ふれる (4)
***
その日は結局、あまり時間がかからないものということで簡単なベイクド・チーズケーキを作った。フランボワーズは
それを見て、正宗は「うわぁ」と楽しそうに声を上げていた。
「すごい、きれい。靜は魔法使いなの?」
「なにその、小学生的発想は。つーか、本当に俺のこと知らない? こういう業界にいても?」
経験上、カフェに入ると大抵店主直々に挨拶に来るのだが。彼の様子からすると、本当に自分のことを一切知らないように思えるのだが。
しかしながら、正宗はきょとんとして、
「お兄さんもしかして芸能人? ごめん、うちにテレビはないからさ」
的外れなことを言い始めた。ああ、やはり知らないのか。それならそれで、やりやすい。こんなところで何をしているんだ、と怒られることもない、少なくとも前の職場の人間に会うことはないだろう。
「ああ、じゃあいいや。知らない方がいい。きっといい」
後々面倒なことにならなくて済むから。
食べていい? とわくわくした顔で尋ねられたので、奥から発掘しておいた金のフォークを添えて渡した。ついでに自分の分も、ととりわけ、一口。いつもより適当に作ったせいか、若干舌に粗さが残るが、根本的な味に問題はなさそうだ。
盛り付けも検討せねば、と半ば職業病のようなことを考えていると、
「うわっ、おいしい」
一口食べるなり、なんだこれと言わんばかりの表情で正宗が訴える。「甘いのにべたべたしない。あぁ、コーヒー飲みたくなってきた」
淹れてこいよ、と靜が薦めると、彼は頷き、一旦皿を置いた。そして厨房を出ていく。
――ふと時計を見ると、時刻は午後十時を回ったところだった。
(そうか、もうこんな時間か)
さすがに長居しては彼も迷惑だろう。最低限の後片付けをして、今日はもう退散するとしよう。
それにしても、と靜は思う。
こんなにいい店があるなんて知らなかった。どうして今まで気が付かなかったのだろう。もっと早くに知っていれば、引き抜くことだってできた。それだけこの店のコーヒーはおいしい。心をほっと和ませるような柔らかさと、時折ちらつくクールな酸味。それらが絶妙な配合でこちらの舌を楽しませてくれる。
本来、『おいしい』とはこういうものだ。俺も、こんな店を作りたかった。
そう思ったら、途端に胸が苦しくなった。
本当に、今の自分にはなにも残っていないのだと思い知らされた。唯一の特技も、発揮できる場所がなければ意味がない。いっそ独立してしまおうか、それとも。
「靜、コーヒー持ってきた」
「お、さんきゅ」
初対面とは思えないくらいに打ち解けてしまった正宗は、実に楽しそうに靜の横までやってきた。コーヒーを受け取ると、先程とはまた違う、酸味の強い香りがした。それを指摘すると、嬉しそうに正宗が笑う。
「違いが分かる男っていいねぇ」
ところで、と正宗は問う。「君、何か悩んでいるでしょう?」
どきりとした。一体なにを言い出すのかと靜は一瞬口ごもった。その様子に、正宗は至極真面目な表情で言い放った。
「ケーキの味が迷ってるから。おれ、そういうの分かるんだよね」
負けた、と靜は思う。まさか出会って間もない奴にそういう味を指摘されるとは思っていなかった。自分が未熟な証拠だ。
「……仕事をクビになった。ただ、それだけだ」
仕事を? と正宗が問う。
「俺、パティシエなんだよ。独立すればいいだろうが、まだ俺の菓子はその領域に達していないと思う。だからといってすぐに雇ってくれる場所もない。楽しい仕事だったけれど、いざ手放してみたら……俺の手には何も残っちゃいなかった、って。そう思っただけだ」
「それは違うと思う」
正宗がさっぱりとした口調で言い放った。「結局さ、それって逃げているだけだと思う。いや、今の靜には逃げることは必要なことだと思うのだけれど。ケーキを食べて思った。靜のケーキはね、痛いくらいにまっすぐなんだよ。少しは逃げて、回り道してからでも遅くないんじゃない?」
痛いくらいにまっすぐ。
そういう味なのか、と靜は初めて思う。そういう評価は今まで一度も受けたことがなかった。ただ、過去に一度だけ。初めて出場したグランプリで真面目すぎるという評価は貰ったことがある。それ以来ただの一度も言われたことがなかったので、もう既に克服したものだと思いこんでいた。
「……ねぇ、ここで働いてみない?」
正宗がぽつりと言った。「うちの店は特殊だから慣れるのにものすごく時間がかかると思うし、大変だと思うけど。靜が悩んでいることの答えは多分、あると思う。現におれは見つけられるんじゃないかっていう自信がある」
