第45話 つまらない出来事

「一真ってすごいよね。いいとこの大学へ入ったのにあっさり途中で辞めてデイトレーダーになって、今はそれで生計を立ててるんだもん」

 ある日、琴美の一人暮らししているアパートに行った時の事です。

 他愛のない会話がふと途切れた頃、琴美がポツリ言いました。


「そんなことないよ、実際そんなに儲けてる訳でもないし」

「それでもすごいよ。私にはそうやって自分の能力を信じて今まで積み上げてきたものを捨てる勇気なんてないもん」

「おかげで失ったものも結構あるけどね。親にも勘当されてるし」

 事実ではありますが、その理由をぼかしながら僕は答えます。


「私は、親に逆らうような度胸もないもの」

「仲が良いならそれに越した事はないよ。琴美の話聞いてると、とてもいい家族だと思うけどな」

 今まで琴美に聞いた彼女の両親や二人の兄の事を思い出しながら僕は言いました。


「そりゃ大学まで行かせてくれた事には感謝してるけど、お父さんもお母さんもお兄ちゃん達も皆、いつまでも私を子ども扱いして過保護で過干渉なんだもん。私はもう社会人で立派に独り立ちしてるっていうのに」


 少し拗ねたように琴美が言います。

 元々女の子を希望していた両親の元に、男が二人続いた後やっと生まれた女だった琴美は、両親や二人の兄に蝶よ花よと愛されて育ったようです。

 彼女の大学の学費も半分は既に働いていた二人のお兄さんが出したと聞きました。


「私、家の中では自分が一番小さかったから、ずっと妹か弟が欲しかったの。昔両親に言ったらもうこれ以上は無理って言われたけど」

 子供の頃、親の付き合いで連れて行かれた集まりで知り合った千秋や霧華とよく遊んでいたというのも、それが理由かもしれません。


「ふーん、僕は弟が一人いるけど、上の兄弟が欲しかったなあ……」

 というより、裕也が僕より先に生まれていたなら、と思います。

 その場合、僕が篠崎の家に貰われる事もなかったのでしょうが。


「あ、なら需要は一致してるんじゃない? 一真、ちょっとお姉ちゃんって呼んでみて?」

 良い事を思いついたと言わんばかりに琴美が目を輝かせました。


「お姉ちゃん」

「えへへへ……、悪くないかもしれない」

 言われた通りに僕が言えば、照れたような間の抜けた笑顔で琴美は言います。


「琴美お姉ちゃん、僕お姉ちゃんの手料理食べてみたい」

 せっかくなので、ちょっと”お姉ちゃん”に甘えてみることにしました。

 琴美とは基本外で食事をするか、たまに僕が料理を作る事はありましたが、自炊しているという彼女の手料理を僕はまだ食べた事がありませんでした。


「ええっ、手料理かぁ……料理の手伝いはいつもしてたから作れなくは無いけど、一真みたいなおしゃれな料理とか作れないよ?」

 渋るというよりは、予防線を張るように琴美が言ってきます。


「じゃあ、琴美の家で普段どんな料理が出てきてたのかわかるね」

「あのっ! うちそんな裕福な家じゃなかったし、ホントに期待しないでね!? 両親の帰りが遅いからいつもお兄ちゃん達と作ってたし……」


 裕福な家庭ではなかったのに、半分は兄達が学費を出した琴美はともかく、上の二人も奨学金なしで大学まで行かせている事を考えると、共働きだったという琴美の両親は子供達の学費を捻出する為に日々忙しく働いていたのでしょう。


 琴美の話からは彼女の両親が、子供達の将来の事を真剣に考えて大切に育ててきた事があちこちに垣間見えます。

 両親や兄妹の仲も良かったようで羨ましい限りです。


「えっと、あんまり見栄えは良くないんだけど、味は美味しいと思う……」

 そう言って琴美が恥ずかしそうに出してきたのは、にんじんと鶏肉が入った切り干し大根に肉と野菜の炒め物、味噌汁にわかめともやしの和え物と、全体的に茶色い料理でした。

 しかし、そのどれも美味しくて、こういうのを家庭の味と言うのだろうな、となんとなく思いました。


「……僕、琴美の家に生まれたかったかも」

「えっ、そしたら付き合えなくなっちゃうからダメ! それに家族になら、これからだって、なれるし……」

 僕が呟けば、琴美がちょっと焦ったように声を上げた後、だんだんと尻つぼみになりながら顔を赤くします。


 琴美の事を知れば知る程、僕は彼女が眩しく思えました。

 両親の仲が良く、兄弟同士で比較されて親の愛が極端に傾く事がない。

 家族全員が互いに支えあって笑いあう明るい家庭。


 自分には別世界の事だと思っていましたが、実際にそんな家庭で育った彼女を目の当たりしてみると、そんな彼女のまとう温かい雰囲気に心惹かれると同時に、心底羨ましく、妬ましく思えました。


