20° 秋季。秋風邪。夏枯れ




4月下旬。

秋の季節に突入して早1ヶ月が経った。時間の流れは早い。来週にはもう5月になる。

今日はあいにくの雨だ。珍しく湿気があまり無く、気温も下がっていて蒸し暑さは無い。

そんな天気の日、どこか虚ろな表情をしている、島谷真夏。

今朝から止まない自然現象。早朝の天気予報では、7時30分から始まり、夜まで続くと予報していた。時間通りに雨が降り出したのにも関わらず、島谷は傘を差さずに家を出、登校の途中で濡れるはめになった。

鞄を脳天に被せて走ってきたはいいものの、思っていたより大粒の雫が天から注がれたので、守備できたのは頭部だけだ。しかも替えの服を所持していないため、着替えることも出来ず、この気温では上着を脱ぐことも出来ず、湿った服を着衣したまま過ごすこととなってしまった。

凍えている風など決して見せはしないが、内心では困っている。こんなことならば、予備の制服をきちんとロッカーに入れておくべきだった。

気付けば、ぼーっとしていることが多々あった。下校時間となった今も、雨雲を見つめる視線を逸らせない。

各々が部活、家路へと足を運んでいる中、島谷の背後から物柔らかな声が掛かった。


「やあ、島谷さん」


声や呼び名からして、いつも親しくしている取り巻きたちではない。


「夜闇くん」


思いも寄らなかった対面に、島谷の機嫌が少し晴れる。

晃月夜闇。袖なしのプルオーバーと青いパンツに、赤いネクタイ。白いシャツには皺がほとんど見当たらず、ネクタイが曲がっている様子は1ミリもない。ここまで制服を完璧に着こなす人は、中学生では珍しい。

同じクラスとはいえ、あまり口を利くことはない。彼は単独行動が多いので、2人きりになる機会はあまりない上に、話題性も無い。彼は何が好きで、何が嫌いなのかもほとんど知らないので、話し掛けようがない。

ゆえに、彼から声を掛けてきてくれたことには、驚いた。

笑顔が素敵な彼。これからどんな会話が繰り広げられるのかと、胸を膨らませたが。


「今日は珍しく、打たれてきたんだね」

「……え?」


いきなり趣旨不明なことを言ってきた。


なんのことかと問い出そうとした矢先、続けざまに、


「蕾が出てきたね」


と、加えられた。

蕾、ということは、花壇のことを指しているのだろうか。そういえば花が好きだということを、どこかで聞いたことがある。

自分は花に興味がないので、この話題を広げるのは難しいが、彼と話ができる貴重な時間だ。興味のあるふりでもして、彼との談話を少しでも楽しみたい。


「マリーゴールド、かな」

「え?」


花の種類だろうか。まったくもってそういうことには疎い。


「それって、花の名前なの?」


きょとんと首を傾げる自分に対し、夜闇は天使のような微笑を浮かべて。


「キミの嫉妬心が崩壊したときか、それとも消え去ったときか。その蕾が開花するのは、一体全体どっちの要因だろうね」


嫉妬心? 自分が誰かに嫉妬心を抱いているとでも言いたいのだろうか。

そんな人、誰一人――。


「ああでも、どうかな……君は雨に打たれるの、好きじゃないみたいだね……」


途端に、夜闇がうら淋しい表情を浮かべた。

そう告げると夜闇は、自分の横を通り過ぎようとする。

ほとんど受け答えが出来ないまま、会話が終わってしまう。引き止めたいと思って言葉にしようとしたが、それよりも先に夜闇に遮られた。


「黄金の花とも言われてるんだ。咲かせないのは勿体無い」


意図が掴み兼ねず、ちんぷんかんぷんな内容に、リアクションすら示せなかった。

何故、彼は花の話をしたのか。黄金の花と呼ばれているマリーゴールドとはどんな花なのか。何故、それを自分に話したのか。そして何故、自分が雨に打たれることが嫌いなことを見抜いたのか。

