03° 嫋やか、艶麗な令嬢
6月上旬。曇り。
F1とF2を繋ぐ階段にて。
「でさー、あいつったら、あれくらいで号泣!」
「えーまじー? どんだけ泣き虫なんだよ」
学園のエントランスを通り越し、F1へ続く階段を上がっていく1人の女子。彼女は、愉しげにくっちゃべっている2人の猪口才な話に耳を傾けた。2人のボリュームは、裏階段まで聞こえてくる。悠々とした足取りで段々を上がり、F1へ差し掛かった。
「ていうか、あの髪の色まじ有り得なくね? あれが地毛ってホントかな?」
「あれが地毛だったら宇宙人かなんかじゃね? きゃはは」
「どこの惑星の宇宙人だろ。今度、あいつの髪の毛抜いて調査してみる?」
「火星にでも行く気ー? そういえばあいつのプロフって謎だよねー。どんな生活してんだろ」
「両親にも苛められてんじゃね? うちも怒られてばっかだけど」
段差の中央に座っている2人は、F2へ上がろうとする他の生徒たちの邪魔になっても気に掛けようとはしない。
彼女たちは、島谷真夏の取り巻きたちだ。先輩らでもあまり相手にしないほど、その素行の悪さは学園内で知れ渡っている。先輩に注意されても、彼女たちは生意気を働かせる。取り合うだけ無駄ということで、存在自体を受け流す者が多い。
迷惑そうに階段の端っこを通っていく中、例の女子が、ピタリと彼女たちの前で足を止めた。
その気配に、取り巻きたちも談笑を止め、彼女を見上げる。
「まるで挙ってくるゴキブリのようね。逆に立場になってはいかが? 経験上、どれだけ気持ち悪いのか、そして、どれほど鬱陶しいものか、詳しく語ってあげましょうか?」
ぴしっと、凍結したアトモスフィア。
取り巻きたちは、目の前の人物の正体を見破った途端に、たらりと汗を流した。
「通行の妨げよ。おどきなさい」
水を打ったように静まり返った場に、凍るような眼差しで睨みを付ける女子生徒。
彼女の後に続いてきた生徒たちはその背後で歩行を止め、すでに取り巻きたちの横を通り過ぎた生徒たちも彼女の声色に振り返り、みな、ごくりと固唾を飲み込んだ。
「も、申し訳ございませんでした……!」
取り巻きたちは慌てて立ち上がり、頭を下げ、言わたとおり道を開ける。
取り巻きたちに圧力を掛けた女子生徒は、開かれた道を、長い髪を掻きあげながら、颯爽と通りすぎていった。
***
その数時間後。
F1のロッカー前にて。
「なんですかソレは――!」
「濯いでも落ちなくて……」
おそらく、ラグたちのクラスが体育の授業を受けている間にされたであろう悪戯。紺色のブレザーの裏には、真っ白なペンキで「泣き虫」と書かれていた。初めは筆箱やノートといった細々としたものにやられていたが、今回はエスカレートしていた。うるうると涙を溜めるラグを、どう慰撫したらいいのか分からず、大城はおろおろする。
犯人の目星はついていた。
更にはブレザーに落書きをされる前、女子トイレにて、犯人は泣きそうな顔で素直に仕業を受け入れるラグの髪の毛をぐちゃぐちゃにし、愉色を浮かべながら苛めていた。挙句には「アタシ、あんた見てるとすっごいイライラすんのよねー。地味で泣き虫だから」と、面罵。
その外見は、制服の着こなしが乱れていて、茶髪のショートヘアーが印象的である。
――
学園の女子の中で、意地の悪さは断トツ。
大城もまた、彼女の被害者となったことが幾度となくある。そのときの大城は、壁に背を預け、島谷の素行に臆し、抵抗はおろか口答えする勇気もなかった。
そしてあの女子トイレで、ラグが島谷によって苛められている様子を目撃したが、助けてやるべきだと自分に言い聞かせても、心ではそう思っていても、体は正直だった。
相手が女子とはいえ、力でも言葉でも勝てない。泣きじゃくるラグをただ見守っているだけだった。己の無力さを情けなく思いながら、大城の手足が震える中、
「ご機嫌麗しゅう、可愛いお嬢さん」
赤い薔薇に口付けを交わしながら、華々しく登場したラグの双子の弟こと、リマ=バケット。
目を背けていた大城の隣をすっと横通り、堂々と女子便へ足を踏み入れた。彼の周りに美しい棘がある薔薇が咲き乱れ、甘ったるい芳香が漂う。
「美女の微笑みは俺様の剣。けど、可愛い姉の泣き顔は諸刃の剣――」