この男、なにかとんでもないことを言いだした。
度肝を抜かれてさすがの靜も口ごもってしまった。まさかいきなりスカウトされるとは思っていなかった。そんな度胸があるのか、と逆に感心してしまうくらいだ。まあ、彼が靜のことを知らないというのなら、それも当然だろうが。
ここで挑戦する価値は、きっとあると思う。このコーヒーにそれだけ惚れ込んでしまった。正宗が言うように、ここで働くことでなにかを得られればいい。
道に迷ってみるのも、いいか。
靜は、ゆっくりと首を縦に動かした。
「――働かせてくれないか」
***
靜がカフェ・サンドリヨンで働き始めてから一カ月が経つ。気が付いたら年も明け、寒さも徐々に緩んできた。
ここでひと月働いてみて、驚かされたことがいくつかある。
まずは、客が極端に少ないこと。週に一人か二人入ればいい方で、それも大半が女性客ばかりである。そして、正宗に悩み相談を持ちかけ、それに合わせてコーヒーを淹れている。不思議なことにお代は取らない。
靜の仕事は、そのコーヒーに合う菓子を「オーダーされてから」製作することだった。これはなかなか難しい。やってきた人物を見て好みを予想し、正宗が用意する飲み物と被らないように配慮する。そして何より、生菓子独特の「作り置きができない」ことが一番のネックだった。作りすぎるとロスが増えるし、逆だとオーダーが入ったときに困る。
そして、正宗に一番口酸っぱく言われていることが一つだけある。
「店の機材は好きに使っていいし、良識の範囲内で残って作業していてもいい。でも、夜の十二時までには帰ってくれ」
これだ。
さすが店の名がサンドリヨンだけある、と思い深く追求しなかったが、その理由だけは聞かせてくれなかった。
さて、この日もある程度の仕込みも終え、のんびりとカウンターテーブルを拭いているときだった。
「熱心だね」
正宗がワイングラスを磨いている。この店でワインを出すことは滅多にないのだが、彼はこの作業をとても気に入っているらしく、暇ができるとかなりの頻度で磨いている。
「今日はまだ来ないのな」
「お客さん? そうだね、今日はもう来ないかも」
この時間だしね、と正宗が店の奥に飾ってある古時計を仰いだ。時刻は午後七時を指している。
「いや、本当に不思議に思うけど、これで儲かってるのか? お前、代金すら受け取ってないだろ」
正宗はそうだね、と平然と言い切る。別に彼としては、そんなことはどうでもいいらしい。いつものように穏やかな口調で、
「それが仕事だからね。おれの」
と言い張るだけだ。
それでいてきちんと仕入れはするし、給料も支払われているのだから驚きだ。いったいどこからそんな金が……もしや、彼は実はどこかの国の御曹司なのだろうか、と靜は本気で考えてしまった。確かに、正宗の穏やかな物腰といい、甘い表情といい、絵本でよくある王子様のような外見ではあるのだけれど。
王子に雇われているのだとしたら、俺はなんだ。
と取りとめのないことを考えていると、突然正宗がワイングラスを置いた。そして、神妙な面持ちで唇を開く。
「ここだけの話。おれ、実は魔法使いなんだ」
まるで靜の思考を読んだかのような返答がなされた。「って言ったら、信じる?」
「へぇ、王子じゃないんだ?」
茶化す口調で言うと、正宗は至極真面目な表情でうんと首を縦に振る。
「靜はサンドリヨンの意味を知ってる?」
「シンデレラだろ」
そう、と正宗が頷く。
「シンデレラが舞踏会に行くために、名付け親である妖精の魔法で綺麗に変身する訳でしょ。つまりはそういうことだよ。おれは魔法使い、お客さんはシンデレラなの。お客さんに時間制限のある魔法をかけて、自分自身で外へ飛び出してもらいたいのさ」
「……うーん」
その説明は靜の理解の範疇をいとも容易く飛び越えていった。
正宗が言いたいのは、自分の提供する飲み物で人を幸せにしてやろうということなのだろうか。それなら何となく理解できるが、それと代金を貰わない理由は一致しない。今更だが、結構な不思議さんに出会ってしまったなあ、と思う所存である。
「となると、俺はネズミ? かぼちゃの馬車をひっぱる」
「靜は……そうだな」
正宗は困ったように肩を竦めた。「君は王子様、だろうね」
なにせかっこいいしね、と茶化す正宗の表情が一瞬陰ったことに、靜は一抹の不安のようなものを感じていた。
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