今朝はたまたま、寝坊をして天気予報を見る暇がなかった。昨日の予報だと、曇ってはいても雨は降らないはずだったから、心配していなかった。だから、傘を持たずに家を出た。

それがこの様だ。


(……考えすぎか)


雨水に濡れるのが嫌いな連中なんて、自分以外にも大勢いるだろう。少なくとも、人間は雨の日に傘を差しているのが普通だ。誰が好き好んで濡れて行くというのだ。

濡れることよりも、そもそも雨自体が嫌いだ。

大好きな体育の授業が、体育館でやることになるからだ。カラッとした日差しの下で体を動かすから、運動というのは気持ちの良いものだ。電気の設備はそれなりに良いが、それでも薄暗い体育館で運動だなんて、何が楽しいのか。

やるだけマシではあるが。

「じゃあね、島谷さん」そう言って、手を挙げて颯爽と去って行く夜闇の背中を呆然と見送っていたとき、意識がくらりとした。

一瞬、頭を抱えそうになったのをグッと堪えてから背筋を伸ばして、自宅への道のりを歩き出した。




***




翌日。

ムスッと頬を膨らませた島谷真夏は、保健室のベッドで胡坐をかき、赤っ面で脇に水銀体温計を挟み込み、体温を測定していた。

風邪だ。不覚にも風邪を、引いてしまった。

だが、この気振りの原因は、風邪のせいだけではない。


「あんなどしゃ降りの中、傘を差さないで帰ったりするからだぜ」

「しょうがないじゃない。傘を持ってきてなかったんだから」

「忘れたの? 相変わらず抜けてんなー」

「しっつれーね! 天気予報を見てないだけよ!」

「見ろよ……」


ベッドの側で、パイプ椅子に腰を掛け、濡れたタオルを絞っているのは、たまたま熱で倒れこんだ本人を運んだ当本人、田代祐二であった。

しかし、島谷にとっては非常に迷惑な好意だったようで、それで不貞腐れているのだそう。


「てか、何であたしがアンタなんかに看病されなくちゃいけないのよ。先生を呼んできて、先生を」

「だって居ねぇんだもん。俺だって、病人を打っ遣らかす非人情だったら、お前の看病なんてしねぇよ」

「先生が居ないなら一人にしてよ。アンタと居ると寒気が増して体が保もたないわ」

「心配しなくても、可愛気も色気も無い子を襲う趣味は無いから。命拾いしたな、喜べ」

「悪かったわね! 女っ気無くて!」


田代のドスケベさには、全校の女子が引いている。

水浸しにされたタオルを田代から奪い取った島谷は、攻撃力が増した布を田代の顔面に叩きつけた。文字通り、その力はビンタとほぼ変わらない。「痛ってぇ……!!」

つっけんどんにあしられるも、田代は先の非情な仕打ちをスルーし、ポケットから携帯を取り出した。


「ご両親に電話しなよ」

「2人とも勤務中よ。会社から出てこられる訳ないじゃない」

「娘が倒れたってのに駆けつけてくれない親なんて居んのかよ」

「あたしの親はそういう人達なの。知ってんでしょ」

「…………」


なんて、無慈悲な親なんだ。


(いやまあ、俺の母ちゃんも迎えに来てくれなそう……)


