王様と危機

 月光に照らされた雪原を青い橇が駆けていく。橇は赤いノルウェージャンフォレストキャットを先頭に、猫たちによって引かれていた。

 橇が走るたびに、猫たちの首についた鈴が軽やかになる。橇のうえには、カットとドレス姿のフィナが乗っていた。

 カットたちを乗せた橇は、雪に覆われた丘を静かに登っていく。丘の上に建つ教会は、橇に乗る2人を見守っているようだ。

「たっく、なんで俺がこんな目に……」

 橇を引っ張る先頭の猫はレヴだ。彼は愚痴をこぼしながらも、丘を登っていく。

「フィナに自分の正体を教えた罰だよ、レヴ」

 橇の前方に乗るカットは、にこやかな声をレヴにかける。

「このっ鬼畜猫耳王がっ!!」

 ぐるっとカットを振り返り、レヴは全身の毛を逆立ててみせた。

「ははっ。いつものレヴだ……」

「陛下……。たくっ、今回だけですからね」

「ありがとうな。レヴ……」

 レヴの言葉に、カットは思わず微笑んでしまう。カットは、小さくレヴに感謝の言葉を告げていた。レヴは一瞬だけ眼を見開き、嬉しそうに眼を細めた。

「ちゃんとフィナちゃんのこと幸せにしてくださいよ、陛下」

 優しくカットに言葉を返し、レヴは正面へと顔を向ける。レヴの言葉に、カットは笑みを浮かべていた。

 自分の額にキスをしてから、レヴは心なしか元気がなかった。そんな彼が調子を取り戻してくれたことが嬉しい。

 彼の気持ちに、応えることができないけれど―― 

「あの……カット」

「なぁに、フィナ?」

 フィナに呼ばれ、カットは彼女に振り返る。彼女は困惑した様子でカットを見つめるばかりだ。

「その……これはさすがにやり過ぎでは」

「フィナ、王都の外れに崩れた古城があるのは知ってるよね? そこを改装して俺たちの新居にしようか? もちろん俺たちの子供が生まれても、父上は新居に招いたりしないけど」