にっこりと、リマの爽やかな笑顔が島谷に向けられた。
「ぶん殴るよ?」
その目は、笑っていない。
普段、女子には優しいリマでも、最愛の姉を苛める女子は許さない。
ささやかな復讐を成そうとした時――。
「あ、あんたは、あのサディストと戦ったという……!」
オーバーなリアクションを取った島谷に対し、大城とリマの目が点になった。「……え?」
1歩後ずさった島谷は汗を垂らしながら、リマの怒りを抑えるように両手を伸ばした。
「わっ……わかったわ。あんたがそこまで言うなら、今回は手を引いてあげる」
「いやまだそこまで言ってねぇよ。でも逃がすつもりもない」
バキボキと手を鳴らしながら、島谷に近づくが。
「逃げるが勝ちよ!」
そう言って、島谷は駆け出した。
最愛のラグを甚振られ、黙って見逃す訳にはいかなかったリマは、「俺のモットーは、目には目を、歯には歯をなんだぜ!」と、島谷が側を通り過ぎた瞬間、そのスカートをがっちりと掴み取る。
島谷の口から、野太い声が放たれた。
「ちょっとおおおお」
「うわ、だっさー。島谷、見かけによらず子供っぽいもの履いてんだねー」
力いっぱいスカートを引っ張りながら、可愛らしいわんこがプリントされた白いパンツを、死んだ目で嘲笑するリマに。
力いっぱいスカートを押さえながら、羞恥心で顔を真っ赤っかにし、憤慨した島谷は「放しなさいよ!!」と、本人に目潰しを食らわせた――。
「――懲りないな、島谷のやつ」
はぁっと盛大な溜息を吐きながら、落書きされたブレザーを眺めるリマ。
「まだ島谷さんだと決まったわけじゃ……」
「こんな陰湿なイジメはあの女しかいないでしょ」
ラグからブレザーを取り、じっとりと眺める。
「ブレザーはもう1着あるけど、ほんっとムカつくなー、あの女。今度あいつのスカートびりびりに破いてやろうかな」
「そんなことしたら、またやり返してきますよ……島谷さんも対抗意識が強いですから」
忌々しい記憶に、リマは青筋を立てながらプルプルと手を震わせる。ブレザーにがばっと顔を埋め、
「これじゃあ、ラグとペアルックできなーい!!」
「そっち!」
華ヶ咲学園のユニフォームは、ブレザー・Vネックベスト・シャツ・ネクタイ・スカート・パンツ・靴下・靴で組まれていて、シャツと靴意外はそれぞれ3種の色がある。制服のデザインはシンプルだが、各々、好きなコンビネーションをして登校できるシステムとなっている。ちなみに色彩は、ブレザー、ネクタイ、アンダー、レッグウェアは赤・黄・紺。ベストは黄・青。シャツは白、靴は茶のみとなっている。そして胸元にバッジをつける風習があり、学年ごとに色が異なっている。1年生はブロンズ、2年生はシルバー、3年生はゴールドのバッジが与えられる。
大城に軽く突っ込まれたリマは、一旦この件を後回しにすることにした。
職員室に用があるという大城は、「よいしょ」と大量のプリントを抱えるが、その両腕は頼りない。
「僕はこれを職員室へ持って行かないといけないので」
「……途中でプリント散らかしてるのが目に浮かぶ。半分持ってってあげる」
「ありがとうございます。助かります」
「行こう、ラグ」
大城からプリントを半分受け取りながら、背中で声を掛けるリマ。
しかし、当の本人から返ってきた言葉は。「……私、先に屋上行ってる」
「……え?」
意外な返事に、リマが戸惑う。
「待ってるから……」
そう言って、リマたちを振り返るラグに、リマが足を1歩前に踏み出す。
「え、ラグ、待っ――」
瞬間。
ちゃぷり、と。
目の前で何かが揺らいだ。
「……?」
一瞬、それに気を取られ、気付いたときには、ラグの姿はなかった。
「……行きましょうか、リマくん。早く運んで屋上へ急ぎましょう」
名残惜しそうなリマの背中を見て、大城が優しく声を掛けた。
一方でラグは、2つのお弁当を持って屋上へ。
すぐ側にある最上階への階段を上がる途中、背後でラグの姿を見かけた2人の女子が、ニタリと笑みを刻み、そっとその後を追った。
灰色に染まった空の下で、ラグはベンチに向かうも――。
「ねえ、ちょっと」
ハッと、その声に振り返った。
嫌な笑みを浮かべて近づいてくるのは、島谷真夏の取り巻きたち。
