毒蛇を呼ぶ笛


EPISODE 025 「毒蛇を呼ぶ笛」




 大島 久之ひさゆきが目を覚ますと、そこは新帝國保安局の寮だった。額もシャツも寝汗がびっしょりで、冬の気温でそれが冷え切って心地が悪い。



「久しぶりに見たな……」

 ――嫌な夢を見てしまった。陰鬱な気持ちになった青年は布団から身を起こすと眼頭を抑え、深い溜息をついた。


 布団を脱した久之は着衣を着替え甚平姿となると、コンロを使って湯を沸かす。

 やかんの湯が沸騰する頃、彼はそれとマグカップを持ってワンルームの外へ出た。



 建物の外は一層寒く、口からは白い息が漏れ出る。

 空を見上げる。いつもより少し早起きしてしまったせいで日はまだ昇っていない。



 保安局の宿舎を出るとちょっとした公園のような空地になっている。

 久之はベンチに腰掛ける。ここから見えるものなど空とフェンスと枯れ木ぐらいしかなく、わびしい景色であったが、それが却って良いと思えた。



 久之はインスタントコーヒーの小瓶を開ける。戦時中にコーヒーの輸入が完全に止まって以来、未だに正規品は手に入らない状況にある。それでもアメリカ人は飲むので取引などで手に入らない事もないが、嗜好品は高くつくのが世の定め。――もっとも、これは米兵から奪って手に入れたものなので一銭とてかからなかったが。


 マグカップにコーヒーの粉を落とし、まず少量の湯を淹れて粉をよく溶かし、それから八分目まで湯を入れる。するとマグカップからコーヒーの香りが湯気と共に漂ってくる。

 火傷しないように少量を口に含む。コーヒー豆の香り、独特の苦くも心地よい味わい、そして熱が体内へと取り込まれてゆく……。


 それから久之は胸ポケットから煙草のパックとマッチ箱を取り出す。銘柄はラッキーストライク、アメリカでは一般的な煙草、これも米兵から奪ったものの一つだ。


 火を灯しニコチンと煙を肺に取り入れる。身体も温まり、頭も冴えて気分も良くなってくるのがわかった。



「そうか……今週は京都か……この目で見たくはないな」

 久之はラッキーストライクをふかしながらぼんやりと空を眺める。空は白くなり始めていたが、未だ一等星の輝きと月の存在を認める事が出来る良い時間帯だった。


「なんだ……今日はもう一人来るのか。仕方がない、持ってきてやるか……」

 まだ周囲には誰も来ていない。だが久之はこの場所にやがて人が通る事を確信し、片眉を吊り上げると一度自宅内に戻った。


 再び出て来た久之が持ってきたのは七輪と、予備のマグカップ。彼が七輪をベンチの前に置くのと、彼の予測した通行人が姿を現すのはほぼ同時の事だった。



 やってきたのは数か月前にやってきた保安局の能力者、立峰こと「霊銀」である。彼はこの寒さにも関わらず汚れた半袖シャツ姿の上にジャケットを羽織っただけの格好で、袋を持ってその辺をうろうろしていた。


「おっ」

 野外で七輪を設置し、その上にやかんを配置している男の姿を見た立峰が駆けよって来る。


「霊銀か、お前が借りに来る七輪を診ていた所だった」

 立峰が後ろに立つと、久之は振り返りもせずに言った。


「よくわかったな」

「ちょっとした特技でな。何しに借りに来るのかまでは知らんが、まあ貸しておこうと思った」


「川で魚を捕まえたんだが、部屋のコンロが壊れてた。そのまま食うか迷ったんだが……」

「あのコンロは壊れやすい、俺も一度壊した。こいつで好きに焼くといい。それで? 何を釣ったんだ? 鮎か? マスか?」

 久之は湯の入ったやかんをどかし、七輪を立峰に譲る。そして話の流れとして何を釣ったか聞いたのだが、立峰は手に持っていた袋を開けると、恐るべきものを取り出した。


「これだ」

「…………なんだこれは」


 知っているだろう。と言わんばかりに取り出したそれは、久之にとっても少々予定外の回答であり思わず言葉を詰まらせる。


 それはトビウオのような羽根のついている魚だった。身体はフグのようにずんぐりとしており、羽根と釣り合っていないアンバランスな体型に思える。最も異常なのは体表が桃のような色をしている事で、見る角度によっては一部がエメラルドの光沢を帯びていた。



