うつる (2)

***


 ――色が、ない。


 お茶は大変おいしかった。いつもならこれにお菓子がつくのだそうだが、あいにく専属パティシエが不在だそうで、代わりにレモン味のキャンディをもらった。市販品だから魔法の効力はないだろうが、と正宗が申し訳なさそうに言っていたのを思い出す。


 それを口に放り込みながら、真理はカフェから出た。

 その瞬間、眼が眩むほどに眩しい光が彼女を照らし、思わず堅く目を閉じる。


 そして、おそるおそる目を開けたところで――冒頭へ戻る。


 目を開けた彼女が見た世界は、「いつもの風景」でありながら「いつもの風景」ではない場所だった。確かに、店に入る前とさほど変わらない風景ではある。ただし、『色がない』という点を除いて。


 まるでモノクロキネマの中に放り込まれたように、見事なまでの白と黒の世界。たしか向かいの建物はクリーム色の外壁だったと思うのだが、今見たらただの白い壁でしかない。空を見上げても、いつものきりりとした蒼ではなく、ぼんやりとくすんだ灰色の中に白い雲がぽっかりと浮かんでいるだけ。愛用のワインレッドの鞄も、ピンクゴールドの腕時計も、なにもかも全て灰色だ。


 呆然としたまま、真理は思わずその場に立ちつくしてしまった。


(これがまさか……、)


「魔法だって言うの……?」


 しまった、外れを引いてしまった。


 確か自称・魔法使いの正宗ですら、「どんな魔法がかかっているのかは見当がつかない」と言っていたが、まさかモノクロの世界にぶち込まれるとは思っていなかった。おそらく魔法をかけた張本人である正宗もそうだろう。


 ふと自分の身体も見つめ直し、……衣服はおろか肌の色まで完璧なモノクロに変化していることを知ると、真理はがっくりと肩を落とした。


 私は確かに、あの本の落書きを書いた人に会いたいと願ったはずだ。それなのに、これはなんだ。一体どうしろと言うのだ。ただ目に異常を来しているだけではないか!


「クーリング・オフってできるのかな……」


 とりあえず、誰かに電話してみよう。そうだ、いっそのこと今から眼科にでも行った方がいいかもしれない。それならば、一度電話で確認を取った方がいいだろう。いきなり色が分からなくなりました、なんて行ったら、さすがの眼科医も混乱してしまうかもしれない。

 そうと決まれば、電話だ。真理は鞄を探り、携帯電話を取りだそうとした。


「おっ、あったあった……うん?」


 乱れた鞄の中から己の携帯電話を取りだすと、同時にばさりと何かが足元に落ちた。


 先程の本である。赤い表紙に緑のタイトルが描かれている、独特の配色。カバーをかけずに持ち歩いていたから、ちょっとだけ痛めてしまったかもしれない……。そこまで考えて、


(あれ?)


 真理は異変に気が付いた。


 ――どうして、この本はなんだろう?


 急いで拾い上げ、表紙についてしまった汚れを叩く。そしてまじまじと、表紙を見つめた。

 表紙の赤・タイトルと著者名の緑。うん、認識できる。これは間違いなく、赤と緑。それから顔を上げ、辺りを見回す。一面白黒だ。コンクリートでできた塀も、翠であるはずの並木道も、全部全部、白黒。もう一度表紙を見た。赤と、緑。


 念のため中もぱらぱらとめくってみる。本文も、ややくすんだ色の紙に、黒い文字の印刷。もちろん最後の頁には、例の落書きが書かれている。


『Aequam memento rebus in arduis servare mentem.』


(もしかして……)


 仮説でしかないけれど、少なくとも今の状態のままぼうっとして過ごすよりははるかにいい。眼科は、明日でいいや。もしも病気だったとして、これだけ状態が悪化しているのならいつ行ったってさほど変わるまい。

 などと、やや意味不明なことを考えた結果、真理は文庫本をぱたんと閉じた。


(冷静になるのよ、森永真理!)