午前中、女子トイレで島谷真夏と対面したばかりなのに。この仕打ちはあんまりだ。
「あんたんとこの弟にセクハラされたって、真夏が恥かいてんだけど?」
「…………」
足が竦んで、その場からまったく動けなかった。
「姉弟揃ってうざいわね」
ピタリとラグの目の前で足を止め、口を噤んでいるラグにイラッときたのか、「なんとか言ったらどうなのよ」と、その小柄な身を押し倒そうとする。ラグはお弁当を落とさないように用心しながら、取り巻きの力に何とか踏ん張った。
そこへ――出入り口の先にある階段から、誰かが上ってくる。
カツン、カツン、と、その音は徐々に大きくなっていく。
取り巻きたちはその物音に気付かず、嘲り笑いながら、ラグをフェンスへと追い込んだ瞬間――扉が開かれた。
「天気が覚束ないわね。雨でも降るのかしら」
その声に、真っ先に気付いたのは取り巻きたちだった。
振り返ればそこには、姿色端麗な女子生徒がいた。
ラグはその姿を初めて目にする。
ふわりと風を受け流す柔らかく美しい赤色の絨毯。美しい顔立ち。背が高くスレンダーで、ほっそりとした長い脚。華ヶ咲学園の制服が安っぽく劣って見えるほど、その風柄は美妙だった。深紅の毛並みと瞳。青いブレザー、黄色いベスト、赤いネクタイ、赤いスカート、青いソックス。
中学生とは思わせない美貌を誇る美女の登場に、取り巻きたちは顔を強張らせた。
“あの男”と同じ、この学園で知らない者はいない。
「あら、あなたたちは今朝の」
「ひ……姫子様」
「姫子」と呼ばれた女性が近づけば近づくほど、その目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ちが見えてくる。きりっと背筋を伸ばし、高雅な美声が耳にじわりと響く。
キレイな人――ラグは心の底からそう思った。
そんな自分とは裏腹に、取り巻きたちはどこか怖じ怖じとしている。
「あまり好ましい状況じゃないみたいだけど、もしかして、そちらが噂のお嬢さん?」
「い、いえ! この子は……そう! 友達です。今、一緒にお昼食べないかって……」
「あらそうだったの。だったら、私に紹介してくれないかしら。私、彼女にとても興味があるの」
そう告げられても、取り巻きたちは本人の名前すら知らない。この場をどう切り抜けられるのか、困惑した2人がお互いに顔を見合わせる。
「こいつは、姫子様のような人が気にかけるような子じゃないので……」
「
どこか棘を含むその声が、空気を張り詰めた。
「あ……私、そういうつもりじゃ――」
「誰に向かってそんな口を利いているの? 殺すわよ」
瞬時、その場にいる全員の背筋に悪寒が走った。
ラグは、対象を凍りつかせる低い声音、決して相手をねめ付けてはいない冷酷な瞳、流暢だが淡白な言動。その全てに見惚れ、彼女の姿を目録に収めていた。
「弱い者イジメは感心しないわ。弱い者イジメをするのは所詮、弱者。強者同士が戦い合うのだからこそ、争いは刺激的じゃないの。あなたは強いのかしら?」
「い、いえ……っ」
姫子から視線を逸らさずに、取り巻きたちはブンブンと顔を横に振った。
思わず裏返ってしまった声に、姫子は「あら、心外ね。女の子らしい、可愛らしい声が出るじゃない」と、笑っていない目で恍惚とした表情を浮かべる。
ゾクッ、とした。
何も言葉にできなくなった取り巻きたちは、逃走を図る。
「あ、あの……っ、私たち、これで失礼します!」
「あらそう、残念だわ。弱者相手に見苦しい発言ばかりしたわね。堅苦しい思いをさせてしまって、ごめんなさい」
その背中を見送りながら、意外にもあっさりと姫子は取り巻きたちを逃がした。
ラグはただ呆然と、姫子と取り巻きたちのやりとりを見ていた。この時ラグは、取り巻きたちを少し気の毒に思いながらも、赤毛の女性に気を取られていた。何故なら、あの取り巻きたちにあんな真似をしておきながら、なんの揺るぎもない平坦な表情をしているからだ。
誰かに、似ている。
「人は、上には上がいるという現実を1度受け止めると、劣等感に打ちひしがれ、自分がどれだけ相手の足元にも及ばないのかを知らされる。浅ましいわ」
見えなくなった取り巻きたちにトドメを刺すように、出入り口に向かって独り言を零した。