「こんなものは見た事がない。なんという魚だ」

「さあ、よく知らん。だがよく捕れる」

 立峰のズボンはよく見ると裾が少し濡れている。彼が実際に川で生きていたであろうこれを掴み取りし、現地で捌いて持って帰ってきた事が伺えた。こんなに寒いのに薄着であったのはそのためだろう。


「これが初めてじゃないのか……」


 久之の驚きをよそに、立峰は「じゃあ借りるぞ」と、既に内臓を取り除き串に刺してあった尋常ならざる外見の魚を楽しそうに焼き始める。「アルルの女」第二組曲より、ファランドールを鼻歌で口ずさんでおり、獣の機嫌はそこそこ良さそうだ。


「……本気でそれを食うのか?」

 久之は立峰がこの尋常ならざる魚を食らう未来を視たが、それでも半信半疑で問いただす。すると彼はこう答えた。


「? 太ってるからそこそこ食えるし、捕まえやすいからいいぞ」

「既に食った事があるのか……」


 久之は尋常ならざる桃色の魚に醤油がかけられ、七輪の上で香ばしく焼き上がってゆくのを目を細めながら眺める。確かに、匂いは食えそうだった。


「なあ」

「何だ」

「……その、俺にも少しくれないか。味を知りたい」

「コーヒーをくれるなら良いぞ」

「あ、ああ。良いだろう……」


 立峰は交換に応じ、久之はマグカップとインスタントコーヒーの瓶を渡す。そして久之は桃色の尋常ならざる魚の一尾を手に入れたのである。


 久之は焼けた魚の串を手に取ると、立峰と一緒に食った。


「……確かに食えるが……何故鮭のような味がするんだ……」


 味はギンザケにも似たような味わいで脂身があり、意外にも食えた。このような未知の熱帯魚めいた代物を食おうと思うのは奇天烈かもしれないが……いや、時代が時代だ、そういう事もあるだろうと久之は思う事にした。


「自然界のものではなさそうだな……誰かが超能力で手を加えた魚か……内臓はあったのか?」

「あったし、配列も正しかった。だから食えると思った」


 立峰は回答する。超能力で生まれた生き物や道具はその内部構造が空洞であったり、あるいは構造的におかしい事がままある。例として、弾丸が薬莢ごと発射される、しかし排莢機構は存在しており弾頭ごと銃弾がまるっとそのまま排莢されるという、奇怪極まる密造拳銃を持っている人間を闇市で見かけた事があった。


 この魚もそういうものの仲間のようにも思えるが、立峰の証言の通りなら少なくともピンクの魚の方がヘンテコ拳銃より精巧な作りのようだった。


「コーヒー、貰うぞ」

 久之が隣の立峰を見ると、彼はインスタントコーヒーの瓶の蓋を外し、スプーン状に変形させた銀色の二指で挽いた豆をすくい取ると、それをそのまま口に運んでいた。


 ――――そして、その後にお湯を飲むのだ。まるで風邪薬の飲み方のようであった。


「……その飲み方をする奴は初めて見た。それとも……風邪か?」

「風邪? いや、別に」


 コーヒーを湯と共に服用し、桃色の尋常ならざる魚を食らい終えた立峰は満足したようだった。


「満足した、真くんの世話があるので一度帰る。七輪は後で取りに来るから置いといてくれ」

「ああ、じゃあな。だが寝るなよ」

「なんでだ? その後寝るつもりなんだが……」


 立峰は眉をひそめ、不機嫌そうに理由を問いただしたが、久之はこう答えた。


「忘れているようだが、お前は今日、保安局に出勤する事になっている。無論俺もな」



 ★



 同日、それから数時間の後に「霊銀」こと立峰 標は保安局へと出勤した。

「あー、工作員「霊銀」。呼ばれてたんで来ました」

 霊銀がアスタロトのオフィスに姿を現すが、寝ぼけ眼をこする彼は目に見えて眠そうで、片手にはひまわりの種の入った袋が、口をモゴモゴと動かしている。食べ歩きながらここまで来たようだ。