そういう意味で、こいつとは、あまり変わらないか。


「てか、お前、足くらい閉めろよ」

「は?」


不意に、胡坐をかいている島谷のスカートに目が行った。


「目のやり場に困るだろ」

「スケベ!」


咄嗟に、胡坐から正座に切り替えた。


「俺はドスケベだが、今のはお前が悪い」

「人のせいにする気!?」

「当たり前だろ。男は皆スケベなんだ」

「あんたはいっつも屁理屈ばっか言って!」

「屁理屈じゃねぇ。条件反射だ。言い換えれば、女の生理現象みたいなもん」


その証拠に、田代は島谷に自分が実際に経験した奇妙な出来事を語り出した。

その日は風が強く、天気もあまり優れていなかった時のこと。山梨と外を歩いていると、2人の女子とすれ違った。

一人は、顔に似合わずミニスカートを履いていた不細工な女子。

一人は、胸を強調させる衣服と長いスカートを履いていた美女。

無論、この段階では、男共の視線は美女のほうへ泳いでしまう。

しかし、この後、自然の風起こしによって、その目線が逆側へと移動してしまうことに気付かされる。

風度自体は強くないにしても、ミニスカートは容易にめくられ、ピンク色の下着が視界に映る。一方は、丈が宙を舞いながらも、ギリギリのラインで留まっていた。


「顔は下の下でも見てしまうということは、男という生き物は性に執着しすぎているということだ」

「そんな真面目に語られても、どういう反応をすればいいか分かんないわよ……」

「女子共は皆、清楚で可憐な“王子様”を夢見ているが、それこそが“異例”だ」


何はともあれ、男は皆スケベだということは、島谷の脳裏にインプットされたようだ。

それでも、田代の話は、何故か止まらない。


「知ってっか? “エッチ”って言葉は実は明治時代から、性的な隠語として女学生の間で使われたんだぜ。しかも、大正時代には同性愛者を意味する隠語だったらしい」

「誰が聞いたのよ! アンタ、テストの点数は低いくせに余計なことには詳しいのね!」

「1952年頃からは、いやらしい男を意味する隠語として日本の女子大生の間で使われてて、“変態”のローマ字の頭文字、つまり「H」が語源とされたって」

「だから聞いてないっての!」


「何で女の子は、もっと“性”にオープンにならないんだろ」という不満をぶつけると、島谷は「ならなくていい!」と怒鳴り返した。その勢いに、つい咽てしまった。

ゲホッゴホッと咳き込む島谷を少し弄りすぎたと反省しながら、田代が問う。


「家まで送ってってやろうか?」

「なんであたしがアンタなんかに送迎されなくちゃいけないのよ。一人で帰れるわよ」

「阿呆か。38度以上もあんだぞ。まもとに歩けるか。しかもこんな雨の中」


測定し終えた島谷が取り出した体温計をピラピラと振りながら忠告するも、「だからってなんでアンタと下校しないといけないの。友達に連れて帰ってもらうわよ」と、あくまでも自分から身を引くための理屈を連発される。


「可愛くねぇなぁ。こっちだって願い下げだよ」


けっと吐き捨てたタイミングで、保険医が室内に戻ってきた。「あら、島谷さんと田代くん」

黒髪を後ろへ束ねた眼鏡の保険医が、すぐに島谷の異変に気付いた。


「島谷さん、具合が悪いの?」

「熱が、大分」

「珍しいわね。気候なんかで風邪を引くような体質じゃないでしょう?」

「そうですね」


島谷の額に熱冷まシートをペタリと貼り付け、にっこり笑って、「ご両親に迎えに来てもらいましょうね」と、受話器に手を掛けるが、島谷の両親が仕事を放棄できないことを伝えられ、困惑するように電話から遠ざかった。


「だから、友達に連れてってもらおうかと」

「わかったわ。じゃあ、よろしくね、田代くん。島谷さんを無事、家まで送ってあげてね」


2人して、目を丸くした。「え……!?」

この状態で「友達」と口にすれば、隣にいる田代のことを指している事となる。


「あ、いやっ……こいつのことじゃなくて……!」


島谷は慌てて否定するが、当の本人は、「じゃあ私、鞄を取ってきてあげるわ。ついでに先生に早退しますって伝えておくから」と言い残して、保健室から再び去っていった。

こうなってしまった以上、田代を別の友人と交代させることは出来なくなった。止むを得ず、戻ってきた保険医から鞄を受け取り、2人は見送られる。

島谷は田代のことを人間として認めていないが故に、警戒心MAXで本人にびしっと指を差しながら、「いい? 半径3メートル以内、あたしに近付かないで」と、突っ撥ねった。