さらりと髪をかきあげ、姫子は優雅な足取りでラグに近寄っていく。ラグは少し焦ったが、不思議と取り巻きたちのように抱いていた恐怖心はなかった。
そこへリマと大城が、屋上に到着した。
「ラグ~! お待たせ――って」
ラグと一緒にいる人を見て、リマは首をかしげ、大城は驚愕した。
姫子は無表情で2人を振り返る。
「えーっと、どちらさまでしょうか?」
「
「先輩でしたか」
姫子のブレザーの襟元には、金色のバッジが付けられている。
ラグの隣に並ぶリマと大城。姫子は表情には出ないものの、腰に手を当てながら物珍しそうにラグとリマを見詰めた。
「凄い髪色ね。噂される理由が今、わかったわ」
それが、ラグとリマに対しての第一声だった。
自分たちの髪色に関しては、小さい頃からよく言われてきたことだ。
「本当に地毛?」
「は、はい……」
「信じられないかもしれませんが、地毛です」
「もしかしてコンプレックス? だったら、ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です……」
周囲の人間は当然のように「嘘だ」「有り得ない」と返し、説得するのに時間が掛かったりするが、桃源姫子はあっさりと信じてくれた。この世のものとは思えないものを見るように、顎を抱えながら興味津々に2人の毛色を眺めている。
あまり長く見られたいものではない。その視線に気まずくなったのか、ラグは話を切り替えるように、丁寧に頭を下げ、先ほど助けてくれたことに対して礼を述べた。
「あの、さきほどは、ありがとうございました……」
「ああ、いいのよ。大したことはしてないわ」
「え? さきほど? なにかあったの?」
事情を知らないリマは、1度ラグのほうを見て、ラグの代わりに「品性下劣な女子2人に、この子が苛められていたのよ」と答えた姫子に視線を移してから、再びラグに顔を向けた。
「なに!? また島谷のやつか!?」
「島谷さんじゃないけど……いつも一緒にいる2人に……」
「ああ、あの取り巻きたちね。品性下劣という言葉が似合いすぎて感動してる」
今朝の島谷の素行といい、今回の取り巻きたちの素行といい、1日で何度も災難に遭うラグに、心配の色が尽きないリマは、がしがしと頭を引っかきながら彼女たちの顔を思い浮かべる。
「あなたはもう平気なの? 落ち着いた?」
「あ……はい。重ね重ね、ありがとうございます」
「どういたしまして。丁寧なのね」
決して笑みを見せたりはしなかったが、これが姫子なりの親切心なのだと、ラグとリマは見通した。
この短いやりとりの後、「それじゃ。私は行くわね」と言って、姫子は3人に背を向けた。
「結局、外の空気を吸うことができなかったわ」
そう不満を口にした後、彼女は姿を消した。
その姿が見えなくなると同時に、小さく息を突いてから、3人ともベンチに座ってお弁当を包んでいた風呂敷を開く。いつ雨が降るかもわからないような曇天の下で、3人は昼食を取り始めた。
ラグとリマが他愛ない話をする中、大城はいまだに驚きが絶えないのか、心臓がドキドキしていた。
そしてポツリと呟く。
「……凄い人に会いましたね」
「委員長、あの人のこと知ってるの?」
「お2人は転校してきたばかりなので知らないのも当然ですが、桃源姫子さんはとても凄いお方なんです」
「凄いって?」
「姫子さんは、桃源家のご令嬢なんです」
「ごれいじょー?」
「大金持ちのお嬢様ってことですよ」
「ええ!? そんな人がなんでこんな学園に!?」
「さあ……」
「桃源姫子」。
今回の触りとなる人物。
この学園で誰1人知らない者はいない、黒摩魔王と並ぶ有名人。
桃源姫子の家系は、この国の経済を支える、巨大な複合企業・寡占企業・多国籍企業の創業者である。そして、当の本人は、有数のホテルを傘下に収める一家の長女であり、高校を卒業した暁には、当主の跡を継ぐらしい。
華ヶ咲美術学園は、学名通り、美を専門とした学校だが、桃源姫子のようなセレブ級のお嬢様ならば、1流の美術学院へ在籍することが普通ではないのだろうか。
数学、国語、公民、理科、社会、体育、家庭科、などなど、何をやらせても完璧。言うまでもなく、姫子は成績も優秀で常にトップに君臨している生徒。