「霊銀、よく来た」

 特にそれを見とがめもせずにアスタロトは迎える。オフィスにはもう一人先客がおり、朝一緒に魚を焼いて食った間柄の男がいたが――――霊銀は彼の名前を聞いていなかった事に気付いた。


 その男、大島 久之は霊銀を一瞥した後、無言でアスタロトへと向き直る。


「要件ってのは一体?」

「仕事だ、他に何が? 今月に入って「赤の楔」の活動が過激化しており、アメリカ軍関係者が彼らに襲撃されている事件は聞いているはずだね」

「ああ、聞いた」


「これは後に全工作員にも通達する事だが、事態を重く見たGHQは我々保安局に協力を依頼し、我々も承諾。共に共産主義者の放った破壊工作員・赤色テロリストらに対抗することとなった」

「へえ、アメリカと。じゃあ米軍との共同作戦になるのか?」

「大体はそうだが、厳密には今回の対赤同盟は保安局・アメリカ軍……そしてもう一つ【サン・ハンムラビ・ソサエティ】、三組織の共同となる」


「ハンムラビ……? 初めて聞いたが、それは?」

 頬の中にあったひまわりの種を飲んだ霊銀は、当然の疑問として初耳の組織の名を尋ねる。


「中世からある古い魔術結社だよ。”あの”マッカーサーもハンムラビの重役だからね、深く根を張ってる。アメリカ軍に対してはパトロンのような関係とも言えるだろう。先の大戦でも随分暗躍したようだ」

「ふうん、例えばヒトラー暗殺とか、山本五十六の殺害とかかい?」


 冗談めかして言うと、アスタトロは肩をすくめて鼻で笑う。

「さあね、あるいはキャプテンイーグルを広告塔にして戦時国債を集めてただけかもしれんよ。本当の所を知りたいなら、彼らに直接聞きにいけばいい」

「聞くだって?」


「臨検だよ。ソ連から民間船に偽装した武器の密輸船が出入りしていて、それが赤の楔に供与されている。今回、その魔術結社――ハンムラビが密輸船に関する情報を提供してきた事を契機としてだね、米軍、魔術結社、保安局の三組織は協力して臨検とか、潜伏テロリストの摘発だとかをする事になったんだよ」

「なるほど?」


「それでだね、我々保安局としても協力の名目上、人を寄越さない訳にはいかないだろう?」

「あー……この流れは……」

 呼ばれた時点で仕事の話になることは判っていたものの、より面倒くさそうな方向に話が流れている事を悟った霊銀が嫌な予感というものを感じ取ったが、遥かに遅かった。


「霊銀、君は明朝厚木飛行場から京都へ向かい、舞鶴で米軍艦艇に乗船。その後は現地指揮官の指示に従う事」

「そう来たか……」

 霊銀は肩をすくめ、いかにも面倒くさそうな表情をアスタロトに向けた。


「また、臨検任務には「翠嵐スイラン」と技術者二名が同行する。翠嵐は当世具足の試験運用データの採集をあくまで第一任務とし、その上で霊銀の補佐を行え」

「了解」


 明け方食事を共にした、霊銀よりもやや背の高い青年――――大島 久之ひさゆき こと識別名【翠嵐スイラン】は短く返事する。

 松竹館で襲撃を受けた晩、霊銀もチラりと彼の姿を見たはずだったが、漆黒の鎧を身にまとったあの時の姿では素顔などわかりもしなかったため、同様、彼が「翠嵐」だとは霊銀も気づかなかったし、気にも留めていなかった。



 それより霊銀の胸中は、京都まで行かされる事の面倒臭さを思って息をつき、不在の間誰かに同居人の真くんの世話を頼まねばならない事ばかりを考えていた。


「あー……自分、同居人の世話が……」

「そんなものは呑龍にでも頼みたまえ、彼は本作戦に参加しない」




 呑龍でいいか。






EPISODE「畜生の条件」へ続く。

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