪せていようがなかろうが、この髪は他人の目や肌を損傷するほどの威力はありません!」


ふと、黒摩がはっとした。

何か、重要なことに気が付いたような顔を浮かべたのだ。顎を抱えながら、「なるほど……」と、小さく呟いて、目線だけをこちらへ泳がせた。


「お前の髪色は蛍光色なんだ。なんで今まで気が付かなかったんだ」

「蛍光は闇に包まれて初めて光輝くものです!」

「じゃあ、お前の変色は、永遠に光の中で光る蛍光ってことで、永久昼夜燐光なんだな」

「昼間も夜間も光りません!」

「寝ているときに、気付かずに発光してんだよ。蛍みたいにすぐ消えるんだ。お前の命も儚いな」

「蛍確定なんですか!? 私は昆虫だったんですか!?」

「すげぇな、人間の形をした昆虫なんて、科学的発見だぜ」

「嬉しくありません!」

「いやホント、お前すげぇよ。まさか人間の体から蛍光が生じるとは、俺は夢にも思わなかった。高く売れそうだな」

「売り飛ばされる!?」

「俺は人生に一度でいいから、ノーベル賞にノミネートされたいという願望がある」

「魔王さんって博物などに興味があったんですか!?」

「実は得意教科だ」

「知らなかった! テストの点数もまともじゃないから!」

「勉強は嫌いだ」

「賞が欲しいんじゃないんですか!?」

「受賞はしたいが、勉強はやりたくない」

「諦めてください!」

「話は変わるが――」


いちいち話を切り替えて、急がしい男だ。

なにはともあれ、やっとのことで、彼の誹謗中傷な話は終わった。

改めて、黒摩が切り出す。


「体は何ともないか?」

「え……?」

「この間、倒れただろ」

「あ……」


知って、いたのか。


「私は、大丈夫です……」

「そうか」


本人の身体のことは、本人が一番わかっているはずだ。

それ以上、詮索はしなかった。


「あの男のことだが――」


ひ弱なラグでは到底、力では適わない相手。

言葉の戦争でもあっけなく敗北。

自分は、本当の本当に何もできなかった。

黒百合ヶ丘に抵抗することも。大城を庇うことも。


「間違っても、あいつを相手に軽々しく“どうなってもいい”とか、“何でも言うこと聞く”とか言うんじゃねぇぞ」

「…………」


弟のために「犠牲になる」と言い張った女だ。

黒百合ヶ丘相手でも、言い兼ねない。


「魔王さん、彼のこと、ご存知なんですか……?」

「存じてるっていうか……」


しばし考え込んだ。

自分と黒百合ヶ丘の関係を、語るか、否か。


「雅貴は……」


ラグの目が見開く。

彼のことを、名前で呼んだ。


「前の学校で、それなりに付き合いのあった奴だ」


前の学校。

華ヶ咲学園に、来る前の黒摩。


「…………」


そこで一旦、会話は途切れた。

ラグも、これ以上は聞くべきではないのかもしれないと、黒摩から視線を逸らして、膝の上に乗せた両手をじっと見下ろした。

目には見えなかったが、じゃりっと足音がしたので、黒摩が足を動かしたのだとわかった。こちらに近づいて来ている。てっきり隣に腰を落とすのかと想ったが、自分の横を通り過ぎ、何故か背後に回った。

――すると。

後ろから、黒摩の両腕が伸びてきた。

何が起こったのか、最初はわからなかった。

ゾクリと背筋に寒気が走った後、自分の身を包み込むような暖かさを感じ、両脚で両側を塞がれ、上半身が長い腕に閉じ込められる。その両手は、ラグの目の前で指を絡め合う。背中に、大きな気配を感じた。

雨に濡れた身体を気にしてか、それ以上は近づくことなく、離れることもなく。決して、触れることはない微妙な距離感。輪を作った黒摩の腕の中に、すっぽりとはまる小さな自分。そして、後頭部の結び目に、顎を寄せられた感覚があった。

意図の読めない行動に、ラグは息をすることも忘れてしまった。

どう対処したら良いのか。恐慌に陥り、心拍は次第に、ドクン、ドクン、ドクンと、大きくなっていく。

恐慌、なのに――胸にあった鉛が、溶けて、流れ落ちていくような感覚を抱いた。


「“樹ノ実ヶ森きのみがもり学園”……姫子もその学園の生徒だ」


樹ノ実ヶ森学園――聞いたことはある。


「俺と、雅貴と、姫子と、美麗……よく一緒につるんでた」


「美麗」。

去年の今頃に知った、一人の女子の名前。


「雅貴とは、ダチっつーより、悪戯仲間ってとこか。樹ノ学は、やっぱ金持ちの連中が通うだけあって、みんな気取ってるっつーか、真面目っつーか。俺には合ってなかったな。けど雅貴だけは違った。表は礼儀正しくて紳士的だが、裏の顔は普通の悪餓鬼だった」