大人を敬意し、礼儀も謙遜も忘れない。この学園の教師からも支持を得ており、尊敬もされている。そして何より、この2流学園に、名高い1流の大金持ちが在籍していることが、学園にとって光栄なことなのだ。格差などに縛られず、庶民の生活に入り混じる気質などが好評。
女子からも、男子からも、その美しさと心の広さに憧れを抱かれている。彼女の存在を知っている生徒なら、誰でも同じ気持ちだった。
「ほんとに凄い人なんだね」
「そうなんです」
「でもなんでこの学園にいるんだろ」
「その辺はすべて謎に包まれてます」
「地獄耳でも知らないことってあるんだね」
「情報が耳に入ってこないことには……」
大城の解説を聞き終えた頃にはお弁当を食べ終え、3人は教室に戻ろうと屋上を後にした。
桃源姫子の家柄、人間性、そして人気。先ほど大城に語られたことを、リマは素直に信じたが、ラグにとっての彼女の印象は異なる。自分がイメージしていた“お嬢様”とはだいぶ違っていた。
さきほどの取り巻きたちへのあしらい方。無礼な真似をされてご立腹するのならまだしも、本人はしれっと「殺す」と恫喝を加えた。そしてあの取り巻きたちですら畏怖の念を感じる、冷血な瞳――。
「…………」
胸に残ったしこりが気掛かりだが、深く考えても致し方ない。
ラグは気持ちを切り替えて、リマと大城の会話に耳を傾けた。
F1へ向かう、その途上。
「あー。なんか面白ぇことねぇかなぁ……」
重々しい靴音を立てながら現れたのは田代祐二と、その隣を歩く山梨誠二だった。
田代祐二は、何やら不貞腐れていた。
黒摩の姿がないことは安慮であるが、その部下的存在である田代と山梨が生徒たちの前を通ると、辺りは不穏な雰囲気に包み込まれる。中には念のため、息を殺す者も居る。
サディストも恐ろしいが、この2人も別段の意味で恐ろしい。
山梨誠二は、黒摩ほど残酷ではないものの、無口で何を考えているのか判然としないため、その言動は謎に包まれている。女に手は下さずとも、ただ見ているだけの傍観者であり、助ける気配など無いに等しいからである。黒摩に捕らえられた者は、黒摩の気が済むまで耐え抜かなければならない。
田代祐二は、根っからの助兵衛として有名。喧嘩は強くないらしいが、セクハラを働かせることが多いので、女子の身が危険である。現に、ラグはこのケダモノの性的態度に日々苦慮している。
「……お?」
噂をすれば、本人が前方からやってくるのを発見した。
「ラーグちゃん!」
その小柄な身体に抱きつくと、ラグが「きゃっ!」と甘い声を漏らす。
「やっ……あのっ、はなしっ……放してください!」
「ねえ、今日暇ー? てゆうか、今暇? 1回でいいからヤらせて?」
スリスリとラグの頭に顔をうずめながら、腰と首に腕を回した。
そこを――。
「汚い手でラグに触るな!!」
「ふげえっ!」
リマに蹴り飛ばされた田代は、間抜けな声を漏らして鼻血を噴射した。
少し遅れて、田代と山梨の後ろから歩いてきたのは、このトリオのリーダー格である黒摩魔王。どうやら惰眠を貪っていたようで、大きなあくびをしながら脳天をガリガリと引っ掻き回している。彼の登場により、この通路の空間が一気に張り詰め、生徒らが声を押し殺した。
床に突っ伏している田代を見て、黒摩は声を掛ける。
「何してんだ、お前」
「黒摩さん! こいつがいきなり殴りやがったんですよ!」
鼻血を垂らしながらガバリと頭を上げた田代は、黒摩にそう訴えた。
「お前がその気にさせたんだろ」
「ラグちゃんに、ヤらせてって言っただけッスよ!」
「それがいけねぇっつってんだよ!」
リマと田代が互いに怒鳴り散らす中、黒摩は「へえ」と、田代が常にロックオンしているラグのもとへ。
自分より遥かに背の低いラグと目線を合わせるため、少し屈んで、ラグの左肩に右手を軽く置き、にやりと笑った。
「いいじゃねぇか、1発くらい。快楽はお前にも与えられるんだぜ?」
田代の発言に口を添えるように、ラグの耳元でそう囁いた。
黒摩の物言いが冗談に見えないラグは、息を詰まらせる。「……っ!」
その失言を聞き逃さなかったリマの中で、殺意という想念が頭をかすめた。
(こいつ……!)