「あーあ、この人かなり怒ってるわ……」

 レヴが呆れた様子で声を発する。

 ティーゲルと叔父たちは、フィナとカットを結婚させるため密かに団結し策略を張り巡らせていたのだ。

 カットの猫耳を逆手にとってフィナを政治的に利用することも、カットとフィナの力を利用して他国に攻め入るという叔父たちの申し出もすべてデタラメだった。

 自分とフィナは、結局のところ老害たちの掌のうえで弄ばれていたことになる。

 それが、彼らの親心から生じたものであることをカットは分かっている。だから、少しぐらい意地悪をしてもティーゲルは許してくれるはずだ。

「カット……顔がニヤけてますよ」

 フィナが困ったように笑ってみせる。

「もし子供ができたら、たまにはおじいちゃんのところに遊びに行っても良いですよね?」

 フィナの優しい言葉に、カットは軽く眼を剥いていた。

 自分と違って、フィナはとっくの昔にティーゲルを許しているらしい。子供っぽい自分がばかばかしくなり、カットは苦笑を浮かべていた。

 顔をあげる。

 月光に照らされた教会は、いつも以上に荘厳な印象をカットに与えた。

「母さんたちのところにも、一緒に行こうな……」

 教会を見あげながら、カットはフィナに話しかけていた。

「そうですね……」

 フィナの声は心なしか暗い。後方を振り向くと、彼女は寂しげに教会を見つめていた。

 この教会の裏側に、カットの母であるヴィッツの墓と、フィナの母親が封印された遺跡がある。フィナはその場所を思い教会を見つめているのだろう。

 カットはフィナに向き直る。

「カットっ?」

 フィナは不思議そうに眼をしばたたかせる。カットはそんなフィナの手を取り、微笑んでみせた。

「大丈夫、俺も一緒だよ」

「はい……」

 すっとフィナが頬を赤らめ微笑んでくれる。嬉しそうに細められたフィナの眼を見て、カットは思わず胸を高鳴らせていた。

 フィナは舞踏会で着たドレスの上に、猫の毛で織られたローブを羽織っている。

 2 人で舞踏会をこっそり抜け出し、カットたちは教会へと赴いたのだ。

 ヴィッツに結婚の報告をしたいというカットの願いを、フィナは快く聞いてくれた。

 それに――

「母は、私の報告を喜んでくれるでしょうか?」

 不安げなフィナの声がする。だが、彼女の眼は幸せそうに笑みを刻んだままだ。

「大丈夫だよ。反対されても絶対に君のお母さんを説得してみせる」

 フィナを引き寄せ、カットは優しく微笑んでみせる。フィナは眼を潤ませ、カットから視線を逸らした。彼女は何も言わず、カットの胸に体を預けてくる。

「少しだけ、こうさせてください……」

 そっと眼を閉じて、フィナはカットの背中に腕をのばしてきた。

「フィナ……」

「幸せすぎて、恐いんです……。ここに母もいたらいいのに……」

 眼を瞑ったフィナが、唇に笑みを浮かべてみせる。そっと瞼を開け、フィナは寂しげな眼をカットに向けてきた。

 赤いフィナの眼は、縋るようにカットに向けられている。

「俺も君のお母さんに会ってみたいよ……」

 ふっとカットは微笑み、フィナに優しく言葉を返していた。

 そして、心の中で強く思う。

 自分の力を使って、フィナの母親を封印から解き放つことが出来たらどんなにいいだろう。だが、カットもフィナと同じく自分の力は少しか使えない。

 できることと言ったら猫と話したり、ちょっとした攻撃魔法を使えるぐらいだ。

 その力は、偉大なる魔女であったヴィッツの足元にもおよばない。

 ムルケの呪いを解くことができたら、フィナはとても素敵な笑顔を見せてくれるに違いない。

 そのときだ。暗かった空が明るく輝き始めた。

 カットはとっさに上空を仰いでいた。オーロラが夜闇にはためき、周囲を明るく照らしている。

 そのオーロラの輝きを見て、カットは猫耳を震わせていた。血のような鮮やかな色彩をオーロラが放っていたからだ。

 美しいはずのオーロラが禍々しいものに見えてしまう。フィナもそう感じたのか、カットに抱きつき不安げに上空を見つめていた。

 酷い海鳴りが猫耳に響き渡る。

 強風が周囲に吹き荒れ、雪を巻き上げながらカットたちの視界を白く染めていく。オーロラから、一条の光が教会の裏にある海原に向かって放たれた。

「なんだ……」

 カットが唖然と光を見つめる中、地面が大きくゆれ、橇を引く猫たちがいっせいに暴れ出した。

「陛下っ!」

 橇に繋がれたレヴが大声をあげる。カットは立ちあがり、猫たちを拘束する鎖をいっせいに解いた。

 蜘蛛の子が散るように、橇に繋がれていた猫たちは丘下へと走り去っていく。

「フィナっ!」

 後方を振り返り、カットはフィナに声をかけていた。ゆれる橇の縁をしっかりと握りしめ、フィナは怯えた様子で空に視線をやっている。

「母さま……?」

 彼女の言葉に、カットは空を仰いでいた。

 漆黒の夜空に女が浮いていた。

 夜空よりも黒い髪を宙に流し、ゆったりとしたローブを纏った女は、赤い眼を歪め嗤っている。そっと彼女は教会の屋根に降り立ち、カットたちを眺めていた。

 その面差しは、フィナとそっくりだ。

「あぁ……フィナなのね。大きくなって……」

 女性はうっとりと眼を細め、自身を凝視するフィナに優しく声をかける。

「母さま? 母さまなのっ!?」

 フィナは立ちあがり、女性に大声で叫んでいた。驚いたように女性は眼を見開き、優しい笑みを顔に浮かべてみせる。

「私が分かるのね、フィナ……。別れたときは、まだあんなに小さかったのに……」

「母さま……」

「でも、その男は何かしら?」

 女性の眼がカットに向けられる。氷のように冷たい彼女の眼差しに、カットは戦慄を覚えていた。

 猫耳の毛が膨らんでしまう。間違いない。彼女はカットに対して、敵意を抱いている。

 女性を睨み返し、カットはフィナを庇うように自分の背後へと隠す。

「カット……?」

「変だ……。君の母さん……」

 フィナに短く伝え、カットは女性を見すえた。

「その面差し……あの女と王の息子か……。なぜお前がフィナと一緒にいる? 忌まわしきハールファグルの王族よ」

 鋭く眼を細め、女性はカットを睨みつける。彼女の眼が妖しい輝きを放ち、カットはその眼から視線を逸らすことができなくなっていた。

 体が動かない。指に力を込める。だが、カットは指先1つ動かすことができなかった。

「そうか……。またお前たちは、私から大切なものを奪うのだな……」

 女性の眼から輝きが消える。彼女は悲しげに眼を伏せ、フィナへと視線を戻していた。

「母さま……」

「おいで、フィナ……」

 顔を綻ばせ、彼女は優しくフィナに微笑んでみせる。

 瞬間、フィナの眼から光が消えた。フィナの体は宙に浮き、吸い寄せられるように女性のもとへと向かっていく。

「フィナ……」

 顔を歪め、カットはやっとのことで声を絞り出す。

 カットが見つめる中、自分のもとへとやってきたフィナを女性は優しく抱きしめていた。

「フィナ……」 

 カットはやっとのことで震える手をのばし、フィナを呼ぶ。その声にフィナが答えることはない。

「おや、フィナのかけた呪いが中途半端なようだな……。ちゃんと猫にしてあげよう」

 優しくフィナを抱え直し、女性が眼を歪めてカットに嗤いかけてくる。

 彼女は人差し指を軽く振ってみせた。そこから漆黒の靄が現れ、瞬く間にカットの周囲を取り巻いていく。視界を靄にふさがれ、カットはなにも見えなくなってしまう。

 ――フィナっ!

 叫んでも、声が出てこない。辛うじて掠れた息を吐けるのみだ。その開いた口の隙間から、靄はカットの中へと流れ込んでいく。

 瞬間、カットの体を激痛が貫いた。体中が激しく痙攣し、カットの体は縮んでいく。目線がどんどんと低くなり、気がつくとカットの正面には橇の板があった。

 ――なんなんだ、これはっ!