悪餓鬼のことを普通というのもどうなんだろうか。


「ああいう学園の教師に悪戯とかするの、結構楽しかったんだ。向こうだって、まさか自分がそんな悪戯を食らうとは思ってねぇからな。リアクションを観るのがとにかく楽しみだったんだよ」


雅貴はその仲間ということか。


「本当は、あんな奴じゃない。良い奴とは言い難いが……悪い奴でもない」


それなりの付き合いだった。ただの悪戯仲間。

そうは言っているが、本当は彼のことを、それ以上に想っているのかもしれない。

でなければ、「悪い奴でもない」というフォローは入れないだろう。


「美麗が――」


恋人も、友人も、全てが“元”と化してしまった現状。


「美麗が居なくなってから、俺たちはおかしくなった」


黒摩魔王。桃源姫子。黒百合ヶ丘雅貴。そして、美麗。

この3人の関係は、引き裂かれた。


「雅貴は姫子と婚約してる」

「……!」


それは、思っていなかったことだった。


「俺の勝手な憶測だが、姫子がなんか吹き込んだんだろ」


“彼女”の命令に従っているということだろうか。

彼女が女王と呼ばれるなら、彼は王様と呼ばれるに相応しい。


「報告もせず海外へ飛んでったのはあの女なのに、さすがに理不尽だと思わないか。俺がこれからどうしたいのかも聞かずに」

「え……?」


その言い方は、まるで。


「……魔王さん、姫子さんのところへ、行っちゃうんですか……?」

「そのつもりだ」

「でも、姫子さんの言いなりにはなりたくないって――」


瞬間。

ぽんっと、ラグの前に差し出されたのは、黒摩の大きな手に釣り合わない、とても小さな花だった。

どこから摘んだのか。白くて、小さくて、だけど健気な姿を誇る。おそらく、白丁花だ。


「気にするなって、言っただろ」


その小さな花を受け取る。

ラグの冷たくて小さな指先が、黒摩の掌に触れる。


「お前はお前のことだけを考えてればいい」

「そんな……」

「雅貴のことが解決したら、俺もこの学園を出て行く」


それは、大城の退学に積み重なる衝撃的な発言だった。

黒摩を振り返ろうとしたラグと目線を合わせる前に両手をほどき、両膝に手を置いて立ち上がった黒摩は、臀部に付着した葉っぱ誇りをはたいてから、ラグに背を向けたまま歩き出した。

そして、秘密の庭園を後にする。

視線を送るラグを、その場に取り残して。




***




黒百合ヶ丘に情報を提供している人間が、本当にいた。

しかもその犯人は、自分が全く予想だにしていなかった人物で。それが晃月夜闇だとしたら、真実をひとつ知れたことで動きやすくなるかと思っていた。なのに、肝心の怪しい男の正体は、未だ謎に包まれたまま。またひとつ、心配事が増えてしまったということになる。

黒百合ヶ丘が情報を得たのは旗本青人から。例の2人組を派遣したのも黒百合ヶ丘で、旗本は2人と直接の接触があったのか、なかったのか、いずれにしろ共犯になる。

黒摩は晃月夜闇だと踏んでいたが、冷静に振り返ってみると、黒百合ヶ丘は自分から出向いてくるタイプの性格だ。他人のリアクションを見るのが楽しくて、そのために数々の悪戯をしでかしてきた。大城に残した手紙に家紋を描いたのも、あえて自分であることをアピールしている上、ラグにも直接会いに行った。

犯罪者に例えると、自分から直接犯行を働かせるタイプだ。中には首謀者が、警察と直接、接触しないために報酬を渡して部下を従わせる。仮に捕まったとしても、実行犯よりも軽い刑で済まされることが多い。

この国では、ある程度の年齢を重ねると、窃盗罪や暴行罪に問われることはある。自分も例外じゃない。窃盗もしたし、器物破損も、暴力も振るった。すでに警察に突き出されてもおかしくないであろう。それを実現しなかった桃源姫子と学園。

自分は、皮肉にも、それに甘えていたのかもしれない。

警察にとっても、子供の言うことなんて本気にすることは難しいだろう。若気の至りで片付けられるパターンもあれば、子供はずる賢いから、その証言だけで何々罪と立件できたら世話がないだろう。冤罪の危険性も非常に高く、ただの喧嘩なのにいじめられたと言い張る話も在り得る。万が一警察の事情聴取の後に子供を傷つけて不登校になったりしたら完全に警察が加害者になるからだ。

そして学園側も、警察を学園に入れてしまうとなると、学園の経歴に関わってくるため、関わりを持つ抵抗があるのだろう。ゆえに、加害者である生徒は退学させるのが一番なのだが、それをさせないのが桃源姫子だ。