 彼女はそして歩き出した。目指す先は、この本を手に入れた古書店である。

 この本だけ色がついているのなら――もしかしたら、探している『彼』もまた、私にはフルカラーで見えるのかもしれない。そう、思ったのだった。


***


 彼女がその古書店を訪れるのは、随分久しぶりだった。普通の本屋には置いていないような文献が沢山揃っているので、学生時代は重宝していたのだが、就職してからはめっきり足が遠のいてしまった。


 幸い、古書店は潰れることなく、今も変わらずにそこに在った。狭い店内に詰め込まれた無数の本達。古書独特の湿っぽい匂いが鼻をつき、その度に真理は懐かしさで胸がいっぱいになる。


 ふと時間が気になり、時計を見た。――午後二十時。この古書店は、個人経営では珍しく二十一時まで空いているのもまたいいところなのである。


「御免下さい」


 一応声をかけてみると、奥から白髪頭の老人がのそのそと出てきた。


 彼はこの古書店の店主・利一りいちだ。ちなみに、真理は彼の下の名前しか知らない。ここの古書店の常連さんが「利一さん」と読んでいるのを聞いて、なんとなく覚えてしまっただけなのだ。


 そんな彼は、真理の姿を見るなり、


「おお、もしかして真理ちゃんかな」

 利一は掛けていた銀縁の眼鏡を上げ、嬉しそうに声を上げていた。「こんなに美人さんになって」

「いやだ、利一さん。また子供扱いしちゃって」


 利一はモノクロの世界で穏やかに微笑んでいる。ということは、彼はこの本に関係している訳ではないのか。


 この本を覚えているだろうか、と内心思っていると、利一は「まあ座りなさいよ」と奥から座布団を持ってきて、縁側のようにつき出した部分にそれを敷いた。久しぶりに会ったので、色々と話したいことがあるのだろう。真理も正直なところ、利一にあれこれ話したいことはあった。なにせ、本当に久しぶりなのだ。祖父が早くに他界してしまった真理にとって、彼が本当の祖父のような気がしていた。学生時代は友人に相談できないようなことを聞いてもらったり、何故か夕飯を御馳走になったりと、かつては深い交流があったのだ。


 しかし、だ。正宗に言われた時間制限を思い出し、そう長居していられないことに気がついた。世間話はまたあとで。


 しかしつっけんどんに「この本を覚えているか」などと聞くのはいかがなものだろう。さんざん考えた上で、真理は言われるがままに座布団に座ることにしたのだった。


「利一さん、お元気そうでなによりです」

「いいや。もう歳だからねぇ……足腰が辛くて」


 そう言って彼はほにゃんとした柔らかい笑みを浮かべる。この癒し系笑顔がまた、真理の好きなもののひとつなのだ。この表情を見れば、どんなに辛いことが合っても乗り越えられた。今もそうだ。この表情を見ていたら、現在のモノクロ現象だってどうにかなるような気がする。


「ところで真理ちゃん。何か困ったことがあったのかい?」


 え? と真理は目を瞠った。驚いたまま何も言えずにいると、利一は「だって」とその一言に付け加える。


「真理ちゃんがそういう顔してやってくるときは、何か悩み事を抱えてやってきている時だからね」


(ああ、この人は)


 隠しごとをしても分かってしまうのか。そういえば昔からそうだったかもしれないな、と真理は微笑んだ。

 真理はそっと己の鞄から例の本を取り出し、それを利一に見せてみた。


「利一さん。この本、覚えていますか?」

「どれ」


 それを受け取り、利一はふむ、とくまなく見まわし始めた。そしてぱらぱらとめくり、じっと観察する。そして最後に落書きまで見ると、静かに本を閉じた。


「うぅん。私が買い取った本ではない感じだなぁ」


 彼が言ったのは、そんなとんでもない一言だった。


(そんなはずない)


 この本は確かにこの店で買ったのだ。それなのに利一が買い取った本ではないということは、一体どういう意味なのか?


「でも私、確かに――」

「もしかしたら敦貴が買い取ったのかな。ちょっと待っていなさい」


 そう言うと利一は立ち上がり、店の奥――住居スペースの方へ戻って行ってしまった。

 一人取り残され、ぽかんとしてしまったのは真理である。なんだかよく分からないことになってしまった。それに……、


「アツキって、誰」


 なんだか聞き覚えのある名前が出てきたんですけど。

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