「はいはい……」


田代は傘を差し、言われたとおり、島谷から3メートル近くまで隔離した。

開いた傘を自分の真上に差して、足を一歩踏み出すと、くらっと目眩に襲われ、膝を付いてしまった。

手足が汚れてしまったことによって向かっ腹を立て、後ろにいる田代に当り散らす。


「受け止めなさいよ!」

「近付くなっつっただろ!」

「受け止めて離れなさいよ!」

「オメーは面倒くせぇな!」


やっぱ女って分かんねぇ……!

島谷の専横な振る舞いに、田代も烈火のごとく怒り散らす。

仕様がなく、田代は島谷に添って歩き、2人は校舎を抜けた。

ここで、熱気と寒気によって身体を蝕まれる島谷がくしゃみを吐き出すと共に、水洟まで飛び出てしまい、咄嗟に上を向いて、田代に見られないように手で鼻元を覆う。

鞄の中から慌しくポケットティッシュを取り出すが、残念なことに、中身は空っぽになっていた。


「これが欲しいのか?」


ニヤニヤと手にティッシュをピラピラと見せ付け、不了見な態度を表した田代。

島谷は体勢を維持したまま、目線を下へ泳がせ、田代に命じる。


「貸しなさいよ」

「それが人に物を頼む態度か?」

「いいから、貸しなさいよ」

「嫌だね。袖で拭けよ」

「はあ!? 汚くなるじゃない!」

「汚い顔と、汚い袖、どっちが良いと思う?」

「なによ! ケチね!」


ティッシュもハンカチも無ければ、止むなく、島谷は袖でごしごしと鼻元を拭った。

自分の意地汚さに不甲斐なく思う島谷は、恥辱のあまり、拳を握り締める。挙句、田代から受ける邪険な扱いは、こんなことでは終わらなかった。


「はっはっは、ガキの頃の鬱憤を晴らしてるのさ。お前から数え切れないほどの被害を受けている俺は、お前を家に送りつけるまえでの間、存分にささやかな復讐をしてやるのさ」


昔の話だ。

島谷が忘れ物をしたときは、決まって田代の所有物から横取りをする。教室に入ろうとして黒板消しを頭に落とされたり、廊下ですれ違ったときに足を出されて躓いたり、恥ずかしい写真を皆にばらされたり、庭の掃除をしてるときにホースで水ぶっかけられたりなどと。

このように、不心得な損害ばかり受けている。


「よく覚えてるわね、そんなこと」

「“そんなこと”!? “そんなこと”だと!? お前、まさか一つも覚えてないとでも言うのか!?」

「悪戯なんて、色んな人にしょっちゅうしてるから、いちいち誰に何をしたかなんて覚えてないわ」

「お前のは悪戯なんて可愛いもんじゃない!」


記憶力に欠ける島谷に落胆するも、本人の不運は風邪と転倒だけで止まることはなかった。

駅までの道を歩き続けていると、路上にできた水たまりの上を自動車が通過し、激しい水しぶきが上がり、付近を歩行していた島谷の衣類を汚す。幸い、壁際を歩いていた田代に、水は届かなかった模様。

足元も靴がびしょ濡れになり、「あっはっはっは! ざまぁねぇ!」と、他人の不幸を笑う田代の側で、島谷は肩を震わせながら奥歯を噛み締めた。


「なんだ、お前、今日は全然ツイてねぇなあ。いつものバチが当たったのかも」


笑いで滲んだ涙を親指で拭った田代は、「ほら、行くぞ」と島谷を呼びかけ、再び歩行開始。

無言のまま歩き続け、ようやく駅に到着した。


「ここでいいわ。帰って」

「いや、それは出来ないね。先生に“家まで無事に送り届けてね”って頼まれてるんだから」

「……なんでそんな楽しそうなのよ」


田代が帰りたがらない理由は、あくまで島谷の不幸を眺める為である。


「今度は傘が壊れるか、あるいは風に飛ばされるか。ドブにでも足突っ込んで靴下が泥だらけになるか。想像するだけで、面白くてしょうがない。あ、電車ん中で痴漢に遭ったりするかも」

