1.手紙の子

 繭香がいないまま、生徒会選挙に向けての忙しい日々は過ぎていった。

 

 教室と『HAVEN準備室』と繭香の家を、日課のように行き来する私の単調な毎日は、ある日突然、大きな悪意でもって、残酷なまでに壊された。



 

 選挙当日も間近に近づいたある朝。

 私が教室に着いた時には、すでに黒板の前には人だかりができていた。

 

(何だろう……?)

 人垣の間から何気なくのぞきこんで、私は血の気が引く思いがした。

 

 B4ぐらいのサイズの用紙に、新聞の体裁で、『スクープ!』と書いてある。

『近藤琴美』という文字と、『早坂渉』という文字が見て取れて、私は人垣をかきわけて、その用紙を手に取った。

 

『近藤琴美、中間考査成績ガタ落ちの原因は、失恋か?』の見出しに、頭がクラクラした。

 

(誰がこんなことを!)

 答えは考えなくても明白だった。

 ニヤニヤしながらこっちを見ている柏木とその取り巻き連中。

 

(人の傷をえぐり出すような真似するなんて!)

 我慢も忍耐もかなぐり捨てて、怒りで自分を見失いそうになったその時、廊下側の窓が勢いよく開いて、私の名前が呼ばれた。

 

「琴美! 大変だ、ちょっと来い!」

 剛毅だった。

 突然、この場所には有り得ない人が現れて、呆気にとられた私は、剛毅の手に、私が握りつぶしているのと同じ紙切れが握られているのを見て、ハッとした。

 

(剛毅のクラスはE組……ってことは……もしかして渉?)

 剛毅は私に向かって頷いてみせた。

 

「E組で早坂が暴れてる!」

 手短な言葉が終わらないうちに、私は夢中で駆け出した。

 

 でも、そんな私を追い越してもっと早いスピードで、一人の人がA組の教室から飛び出して、E組のある第二校舎に向かって、走り出していた。

 

 その背中を追うように走りながら、私は

(どうして? 何で?)

 と焦らずにはいられなかった。

 

(どうして佳世ちゃんが?)

 一瞬頭を過ぎった嫌な予感が、E組にたどり着いた時、私の前に現実のものとなって立ち塞がった。

 

 それはまるで、これ以上ない悪夢のようだった。



 

「ハッ! ……別れた女のためにばっかじゃねえの!」

 机も椅子もなぎ倒して、教室のほぼ中央で、渉はあまりガラのよくない連中と本気で殴りあっていた。

 

「お前に何がわかるんだ!」

 ひさしぶりに聞いた渉の声。

 倒れた机と椅子。

 散らかった机の中身。

 

 遠巻きに見ているE組の子たちが、走ってきた私の姿に気づいて、ヒソヒソと何かを囁きあっている。

 渉は一回りも体が大きい連中に、ぐるりと周りを囲まれていた。

 

「あいつの何がわかるっていうんだ!」

 歯を食いしばるようにして、叫ぶ。

 

 渉は体は小さいけれど、子供の頃から空手をやっていて、実は結構強い。

 だからそういう点では、私は心配していなかったのだけれど、『有段者は素人相手に喧嘩はしない』といつも言っていた渉が、躊躇なく相手を殴っているのが、私には驚きだった。

 

(私のせいなの……?)

 A組から握りしめたまま持ってきてしまった紙切れを、改めて握りつぶす。

 

(渉には関係ないのに……もう私とも何の関係もないのに……!)

 ギュッと締めつけられるように痛む胸の奥が、私の半歩前で、

「早坂君! 早坂君!」

 と必死に呼びかけている佳世ちゃんの横顔を見て、更に痛みを増す。

 

 佳世ちゃんの横顔に、中間テストの初日、渉が私に見せた綺麗な透かし模様の封筒が重なった。

 

『俺……この子とつきあうことにしたから……』

 私が、それまで考えたこともなかった言葉。

 ――あの言葉を聞いた瞬間に、私と渉の恋は終わった。

 

(夢だ……これは悪い夢だよね……?)

 必死で自分に言い聞かせるけれども、握りしめた拳に力を入れすぎて手のひらに爪が食いこむ。

 その痛さが、これが夢ではないことを私に告げる。

 

(だったらせめて、早く終わりにしたい!)

 力なく首を横に振って、

「渉……ゴメン。もういいよ……」

 押し殺したような声が出た。

 

 一瞬静まり返る教室。

 渉がこっちに向き直った。

「琴美……」

 

 その声につられるように佳世ちゃんも私をふり返る。

 その優しい瞳から、幾粒もの涙が零れ落ちた。

 私のために泣いてくれたあの日と同じように――。

 

「琴美ちゃん……私……私ね……!」

 泣きながら私に向かって手をさし伸べる佳世ちゃんの言葉から、なんとか逃げようと、私は後退りした。

 

(何も聞きたくない! 見たくない!)

 意思表示のために、何度も首を横に振る。

 

(何が本当かわからない! 誰を信じたらいいのかわからない!)

 こんな状況で、こんなに大勢の前で、絶対泣きたくなんかないのに、どうしようもなく涙がこみ上げてくる。

 

(もう、駄目だ……!)

 そう思った瞬間、私の頭の上から、男物の制服の上着がバサリとかけられた。

 

 間一髪、涙が零れ落ちる瞬間を隠してもらった私は、その上着を内側から強くつかんで、おそらくまちがいない上着の持ち主のことを思った。

(諒!)