 彼女は自分の家が千秋や霧華の家に比べて余り裕福ではなく、平凡な家庭環境に少しコンプレックスを感じている節がありましたが、僕からしたらむしろその考え自体が傲慢にさえ思えました。


 彼女は放っておいても普通にいい男を捕まえて幸せな家庭を築いていくだけの魅力を備えているように思えましたが、同時に僕には彼女の幸せな人生を狂わせる事も出来ると考えると、ほの暗い高揚感が湧き上がります。


 上っ面だけは彼女を丁重に扱っていい彼氏を演じる一方で、いつも通りの愛人稼業に勤しむ。

 それだけで、なぜだか妙な背徳感と充足感がありました。

 今までは同時に何人と付き合ったとしてもそんな気分になる事はまるでなかったのに。


 自分の中で彼女の存在がすっかり大きなものになっている事を、僕は認めざるを得ませんでしたが、それは、恋だとか、そういうキラキラとしたものでは決してありません。

 僕はただ、側にいるだけで眩しい存在である彼女を、表面上は大切にするフリをして、実際は彼女をぞんざいに扱って、いつかそれを知った彼女が傷つく姿を想像して悦に入っていただけなのですから。


 だからあの日、とある女性と一緒に食事をしている時、見え見えの変装をして挙動不審にこちらの様子を窺って来る琴美を見た時も、特に気にすることなく、僕はむしろ内心面白がっていました。

 これ見よがしに一緒にいた女性と仲むつまじくホテルへ入ります。


 しかし、その翌日、事前にしていた約束通り彼女とのデートに向かえば、琴美はまるで何事も無かったかのように振舞って僕に甘えてきました。

 それは身体を重ねても変わりません。


 彼女の笑顔はどこか空虚で引きつっているようにも思えました。

 まあ当然といえば当然なのですが。

 けれど、なぜか彼女は僕を責める事もなく、いつも通りに振舞おうとしています。


 始めは不思議でなりませんでしたが、同じ事をしばらく繰り返しているうちに、なんとなく理由はわかってきました。


 彼女は千秋と同じようなタイプの人間なのかとか、実は裏で報復の準備をしているのではとも期待しましたが、彼女を観察していれば、そうでない事はおのずとわかりました。


 そもそも、琴美が千秋のような人間なら、僕が何をしていようともそれで顔を引きつらせるどころか、満面の笑みでそれさえも受け止めてくれる事でしょう。

 時々もの言いたげな顔をする事も、それを無理に笑ってごまかす必要もありません。


 僕に報復をするつもりなら、これだけ状況証拠が集まっているにも関わらず、もう一月も計画を実行せずにいる理由がわかりません。


 琴美は、ただ僕に捨てられたくないのです。

 浮気だなんだと僕に言って、僕との関係が壊れてしまう事を恐れているだけなのでしょう。


 その事実がわかってしまうと、急に僕の中の昂ぶりは冷めていきます。


 彼女が僕に不満をぶつけるなり、なんらかの制裁を加えようというのなら、甘んじてそれを受けるつもりでいたのに、何もないとなると、僕の中にはただ黒い染みのような後ろめたさと罪悪感が残るだけでした。


 そしてこの頃から、琴美は前以上にやたらと僕に連絡を寄こしてきたり、異様なまでに何でも僕の言う事を聞くようになり、機嫌を伺ってくるようになりました。

 きっとこのまま放っておけば、琴美は僕に執着してどんどん壊れていく事でしょう。


 羨ましくて妬ましい、いかにも今まで家族や周囲の人間に恵まれて当たり前に愛されて育ってきましたと言わんばかりの彼女が、そうして僕の手で破滅していく姿を、僕は密かに望んでいました。


 けれど、いざその未来が目の前に見えてくると、急にそれがとてもつまらなく、寂しい事のように思えてしまいます。


「……別れようか」


 だからその日、僕は彼女に別れ話を切り出したのです。

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