とける (5)

 その時だった。

 ぽつりと、靜が呟いたのは。


「――どうして、お前を『魔法使い』に仕立て上げたんだろうなぁ」


 その一言に、正宗は思わず硬直してしまった。

 それは長らく、正宗自身の胸の内に秘めていた疑念。そして誰も、正宗以外の誰にも知られることがないはずだった、たったひとつのわだかまり。

 それをどうして、目の前の男が言葉にしているのか。


 正宗はさっと血の気が引く感覚を覚えた。


「どう、して……」


 どうしてもなにも、と靜は頭を掻いた。


「話を聞く限り、別にお前でなくてもよさそうだと思っただけだよ」

「っ、あんたになにが分かる!」


 思わずついて出た怒声に、正宗自身が驚いていた。だが、ここで引き下がれるほど彼はお人好しではない。それは長門正宗という存在を否定したこととなんら変わりない。「灰かぶり」にすらさせてもらえないのかと頭の中でもうひとりの自分が哮る。


 右手を伸ばし飄々とした表情の靜に掴みかかると、靜は短く続けた。


「でも、あんたじゃなきゃ救われなかった人もいる訳だ」

「はっ……?」


 その思いがけない一言に、正宗は思わず掴んだ手の力が緩む。


「俺もその一人だ。あの日正宗に声をかけられなかったら、ただ腐ってただけだった。ここまで――俺が今みたいに菓子を作れるのは、やっぱりお前がいたからだ。お前が魔法使いじゃなかったら、すべて諦めていた」

 だから、と靜はそっと瞳を閉じた。「今度は、俺が正宗を変えてやる」

「靜」


 正宗は目細めると、掴みかかっていた腕がだらりと下がった。そして同時に、足元へと目を落とす。俯いた頬が、微かに震えている。


「……さっき、お前はなにをしようとしていたんだ」

「君には、関係ないよ」

「外に、出ようとしていたんじゃないのか」


 正宗は答えなかった。ただ、じっと足元を見つめているだけだ。

 しばしの沈黙。少し離れたところから、馴染みのある振り子時計の音が聞こえてきた。


「どうして、君はそう、」


 馬鹿なんだ、と正宗が呟いた。それを耳にし、靜は苦笑する。


「そりゃあ生まれつきだ。馬鹿じゃなきゃ、あんなところで挫折もしなかったし、こんなことにもならなかった。でも、馬鹿でよかったと思ってる」


 見上げた正宗が困ったように笑っていた。


「お互い様だね」

「そう、お互い様」


 君が馬鹿で、おれも馬鹿。


(それでもいいか)


 不思議とこぼれ落ちた笑みに、つられて靜も微笑み返した。


 ――それが、正宗にかかっていた夏目祐一郎という魔法が解けた瞬間だった。


***


 店の一角にある、普段は閉めたままにしているテラスの戸を開け放つ。途端に流れ込んでくる冬の凛とした空気が、じんわりと身体を冷やして行く。


 そこに二人は腰かけ、空を見上げた。夜空が一層澄んだように見えるのは、この寒さのおかげである。


(否、本当はそれだけじゃないんだろうな)


 正宗はそれを仰ぎ、思わず口元に笑みをこぼした。

 祐一郎の死後、ずっとひとりでこの空を見つめ続けてきた。脇役に徹して、いつかは「灰かぶり」になれる日が来ると信じて。それすらなれないのかと落胆したこともあったが、正宗はようやくひとつの答えを見つけた。


 結局は、自分で足掻いて、足掻き続けなければ、主役になれることなんかないのだ、と。足掻き続ければ、その姿を誰かが見ていてくれる。だから無駄なことなんか決してなかった。


(魔法使いになったことも、『必然』だった)


 必ず、物事には意味がある。

 こうして、靜と出会ったことも。すべてが、必要なことだったのだ。


「なあ、正宗」


 そのとき、靜がぽつりと呟いた。

 彼の手にはワイン・オープナーと、彼が持ちこんできた葡萄酒がある。コルクにそれを押し当て、ねじ込みながら真正面でぼんやりとしている正宗に声をかけてきた。


 そしてその声色は、確かめるようにいくらか強調されている。


「お前は、魔法使いなんだよな」


 正宗は頷いた。


「そうだよ」

「お前はいろんな人の願い事を聞いてきて、それを叶えてきた」

「大体合ってる」

「でもさ」


 きゅぽん、と絶妙なタイミングで、コルクが外れた。ふわりと漂うは、爽やか且つ芳醇な香り。正宗が好きな香りだ。靜もコルクを抜いた刹那、ほんの僅かだが頬が緩んだので、彼もおそらく嫌いではないはずだ。


 なに? と問いかけると、靜は小さく頷く。


「――お前の願い事は、誰が叶えるんだろうなぁ」


 心臓が跳ねた。

 それは、紛れもなく正宗が長年ぶち当たってきた悩みでもあった。自分は確かに魔法を使える、ただし、自分に魔法をかけることは先述の通り禁止されている。


 この問いは、「神はなぜ、どのように生まれてきたのか」という問いに似ている。どう考えても、そこには大きな矛盾が生じるのである。自分の内にある答えではない。だから外に答えを求めた。だが、答えなんかなかった。


 ああ、そうかと正宗は思う。だから苦しかったのだ。答えも終わりも見えない問いに踊らされて、ずっと彷徨い続けていた。


 その答えも、彼が知っているのだろうか。

 この出会いが互いに『必要なこと』であったと教えてくれたように。


「靜は、答えを知っているの?」


 愛用のワイングラスを靜へと向けると、彼は無表情のままグラスに葡萄酒を注ぎ込んだ。軽やかな水の音。

 薄氷色に照らされた靜は、「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。ただ一つ、

「俺は魔法使いじゃねぇから、完璧にはなれないぞ」

 とだけ言い放つ。それで充分だった。


「完璧なんか、求めていないよ」

 正宗が返す。「ただおれは、長いこと一人だったから。見届けてくれる誰かがいるっていうのは、随分気持ちが楽になるってもんだ。純粋に、嬉しい」

「そりゃあ、どうも」


 自分の分もグラスに注いで、残りは床へ置いた。さあ、これで準備は整った。靜も正宗も、互いに互いの瞳を重ね合わせ、ゆっくりと呼吸を整えている。


 この夜に、このひとに。

 信頼という契約を重ねて。


「乾杯」


 そして誓いの杯を。

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