しかし、今になって自分を退学にさせようとしている黒百合ヶ丘。少なくとも、旗本青人はそう発言していた。

それが『真』であるならば、何故、今更になって自分をこの学園から追い出そうとしているのか。姫子がこの国からいなくなったからだろうか。あの女が華学にいた頃は一緒にいることができたから、(とある教師を辞退させた割に)自分の退学を認めなかったのかもしれない。

しかし『嘘』であるならば、何故、こんな回りくどいことをしているのか。仮に姫子がこちらに帰国してくることを前提に仮説を立てると、黒百合ヶ丘を使ってまで、自分、大城、リマ、ラグを陥れた理由とは――。


「久しぶりだね、魔王」


ラグと秘密の庭園で落ち合った数時間後のこと。学園の外で“探しもの”をしていたとき。

声を掛けられ、咄嗟に振り返る。

自分のことを「魔王」と呼び捨てる人は、この世でたったの4人だ。

両親と、あの女と、この男。


「雅貴……!」


まさかこんな呆気なく姿を現すとは。


「しばらく見ないうちに、随分な変わりようだね」


蛇の目傘を差しながら、不敵に笑っている。

黒百合ヶ丘と最後に会ったのは、黒摩が華学に転校してくる以前だ。こうして顔を合わせるのは、およそ1年半ぶり。黒百合ヶ丘からすれば、今の黒摩の風貌は真逆へと転換している。

部下を使って大城の大事な物を燃やし、リマを停学させ、更にその姉と直接対峙した張本人。


「元気にしてた?」

「気休めはよせ」


口元に刻む笑みと、目元に現れる邪悪な眼差しが、憎たらしい。


「あいつを陥れた罪は重いぞ」

「…………」


ぎろりと睨んでも、黒百合ヶ丘の表情は平然としている。

その顔つきが癪に障って、すぐさま一発殴ろうかと思ったが、黒摩は怒りを鎮め、力いっぱい拳を握り締めた。

ここまでやってきたことに白を切ることはしなかったが、ラグがあの後、失神したことを知らないから、こんな余裕面を浮かべることができる。

あれを“悪戯”とみなしているのなら、かなりタチが悪いが――。


「お前、ここまでする奴じゃないだろ」

「なにさ、急に」


黒百合ヶ丘雅貴。

今回の件の触りとなる人物。

厳めしいスクールカラーを定める“元の学園”では教師たちから厚い信頼を受ける存在。後輩や同級生はおろか、高学年からも羨望と尊敬を集め、両親もその万能を誇る輝かしき存在。

頭脳明晰。容姿端麗。品行方正。

3ヶ国語をペラペラ喋り、スポーツにおいても、サッカーやバスケットはおろか、テニス、野球なども常にエースの座を勝ち取っている。裁縫や料理なども完璧にこなし、世界で一番演奏の難しい木管楽器と言われているオーボエを、甘美な音色を奏でながら使いこなせたり、車にはねられそうになった犬を救済したことによって女子のハートを掴んだ。

黒百合ヶ丘家は和服の裁縫技術に長けており、次の代を継ぐ御曹司。裁縫士としての腕前は、本人の祖父が既に認めているらしく、国家試験を楽しみにしているようだ。

まだ中学生にしてこの鬼才ぶり。蛇は一寸にして人を呑むという言葉が相応しい。

そんな中、本質は悪戯好き。

だが、今回はその度を越えている。

趣味でこんなことをしているとは到底思えない。


「“あの女”に頼まれたんだろ」

「“あの女”って?」


はぐらかされた。

糸目で笑っている。

が、笑ってはいない。


「なんで俺の周りの人間に手ぇ出した」

「それってラグちゃんのこと? ふふっ、彼女のことになると、必死になっちゃって」


くつくつと絶えない笑みは、黒摩の激動を仰ぐ。


「狙いは俺だろ。こんな回りくどい事しなくても、俺は――」

「何、自惚れてんの?」

「……?」


クスリとはにかんだ後、黒百合ヶ丘は乙女のような、指を口付けるようなしぐさで答えた。


「僕の狙いはキミじゃなくて、ラグちゃんだよ?」


衝撃の事実に、目が見開いた。


「さっきキミは、『俺の周りの人間に手を出しただろ』って言ったね。誤解しないで欲しいな。僕はラグちゃんの・・・・・・周りの人間に・・・・・・手を出したのさ」


自分の周りの人間――と言ってはみたが、腑に落ちない点が多くあった。黒百合ヶ丘が襲ったのは、自分と、大城と、リマと、ラグの4人。ターゲットが自分であれば、ラグを付け狙ったのはまだ合点がいく。しかし、あまり接点のない、その弟と(元)クラス委員長にまで手を出した理由が見当たらなかったのだ。