加えて「聞いた?」と、ひっそり小言を零した女子の声がリマの鼓膜を突き破るように流れてきた。「前から思ってたけど、やっぱりサディストに目を付けられてたのね」「近付いたら私たちまで危ないわ」
黒摩に目を付けられるのは、誰だって怖い。
その気持ちを心の底で口にするならまだしも、あえて見せ付けるように苦々しい顔をして囁き合い、ラグに罵声と嘲笑を浴びせるかのような、良心の気持ちなど毛頭ない、その口調が腹立たしかった。
リマは放心状態になったラグから黒摩を引き離し、自分の腕の中に埋めるようにしながら、黒摩ではなく田代に向って中指を突き立てながら、こう言ってやった。
「ラグに卑猥なことしてみろ。テメェのやおい穴に定規をブチ込んでやる」
理解できない単語に、田代は小首をひねる。「……へ?」
語気の荒いリマの言い草を理解できなかった田代は、周りの女子にクスクスと笑われた。
「な……なんだよ、やおい穴って!?」
「言っとくけど、肛門じゃないからな」
とにかく、穴に定規をブチ込むというところまでは分かったが、その穴がどこを示してるのかが、わからなかった。
やおい穴の正体を暴こうともしなかったリマに、田代は周りの女子たちに問うしかなかった。
「ね、ねえ、何なのその穴って!? どこの穴!?」
女子たちは、はぐらかすようにただ「きゃ~」と悲鳴をあげる。
「くっそ~! これじゃあ、気になって夜眠れなくなるじゃん!」
ギリギリと奥歯を噛み締める田代に、黒摩が「くっ」と噴き出し、耐え切れなかったのか腹を抱えながら笑い散らした。
「え、黒摩さん、知ってるんですか!?」
黒摩は爆笑の末、涙で滲んだ目を指で揉み上げた。
「いいか、やおい穴っつーのはな、」
男に
それを聞いた田代は、何故かサッと自分の股間を両手で隠す。
「なんだ、お前。“腐れ用語”がわかるのか?」
「“腐れ女子”がいるからな」
黒摩とリマが無言で視線を合わせる中、その様子をただ黙って見ていた山梨は、この暇を持て余すように煙草に火を点けようとする。が、黒摩にそれを取り上げられた。
「校内で煙草はやめろ」
「すいません」
それだけ言葉を交わすと、2人は次の授業をサボってどこかへ行ってしまった。「あ、待ってくださいよ黒摩さん!」と、田代もその後に付いて行った。3人が姿をくらましたと同時に、周辺は再び賑やかになる。
一方で、リマと大城だけは浮かない顔だ。
下等軍団の失言。生徒たちからの小言。
リマがちらっと視線を泳がせると、ラグの片目には涙の粒が滲んでいる。リマはそっとその手を取り、きゅっと握り締めた。その些細な行為にラグは顔を上げ、リマを見据える。応じるようにリマは笑みを零し、それにつられるようにラグの表情が少し和らいだ。
この場を後にし、3人も教室へ向かった。
3人の席は離れているが、ラグの席を中心に集まり、リマが切り出す。
「島谷トリオといい、あのドスケベといい、俺もうラグから離れない!」
ぎゅーっとラグを自分の腕の中にとどめるリマは、愛おしい姉に頬ずりする。
「いやでもラグは超絶可愛いから、田代が目をつけるのも無理はないけどな!」
「リマくん、言ってることが矛盾してます……」
呆れ顔の大城と、自慢顔のリマの間に挟まれたラグは、力なくリマに向かって謝罪を述べる。
「ごめんね……私のことは気にしなくていいから……」
「何言ってんの。俺とラグは2人で1つなんだよ! ラグは何も心配しなくていい。俺がラグを護ってやるって!」
どんっと胸を叩く弟の勇ましい姿に、思わず笑みが零れそうになるが、その口端はすぐに垂れ下がった。
予鈴が鳴り、授業に没頭するラグ。後ろの席に、黒摩魔王の姿はない。教師の解説をノートに書き込んだりしながら、授業に集中しようとするも、その表情は曇っている。鉛筆の動きまでもが止まっている。
窓へ目線を泳がせると、ガラスに無数の雫が降り注いでいた――。
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「深遠なる恵愛。秘める患い」
2016/09/23
Produced by KIYUMI TERANAKA
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