「…………」


島谷に有無を言わせず、田代も駅のホームまで付いていった。

熱冷まシートを使用しているとはいえ、雨の冷気、濡れた服の水気によって真夏の熱度が上昇し、意識が飛びそうな中、島谷は必死に心身を保ち、耐え続ける。

5分後にやっと電車が到着し、田代と共に乗車。


(なんでこいつと電車にまで……)

「今、“なんで俺と電車にまで乗らなくちゃいけないんだ”って思っただろ」

「残念。“乗らなくちゃいけないんだ”とは思ってないわ」

「言ってることは同じだろ。お前、細かいこと気にするタイプだっけ?」

「ちょっとしたことでいいから、何とか言い返そうとしてるだけよ。いちいちムカツクから」


つり革に手を通し、揺れ動く身体を両足でバランスを取る。


「にしてもお前、恥ずかしい格好してんなあ。大勢の前で、あー恥ずかしい。鼻水もまだ止まってないみたいだし、何もないとこで転ぶわ、車に水はぶっかけられるわ――」


事細かに物事を弄り倒してくる田代に、最早、口を利くことも止めた。

隣でニヤニヤと嘲笑が止まらない本人に対し、島谷は心の奥底で「治ったら、もっと虐めてやる」と、思い定めるのだった。

そして、電車が出発して数分後。田代とは口を利かなくなった。

さすがに限度が近付いて来たのか、ぼうっとしている様子の島谷。

つり革を掴む力も弱まり、震える体と火照っている顔が先ほどよりも目立ち、息も上がり、顔をうつむかせ、立っていられるのが精一杯な状態で、窓から見える駅名を確認した。


(次の駅ね……)


隣に、田代が付き添ってくれていることも忘れてしまう程、疲れ果てている。

早くついて欲しい。心の奥でそう呟いた、次の瞬間――。

臀部に、違和感が。


「……?」


気のせいだと思い込んだが、再び、同じ場所に違和感が。


「……!」


誰かの手の甲が、後ろから当たっている、かもしれない。

もしや――と、思い煩いながらも、大勢の人が乗り込んでいるゴンドラで、誰かの手の甲が当たっていることは、“そういうことでは無いのかもしれない”とも考えられる。

が、その手がくるりと回転し、決定的な動作で、するりと摩擦してくる。

島谷は抵抗しようとしたが、熱のせいで上手く力が入らない上に、緊迫のあまり手を動かせない。

撫で具合は、次第にエスカレートし、こうなれば大声を出して、助けを求めようとした。

その矢先――。


「 !! 」


手がスカートの中に入り込んできた。瞬間的に、きゅっと両腿を締め付ける。

痴漢行為を受けるのも十分な羞恥だが、実際に自分の臀部が露出した状態を他人の目に晒すのは更に屈辱的。島谷は、それを避けるように声を上げず、どこまで触られるのか分からない状況で、ただ唇を噛み締めた。


「……っ」


涙が出そうになった――その時。

痴漢を働かせていた手が、急に離れた。



「何してんの? おっさん」



つり革を掴んでいる脇の下から覗くように、隣へ顔を向けると――。


「くっ……!」


小声で喘ぐ中年の手首を、田代が掴み取っていた。

下で掴み取った手を上げ、捻るようにしながら、ぎりぎりと締め付ける。

ひっそりしていた車内で、田代の掛け声に気付いた乗客達が、ジロジロとこちらを覗き込んでくる。

男は、最大のピンチに飲み込まれたと、身に危険を感じていた時――絶妙なタイミングで電車が止まり、プシュ~と音を立て、扉が開いた。

田代は罪人を逃がすまいと手の力を強めたが、男は力強く手を振りほどき、人ごみの中をかき乱して逃げて行った。「あ、こら、待て!」追いかけようとしたときには、すでに扉が閉まってしまった。

