第五章 とける ――長門正宗
とける (1)
これでさよなら、だ。
己が知る最高の魔法使いは、そう言い残してこの世を去った。
最初で最後で在りたかったこの言葉を、まさか再び耳にすることになるとは、このときの正宗は考えてもみなかった。
***
「これでさよなら、だ」
どろどろに溶けゆく景色の中、名残惜しそうに靜が呟いた。抱きしめた彼の両腕が離れていくと同時に、体温が解けて行くように霧散してゆく。
目を見開いたまま固まっている正宗は、背を向け去りゆく靜の背中を、ただずっと見つめていた。
空から降っているであろう白い雪が、靜の周りにだけしんしんと積もってゆく。肩に、頭に。徐々に白く塗りつぶされてゆく彼の姿が、――とうとう、見えなくなった。
(靜……)
声にならない声で呟くと、次の瞬間、正宗は再び同じ場所に立ちつくしていた。カフェ・サンドリヨンの店舗スペース。靜の目には溶け落ちたように見えたものが、正宗にとっては「いつも通り」に見えている。
正宗の定位置であるカウンター。いつも綺麗にしているけれど、満席にはなったことがないテーブル席。グラスをしまっている冷蔵庫に、靜が褒めてくれたサイフォン式のコーヒーメーカー。それから、この店の象徴でもある古い振り子時計。どれもこれも、悲しいほどにいつも通りだ。
本当は、あの背中を追いかけたかった。追いかけて、自分が怒鳴ってしまったことを謝って。それから、それから。
正宗は落ち着こうと嗚咽にも似た息を無理やり吐き出したが、落ち着くどころかその震える吐息に動揺してしまい、結局のところどうにもならなかった。
(分かっていたはずなのに)
いずれ靜が時間を破ってしまうことも。この店の秘密を知ることも。すべて分かっていて、覚悟していたはずなのに。
「どうして、こんなに辛いんだろうなぁ……」
ふと、正宗は足元に何かが落ちているのに気がついた。
黒い革でできた手袋である。拾い上げると、随分使い古されたそれは、なめらかな質感をもって正宗に温もりを伝えていく。靜が落として行ったものであるということは、すぐに察しがついた。
まるで、時間に追われて走り去るシンデレラのように。
「……ガラスの靴のつもりかよ」
このとき、正宗は心から自分という存在が嫌になってしまった。
店から一歩も出られない身体を持ち、ただひたすら他人のために魔法を使い続ける毎日。本来、魔法使いはそうあるべきであると分かっているけれど、だが、しかし。
正宗はもう気がついてしまっていた。
たった一カ月の出会いだったけれど、あの新井靜という男は自分の中でとても大切な人になっていた。ひたむきに自分の味を追求する姿。時折見せる凄まじいほどの気迫と集中力。彼は職人なのだ。そしてその職人から生み出されるものは、誰もが幸せになれる甘いお菓子で。
自分とは、違う人間なのだ。そう思い知らされた。
彼はこんな閉鎖された場所にいつまでもいていいわけがない。もっと外に、世界に出ていかなくてはならない人材なのだ。己のように、誰にも気づかれることなく影のように暮らしてはいけないのだ。
そういう意味で、正宗は「灰かぶり」だった。
決して華やかな舞踏会が似合うような人間じゃない。あくまで脇役。そして、シンデレラのように誰かが助けにきてくれるわけではない。王子よろしく誰かが探しに来てくれるはずもない。求めてもいない。
だから永久に「灰かぶり」でいい。それがちょうどいいと、思っていたのに。
「どうして……」
刹那、彼の頭には、たったひとつの疑念がよぎっていた。
誰が、どうして、おれを『魔法使い』に仕立て上げたのか?
***
カフェ・サンドリヨンの奥には、正宗のために確保された住居スペースがある。外に出られない正宗のために、最低限のものは常に揃えられている。元々は前任者が使用していた場所なので、部屋そのものは彼が使っていた当時のものをそのまま使用している、という訳だ。
正宗はその中の一つ――書斎の戸を開けた。同時に押し寄せる古書独特の匂いに、不思議と懐かしさすら覚えてしまう。
正宗の前任者は、彼が知る中で最高の魔法使いだった。元々は和菓子の職人だったらしいが、戦後は洋菓子の勉強もし、現在のカフェ・サンドリヨンの前衛を作った。その勤勉さ故に修行時代の評価も高く、正宗はそんな彼のことをとても尊敬していた。
前任者――
(しばらく掃除していなかったから、やっぱり埃っぽいなぁ)
適当に本を取り出し開いてみると、アラビア語で何か書かれていた。読めないな、と思い文字を指先でなぞると、驚くべきことに、それはみるみるうちに英語へと変換されてゆく。これが、前任者が正宗に残した最も偉大な魔法である。
変換された部分を再びなぞり、元の状態に戻してから棚に戻す。
祐一郎が正宗に店を譲ったのは、今から遡ること四十年前。正宗が成人するほんの少しだけ前――祐一郎のもとでまだ見習いをやっていた頃の話だ。
この店、カフェ・サンドリヨンは、世界にほんの少しだけ残る『魔法』をかき集めてできている。昔はもっとたくさんの『魔法』があり、それに準ずるように『魔法使い』と呼ばれる人物も大勢いたそうだ。だが、それも産業革命以降徐々に衰退していき、現在に至る。
前任者曰く、彼も自分以外の魔法使いに出会ったことはないと言っていたし、正宗も正直祐一郎以外に魔法使いらしい魔法使いに出会ったことなどない。強いて言うなら、食材などを搬入してくれる業者がそれにあたるのだろうが――年に数回、それも影しか見たことがないので、敢えてカウントしていないのである。
さて、その魔法の正式な管理団体はイギリスにあり、彼らから依頼されて作られたのがこのカフェである。
ほんの少しだけ残った魔法を、どうか人々のために使おうではないか。
そんな理念のもと人々と魔法使いの懸け橋として誕生した店は、数代にわたりひっそりと運営されてきた。自分一人ではどうしても解決できない願い事、あるいは踏みとどまってしまった重いに対しちょっとだけ背中を押してあげること。それが魔法使いに課せられた最大の仕事である。
――だから、何でも手を出せばいいってものじゃない。どうあるべきかは、結局本人にしか分からないことなのだから。
幼い頃、祐一郎がそう言っていたことを思い出す。
その時は、「なんて頼りないんだろうな」と正宗は思っていたが、今ならばその言葉の意味が理解できる。魔法使いの立ち位置は、あくまで脇役。決して主役になることなどない。舞台に立つ主人公を引きたてるだけの、それだけの役回りだ。
時代がどんなに流れようとも、その考えが揺らぐことはない。
それでも、と正宗が書斎の隅に置かれているサイドボードの上にある写真に手を取った。
フレームにはうっすらと埃がたまっており、写真もはっきりと見ることはできない。指先で擦り取ると、そこには三十代半ばほどの男性と、それよりももう少し若い女性が笑顔で写っていた。
(おれも叔父さんのように、一番大事なものを諦めなくてもいいのだろうか)
そして、一番大事なものを諦めなかったが故の、祐一郎の末路も知っている。
正宗が出先から戻って来たとき、すでに祐一郎はこの場所で息を引き取っていた。否、それが本当に祐一郎だったかどうかは、彼にとって解りかねるところだったが。
その光景を思い出し、思わず顔をしかめながら正宗は写真立てを伏せて置いた。
今なら、『禁忌』を犯した祐一郎の気持ちがよく分かる。そのために、自分が灰となり朽ち落ちてしまおうとも。
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