初めから“ラグ”が狙いなら、得心がいく。

しかし、何故“ラグ”が狙いなのか。


「まあ、確かに? 最初はキミ狙いで来るつもりだったけど……キミより苛め甲斐のある子がいるって知ってさ」


怒りと焦りで、血管が破裂しそうだ。

無関係であるはずのラグが、結局とばっちりを受けてしまう。

前回の姫子のときも、今回の黒百合ヶ丘のことも。

だが、今までのことを・・・・・・・振り返れば・・・・・、この男がこういう行動に出るのも分からなくはない。そう考えれば、自分自身の自業自得――と捉えられるかもしれない。

かといって、無関係の人間を巻き込むのは筋違いだ。

去年、自分の鬱憤を晴らすために彼女を最初に巻き込んだ自分が言えた立場ではないが。


「初めて会ったとき、びっくりしたよ。会いに行こうと思ってた子が、急に目の前に現れるんだもの」


例のランドで鉢合わせしたときのことだ。

あの時点でもう、既に黒百合ヶ丘の“策略”は決まっていたのか。


「大人しい印象だけど、急にテンションが変わるところも、“あの子”に――」


ざあっ――と。


「美麗に、似てるね」


2人の間に、一陣の風が吹いた。


「あいつと美麗は、似てない」

「そう? 僕は似てると思うけど」


くつくつと笑う黒百合ヶ丘。

前回、姫子も同じことを言っていた。

姫子の言うとおり、2人は泣き虫で。

雅貴の言うとおり、2人はある時になると口調が流暢になる。

共通点は確かにある。

だけど本当に、似ていないと思う。

見た目だって違う。


「ラグちゃんも追い込まれたら・・・・・・・美麗と同じ・・・・・ことになる・・・・・かもよ?」

「お前……!!」


さすがに今のは失言だ。

憤怒が沸騰して、咄嗟の行動でその胸倉を掴み取る。


「やだなぁ、軽いジョークじゃないか」


ジョークにしては悪質だ。

拳をぎりぎりと締め付け、奥歯を噛み締める。


「そんなに怒らないで。さすがに、そこまではしないから」


このときだけ、黒百合ヶ丘の表情が力を失った。

――ように見えた。


「…………」


おそらく、自分で言ってみて、悔悟したのだと思う。

黒摩はそっと、黒百合ヶ丘の胸倉を放す。

しばしの間、森閑とした。


「……それじゃ、僕は忙しいから、行くね」


粛然と襟を正し、黒百合ヶ丘は黒摩の横を通り過ぎようとしたが、すかさず引き止められる。


「待て、まだ話は終わってない」

「何さ」

「今後、あいつには関わるな。こんなことしなくても、俺は姫子のところに――」


もう一度、釘を刺すように言ってみたが。


「ダメだよ」


と。

また、遮られた。


「何が……」

「それだけじゃ、ダメなんだよ」

「……どういう意味だ」

「もう、キミだけの問題じゃないってこと」


たらり――と、黒摩のこめかみに汗が垂れた。

わからない。どういうことだ。

姫子は自分の思い通りにならなかったから、ラグに嫉妬している。だから自分を華学から退かせることで、ラグから引き離そうとしたのではなかったのか。黒百合ヶ丘は自分じゃなくて、ラグを狙ってると言ったが、姫子の目的はあくまで自分で、即ちそれは、黒百合ヶ丘の本当の目的も、あくまで自分なのではなかったのか。

自分の弱点はラグだ。

だからラグを陥れることで、黒百合ヶ丘は自分に“復讐”ができる。

自分の過去の過ちが原因で、だから黒百合ヶ丘はラグを巻き込むことで、今までの腹いせにやったことだと思えば、その動機は理解はできる。そして姫子は、叶わなかった想いが原因の人間、つまりライバルを蹴散らすことができる。

2人の利害が一致することによって、一石二鳥の結果になる。

……違う。何かが噛み合わない。

2人のターゲットが一致していても、それぞれの本来の目標が異なっている。

姫子はなんのために黒百合ヶ丘を使い、黒百合ヶ丘はなんのために姫子に使われたのか。

黒百合ヶ丘が自分に復讐を望んでいても、姫子に支配されながらも赤の他人であるラグに的を定めている理由が――そこまでする・・・・・・理由がわからない。いくら復讐のためとはいえ、“美麗”を道具として・・・・・使ってまで・・・・・黒百合ヶ丘がこんなことをするとは思えない。

姫子に関しても、こっちに帰国することが困難になったのなら、自分が素直に本人のもとへ行けば事は丸く収まるはずだ。いつまでも嫉妬心を剥き出しにしなくてもいいはずだ。

なのにどうして、こうなった?

一体、何が、どうなっているんだ――。








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「煢然の鬱金香。火輪の雲隠れ」


2018/06/30

Produced by KIYUMI TERANAKA

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