19 ~波乱の仕度~

◎◎



 夢を見ている。

 夢だ。

 どうしてそれが夢だとわかるのかといえば、


 ――眼の前で、狐が喋っているからである。


「学習能力がないニャー。は狐じゃないと言っているのに」


 妙に若々しい女性の、どこか楽しそうな声で、狐――稲荷は言葉を口にする。


「今日は疲れたんじゃないかしら? こないだから、いろいろあったものね」


 疲れた、なんてものじゃない。

 たくさんのことが起き過ぎて、全然処理できていない。

 こんなの、消化不良だ。


「それでいいのよ。下手にものを考えず、心のおもむくままにありなさい。それがきっと、あなたを運命――いえ、天命の瞬間へと導いてくれるわ」


 ……そんなの、別に導かれなくってもいいのだけれど。

 そういうと、稲荷はころころと鈴を鳴らすように笑った。


「ええ、ええ。あなたにとっては、傍迷惑なだけかもしれないわね。吾も、あなたがこの時代で生きていきやすいよう、いろいろ手伝いをしているだけで、他はほとんど手を貸していないのだもの。言葉が通じること、美しくみられること、足りない栄養を調整すること。こんなことしかしていないんだから、あなたにとってはいてもいなくても同じでしょうね。むしろ、利用しているといってもいい」


 …………。


「でもねぇ。だけれど信田葛葉。あなたはいずれ、世界の中心に立つときが来るわ。望むと望まないにかかわらず、そこに立って、運命と直面する瞬間がやってくる。そして、そのとき選ぶのは。だから、せいぜいいまのうちに、自分という存在を刻み込んでおきなさい。でないと、この星の運航は、の手に渡ることでしょう」


 彼奴きゃつ

 彼奴って、それは、いったい?


「ええ、それはいずれわかるわ。だからいまは……そうね、二回連続で、吾へと繋がる路を守り抜いたお祝いに、もう少しだけひいきをしてあげましょう。さあ、早く目を覚ましなさい、信田葛葉。危機が迫っているわよ、疾く目を開けなさい。でないとあなたは、まるで眠り姫のように――」



 ――そこで、眼が醒めた。



 パッと目を見開く。

 眼前には、今日出会ったばかりの顔。


「あれ? 起きちゃったの? えっと……今晩は姫ねぇーさん! 今日の歌、とっても魅力的だったよ!」


 天真爛漫な笑顔で美少年――大江景麟が笑いかけてくる。

 周囲を見渡す。

 あたしは布団に押し倒され、彼はその上にまたがっている寸法だった。


「……なにを、しているんですか?」

「なにって、そりゃあ」


 彼は、言った。

 あっけらかんに。



「君があんまり魅力的だったから――もちろん夜這いにきたんだよ!」






「ふざけんな、うわきゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?!?」






 絹を裂くような女性(あたし)の悲鳴!

 なんか、胸とか揉んでこようとする美少年貴公子を押しのけようとしながら、ともかくでたらめに叫ぶ。

 屋敷のなかが、にわかに騒然となる。


「姫! 葛葉姫!」


 いの一番、部屋に飛び込んできたのは、保名さんだった。

 ――そして、ほぼ同時に。




「ここにいたかぁ――!!」


 降りかかる一刀!

 飛び込んできた保名さんが、景麟くんごとあたしを突き飛ばす!

 危機感のまま、三者そのままもつれ合うように転がると、布団にドスりと。

 