「にゃあ!!」

 声を発したとたん、カットは恐怖に憑りつかれていた。自分が猫の鳴き声を発したからだ。

 ――そんなっ!

「にゃあ!」

 もう一度口を開いて、カットは確信する。

 自分の尻に違和感を覚え、カットはその確信を強めていた。尻の先に何かが生えている。それを試しに動かしてみる。

 尻に生えたそれはいともたやすくカットの思い通りに動いた。カットは、それを自分の眼の前へと持ってくる。

 ふさふさとした銀灰色の尻尾が、カットの眼の前にあった。

「あははははははっ! どうだ、猫になった気分は? 最高だろうっ!?」

 女の哄笑がカットの猫耳に響き渡る。

 ――うるさいっ! フィナを返せっ!!

「シャー――!!」

 全身の毛を逆立て、カットはアイスブルーの眼で女を睨みつけた。すっと女の顔から嘲笑が消える。女は色のない眼でカットを見つめ、言い放つ。

「目障りだ……。消えろっ!」

 女が片手をカットに向ける。瞬間、カットの周囲に猛烈な暴風が吹き荒れる。地面に積もった雪が巻き上げられ、カットを襲った。

「陛下っ!」

 視界が白く染まった瞬間、カットの体は宙に浮いていた。あたたかなぬくもりに体中が包まれる。カットは顔をあげていた。

 人の姿になったレヴが、自分を抱え走っている。

 ――レヴ……。

「なぁ……」

「大丈夫ですよ、陛下……」

 腕の中のカットに顔を向け、レヴは翠色の眼を細めてみせる。

「待て、逃がさんぞっ!」

 後方から女の怒声が聞こえる。それと同時に地面が大きくゆれ、強烈な衝撃がカットたちに襲いかかった。

「あぅ……」

 レヴが顔を歪め呻く。

 彼の腕から滴るものがあることに気がつき、カットは体中の毛を逆立てていた。血だ。レヴの腕から血が滴り落ちている。

 ――レヴっ!

「みゃう!!」

「大丈夫……。大丈夫ですよっ! 陛下っ!!」

 レヴが叫ぶ。

 瞬間、彼はカットの体を大きく宙に投げ飛ばしていた。

 ――レヴっ!!

「にゃあ!!」

 宙に浮くカットは、必死になってレヴを呼ぶ。そんなカットにレヴは寂しげに微笑んでみせた。

 カットの体は誰かに受けとめられる。驚いて顔をあげると、見知らぬ少女がカットの顔を覗き込んでいた。

 癖のある赤毛を長く伸ばした少女は、大きな翠色の眼でじっとカットを見つめている。

 どこかレヴに似た彼女の面差しを見て、カットは少女の正体に気がついた。

 ――アップル……?

「にゃあ……」

「行きましょう、陛下っ! ここはレヴ兄さまがなんとかしてくれますっ!!」

 カットを抱え直し、アップルは物凄い速さで丘を下っていく。丘の下には、黄色い猫橇がとまっていた。彼女は大きく跳躍し、その橇に乗りこむ。

「走ってっ! 早くっ!!」

「にゃあ!!」 

 彼女の言葉に、先頭に繋がれた白猫が鳴く。猫たちは鳴き声を発しながら、勢いよく橇を動かし始めた。

 雪原を走りながら、橇はぐんぐんと丘から遠ざかっていく。

 爆音が夜闇を劈く。

 カットは眼を丸くして、アップルの手から跳びおりていた。急いで橇の後方へと走り、前足を橇の縁にかけて丘を見つめる。

 丘の上では絶えず閃光が走り、白い雪を夜闇に巻き上げているではないか。

 ――レヴっ!!

「にゃあ!!」

 叫んでもレヴは応えてくれない。

 あの爆発の中で、レヴはフィナの母であるムルケと戦っているはずだ。

 だが、猫であるレヴがヴィッツすらも呪い殺した魔女に勝てるとは思えない。

「陛下、兄さまは大丈夫ですっ!」

 凛とした声がカットの猫耳に響き渡る。縁から前足を退かし、カットはそちらへと顔を向けていた。

 少女の姿をしたアップルが、力強い眼差しをカットに送っている。彼女の潤んだ眼は、今にも泣きだしそうだった。

 涙をこらえ、アップルはカットを慰めようとしているのだ。

 ――体制を立て直そう。早く、城へ。

「にゃあ!!」

「はい、分かってます陛下……」

 アップルの眼から涙が零れる。それでも彼女は力強い返事をカットにする。

 ――大丈夫だよ、レヴはああ見えてとても強いんだ……。だから、大丈夫。

「にゃあ……。なぁ……」

「陛下……」

 ぺたりとアップルが座り込む。カットが彼女に近づくと、彼女はカットを抱きあげてきた。

 小さな嗚咽がカットの猫耳に響く。

「にゃあ……」

 静かに泣くアップルに、カットは優しく鳴いてやることしかできなかった。

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