 

 誰かが上着ごと私を、抱きしめる。

「剛毅! 貴人を呼んでこい! 美千瑠! 女どもを『HEAVEN準備室』に集めろ!」

 

 確かに諒の声だった。

 私は無我夢中で諒の腕にしがみついた。

(諒! 諒!)

 

 声にならない言葉に返事をするかのように、諒は私の頭をポンポンと叩いた。

「わかってる……」

 そしてまるで抱きかかえるようにして、私をその場から連れ去った。



 

 諒が私を連れて行ったのは、確かに『HEAVEN準備室』だった。

 彼がさっき指示を出していたとおり、美千瑠ちゃんがうららと可憐さんと夏姫を呼んできていた。

 

 先に一部始終を聞いたらしいみんなは、何も言わなかったけれども、それぞれの方法で私を労わってくれた。

 うららは私の首に抱きつき、美千瑠ちゃんが蒼衣さん直伝のお茶を淹れてくれる。

 可憐さんが、「琴美ちゃん可愛そうに……」と涙ぐんでくれ、夏姫が「そんなの絶対に許せない!」と私のぶんまで怒ってくれた。

 

 諒が気を利かせてくれて、女の子ばかりの『HEAVEN準備室』。

 みんながいてくれて、本当に良かったと思った。

 

 だから、鳴り響く始業のベルを無視して、

(今はこの部屋にずっといよう……)

 と思った。

 

 私は高校に入学してから初めて、朝のホ―ムルームを欠席した。



 

「べつに無理して笑わなくていいんじゃない?」

 夏姫は私に言ったけれど、私の涙は、諒が隠してくれたあの一瞬だけしか出てこなかった。

  

 こうしてみんなに囲まれていると、どんなに自分が守られているのかがわかる。

 どんなに周りの人に甘えているのかがわかる。

 

(本当はもう、忘れかけていたことだったんだよね……)

 私は視線を窓の外へと移す。

 

(ただ……佳世ちゃんのことがショックだった……)

 青い空を見上げる。

 

(でも……それだってきっと私が悪いんだ……それぐらいは自分でもわかってる……)

 私にもたれかかったまま眠ってしまったうららの体温が、気持ち良かった。

 

(自分のことばかりで、佳世ちゃんの話なんて全然聞いてあげられなかった……だから……!)

 そっと私を見守るみんなの顔を、一人一人見つめながら、私は笑った。

 

「もう大丈夫……授業にはちゃんと出るよ」

「無理しなくてもいいんじゃない?」

 もう一度くり返す夏姫に、私は心からの笑顔で笑いかけた。

 

「無理じゃないよ。本当に大丈夫……」

 美千瑠ちゃんと可憐さんが、何か言いたげに私を見つめる。

 

 私は自分を奮い立たせるようにわざと、

「私のせいで、みんな遅刻になっちゃってゴメンね」

 大きな声を出して、うららを起こしてしまった。

 

 ついでに勢い良く、自分の席から立ち上がる。

 なんとなくその場を動きそうにないみんなの顔を見廻して、元気にけしかけた。

「教室に帰るよ。ほらほら」

 

 追い立てるように急かして、一番後ろから『HEAVEN準備室』を出た私は、廊下で待っていた人影を目にして、不覚にもまた泣きそうになった。

 

 壁にもたれるようにして、わざとそっぽを向いて諒は立っていた。

 

 嬉しくって思わず涙が浮かんできそうだったけれど、みんなが蓄えさせてくれた元気を無駄にはできないから、私はせいいっぱい明るく、

「諒、お待たせ! 教室に帰るよ!」

 と叫んだ。

 

 諒は一瞬驚いた顔になって、それからすぐに笑った。

 それは私を『馬鹿』と罵る時の意地悪な笑みだった。

「なんだ……もう復活したのかよ……」

 

 いつもの憎まれ口に、私もすぐさま応戦する。

「なによ! 私が心配でここまで迎えに来たくせに!」

 

 諒は真っ赤になって叫んだ。

「何言ってんだよ、馬鹿! 誰がお前なんか……!」

 

 最後まで言わせずに、私は走り出す。

「置いてっちゃうよ」

 

 慌てて諒も走り出す気配がした。

「お前なあ……」

 

 追いついて来て、私のすぐ後ろを走る諒に、私はふり返らないで叫ぶ。

「ありがとう、諒!」

 

 諒は小さな声で返事する。

「ああ……」

 

 私は何度お礼を言っても、言い足りないような気持ちで、もう一度、

「ありがとう」

 と叫ぶ。

 

 諒は自分の返事が私に聞こえなかったのかと思ったらしく、今度は大きな声で、

「ああ」

 と叫んだ。

 

 それでも私は、もっと諒に感謝の思いを伝えたくって、

「ありがとう。ありがとう」

 と何度もくり返した。

 

 走っている最中だから、息をするのも苦しい。

 でも言わずにはいられない。

 

 何度目かでついに、

「もういいって言ってるだろう!」

 と諒に本気で怒鳴られるまで言い続けた。

 

(だって嬉しかったんだもん……! 諒がいてくれて本当に良かったと思ったんだもん……!)

 そんなこよ本人に面と向かって言ったら、また真っ赤になって俯くか、大声で怒鳴るか、どっちかなんだろうなと私は一人で笑った。

 

 こんな日に、こんな状況で、こんなふうに笑えるなんて、自分でも予想もしていなかった。

(諒のおかげだ……!)

 

 大嫌いだったはずの彼の存在が、今、とってもありがたかった。

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