「な――何者か! 僕を大江景麟と知っての狼藉か!?」


 彼のその言葉は届かない。

 届くわけがない。

 かわりに響くのは、鳥肌が立つほどに気味が悪い、押し殺した笑声のみ。


「くっ――くっくっくっく」


 あたしは、聴いた。

 確かに聴いた。

 あの背筋が粟立つような――悍ましい声を。


「待たせたなぁ――女狐!」


 部屋の入り口に立つ、時間の経った血のような、赤黒い衣装の男。

 サルとガマガエルを混ぜ合わせたような、醜悪な相貌のその男は――




「石川悪右衛門!!」



 そう、因縁をもって敵対すべき、最悪の人物。

 あたしを抱きかかえながら、保名さんがその名を叫び、胸元から札を引き抜こうとする。

 だけれどそれよりも、よほど早く――


「おう。今回は兄者の力も一緒ぞ、三流陰陽師!」


 悪右衛門が吠える方が、いくらか速かった。

 彼の背後。

 月天のもと、保名邸の塀の向こうに巨大な、小山ほどもある巨大なにかが、姿を現す。

 〝鬼〟だ。

 炯々けいけいと瞳を燃やし、しゅうしゅうと乱杭歯らんぐいばの隙間から蒸気を吐きだす、赤銅色のバケモノ。

 あるだけで心が挫けてしまいそうな、恐怖の具現。

 それが一歩を踏み出すだけで、大地震のような振動すら起こる。指先を動かすだけで暴風が生じ、周囲の掘っ立て小屋が吹き飛ばされ砕け散る。

 純粋暴力の化身。

 そんな化け物が、絶望が、いままさにこの屋敷を叩き潰そうと、大木のような巨腕を振り上げて。






















 ヒュバッ。
















 振り上げたままの体勢で、なにかに、絡め捕られる。



 縄。

 それは縄だった。

 なんの変哲もない、稲わらで編まれた、縄。

 それが空間を縦横無尽に走り、鬼の全身を絡め取っているのだ。


 しゃん。


 大気を引き締めるような、清浄な鈴の音が響き渡った。

 屋敷の入り口に、誰かが立っている。

 人影はみっつ。

 ひとつは、弓を持ち、矢をつがえ、武官ぶかん束帯そくたいと呼ばれる武官の正装をまとった偉丈夫、源在雅。

 もうひとつは、その顔をすっぽりと黒子の幕のようなもので覆い隠した、黒い文官ぶんかん束帯の人物。その右手は天へと緩く掲げられ、指先に緩く掴まれた縄は、そのまま鬼の身体へと繋がり、大した力を入れている様子もないのにしばりつけている。

 そうしてもうひとり。

 立烏帽子を被って水干姿。

 太刀をいて、あかの袴を穿いて。

 〝白拍子しらびょうし〟の姿をした、その美しい黒髪の――鴉の濡れ羽色の長髪を持つ女性は、夜の闇に舞ったのだ。


 しゃん。


 彼女の手のなかで、ふたたび鈴が鳴った。


「では、反撃の刻限といこう――射たまえ、検非違使佐、源在雅どの」

「応!」


 黒衣の人物の言葉に応じるよう、在雅さんは矢を引き絞り――放った。

 それは真っ直ぐに夜をかけて。


 ――鬼の眉間を、正確に射抜いた。


 絶叫。

 大気を震わす、哀しい声。

 鬼哭啾々きこくしゅうしゅう

 その叫びとともに、消える。

 鬼が。

 山ほどの大きさを誇ったなにかが、暴力の化身が消えていく。



「くっ――」


 呻く。


「ぐううううううううう!」


 悪右衛門が、ほぞを噛む。地団駄を踏む。

 あたしたちを睨みつけ、あたしの隣の保名さんを睨みつけ、呻く。


「陰陽頭に水鳥の矢をもつ武官……! おまけに、おまけに八咫姫やたのひめだと? 口惜しい、口惜しいぞ……あと一歩で、あと一歩で我が妻を癒すことも出来たであろうに。女狐めの生き肝、持ち帰ることも出来たであろうに!」


 あな、くちおしや。

 あな、くちおしや。


 彼はそう、憎悪の眼差しであたしたちを呪いながら、踵を返す。

 怨嗟を振りまきながら、そのまま一目散に、闇のなかへと駆け込んで――消えた。

 いなくなった。

 武器な沈黙が、いまあった喧騒がうそのような静寂があって。

 やがて、その場にいた全員が安堵の息を吐いた。


「……えっと」


 あたしは、ただただ、呆然としていた。

 困惑していた。

 なにが起きたのか、さっぱりわかっていなかった。

 ただ、保名さんが。


「…………」


 ずっと、あたしを抱きしめていてくれて。

 だから――不安にだけは、一度もならなかった。



◎◎



 こうして今度こそ、その事件は一度幕を引く。

 宴は終わり、怪異には幕が引かれ。

 そうして――波乱の幕が開く。

 仕度が終わる。

 かくして、あたしと保名さんをめぐる真実の、本当の意味での大事件が、幕を開けることになるのだった。

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