ドアが閉まり、周辺は何も起きなかったかのように、再び静寂へと身を委ねる。

その間、島谷は俯いた状態で、スカートを片手で整え、誰とも目を合わせなかった。


「…………」


田代は、無言で島谷を見詰めるが、本人に反応は無い。

さすがに、ここは空気を読んで、声を掛けるなら、次の駅で下りてからと決めた。

そうして、目的地でもない駅で下車。


「まさか本当に痴漢に遭うたぁな。……大丈夫か?」


返答はない。

これ以上は、先の出来事に触れず、田代はとにかく島谷を家に帰す為、「行こうぜ」と誘った。

島谷の前を歩き出し、階段を下りようとした途端――ようやく本人が口を開いた。


「べ、別に、あんたに助けてもらわなくても、自分で何とかできたし……」


照れ隠しなのか、強がりなのかは定かでは無いが、痴漢は犯罪だ。

いつも粋がって他人を損害している、その意地の悪さには誰もが困惑する気質の持ち主でも、第一に、「島谷真夏」という人間は“女”である。


「……声、震えてるぞ」

「ふ、震えてない!」

「泣きそうな顔してるけど」

「泣いてない……!」


犯罪並みのセクハラは、島谷にとっても“屈辱”であることは、男の田代でも理解はできた。

元々、弱いところは一切見せたことのない島谷の、こういった嘘はバレバレである。そして、その強情っ張りな態度も、やはり崩されることはなく。


「ここからは、一人で帰るから」

「ちゃんと家まで送る」

「一人で帰れるってば」

「お前、足ふらふらだぞ。顔もさっきより赤いし。一駅越したから、帰り道も遠くなったし」

「放っといてよ! 一人で帰れるって言ってるでしょ!」


なかなか引かない熱で怒鳴り散らした為、息が上がってきた島谷。

ムキになるところも、田代の推理では“嘘”とみなされている。


「やっぱ気にしてんだろ? さっきの」

「してないわよ!」

「じゃあ、何でさっきの駅で下りなかったんだ?」


痛いところを突かれ、一瞬、息詰まった後、「ぼっ、ぼーっとしてて……!」と、即座に答えるも――。


「お前って、意地が悪いだけじゃなくて、詰まんねぇとこで意地張んだな。そんな無茶しなくたっていいのに」


女垂らしでドスケベの田代の口からは聞きたく無かった一言。


「お前だって、女の子なんだからさ」


“自覚しろ”と言われているみたいで、無性に腹が立ち、田代の腹部にパンチを入れた。「ぐお……!」


「お、お前……!」

「ふん、そこらの女子と同じにしないで」

「二度も助けてもらいながら……!」


ぷいっとそっぽを向いて、島谷は一人で帰宅しようとするが、それでも田代は後ろから付いてくる。

「だから来ないでってば!」と、今度は脇腹に蹴りを入れる。「うぐ……っ!」

殴打された部分を両手で押さえながら、よろよろとした足踏みで、とうとう理性が切れた田代は悪口雑言を述べた。


「セクハラで弱ってたくせに……! 道端でぶっ倒れて冷え性で死ねテメェなんか……!」

「そんな柔じゃないわよ。余計なお世話。てゆうか、ここまで送って貰ったことに迷惑してるんだから。今度こそバイバイ」


田代に背を向け、一人で階段を早歩きで下りて行った島谷の姿は、すぐに見えなくなった。

一人、置いてきぼりにされた田代は、腸が煮え返る思いで、わなわなと拳を震わせ、「マジで可愛くねぇ!!」と空へに向かって叫びながら、近くにあったゴミ箱を思い切り蹴り飛ばした――。







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「塵となれ、過ぎ去りし紅の葉」


2018/04/21

Produced by KIYUMI TERANAKA

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