カスミ荘の(非)日常

村瀬香

入居編

第1話 新生活は波乱の予感


 ――拝啓、父さん、母さん。

 海外の暮らしはどうですか?

 父さんの海外転勤が決まって、母さんもついて行くって聞いたとき、どんな漫画的展開だよって思ったけど、よく考えれば現実でもあるよね。

 「日本に一人残すのは心配だから一緒に行こう」って言ってくれたのはすごく嬉しかった。でも、行きたくないって言った俺の我が儘を聞いてくれてありがとう。

 初めての一人暮らしだけど、日本に残ったことを後悔してないよ――


 ――つい数時間前までは、そう思っていた。


「おいコラ、引きこもりニートクソ大家! テメェ、また勝手に俺のとこの部屋番号に『管理人室』とかって意味分かんねぇ札つけやがったな!」

「やだなぁ。僕はニートじゃないし引きこもってもないよ。ちゃんと仕事してるし、部屋からも出てるじゃないか」

「俺がな!! 部屋から出てるってのも、アパート内にはいるだろうが!」

「あはは。そうだっけ?」


 ――前言撤回。波乱の日々が訪れる予感がして、今から挫けそうです。


 目の前で繰り広げられる成人男性二人による(一方的な)激しい口論に、少年、奈尾和泉なおいずみは内心で帰りたいと強く後悔した。

 父親が仕事で海外に転勤することになり、和泉も海外に行くかと聞かれたが、高校二年に上がるタイミングで海外に行くのも……とその他様々な理由から日本に残ることになった。

 そして、日本に残る条件として出されたのは、父親の知人の息子が大家をしているというアパートで暮らすということだ。

 今日、引っ越して来たばかりの和泉は、尚も収まらない二人の様子に頭痛を覚えた。


(俺、ここで暮らせるのかな……)



   □■□■□



 父親から指定された住まいは、『カスミ荘』という名前の三階建て、築七年のアパートだった。ただ、アパートと銘打ってはいるが、どちらかと言えば最近話題の「シェアハウス」に近い。

 各部屋に風呂・トイレは完備されているが、キッチンに関しては一階の共有ルームにあり、住人が好きに使っているとのことだ。

 スマホに表示した地図を頼りに商店街を西へと抜け、歩いておよそ十分。右手側に雑木林が立ち並ぶ中、一カ所だけ切り開かれた場所に舗装された道があった。そして、脇には「カスミ荘」という看板。


「……えっ。この奥?」


 まさか雑木林の先にあるのか。

 道の先はややカーブしているせいで木に隠れて見えない。だが、地図を見れば道もそう長くはないと分かる。

 奥にあるらしいカスミ荘は、どうやら雑木林によって隔離状態になっているアパートのようだ。道の途中途中に街灯はあるが、夜になると不気味だろうなと思った。

 よし、と小さく意気込んだ和泉は、カバンを持ち直して舗装された道に足を踏み出した。

 歩いて二、三分もしない内に道の終わりが見えてくる。そして、開けた土地に建つのは、目的地であるカスミ荘だ。

 白い外観は築七年とは思えない新しさを醸し出しており、雑木林に隔離されているとはいえ、見た目は至って普通のアパートだ。共有ルームがある関係なのか、やや大きめではあるが問題はない。


(良かった。周りがこんなだから心配だったけど、これなら普通そうだ)


 部屋は南向きのため、日当たりも抜群だろう。雑木林に囲まれているのも、良い意味で捉えれば「静かで暮らしやすい」だ。

 荷物などは数日前に運び終えている上、手続きを済ませた両親から部屋の鍵も預かっている。

 しかし、やはり新しく住む本人が挨拶をしておかなくては、と和泉は一階にあるという大家の部屋に向かった。

 建物の向かって左端にある入口を潜り、廊下を進んで右に曲がると、右手側の壁に扉が四つ並んでいた。ちなみに、反対は上の階へと続く階段があった。

 手前の扉には「共有ルーム」と書かれたプレートがついており、住人が集まっているのか中からは人の話し声も聞こえてくる。

 その奥には一〇三号室、そして一〇二号室と並んでいたが、一〇二号室と書かれたプレートの下にはご丁寧に『管理人室』という札がついていた。ガムテープで。


(初めてだからよく分からないけど、管理人室ってわざわざ掲示しておくんだ? それもガムテープで)


 そもそも、このアパートには大家がいるため、管理人室というのも違和感はある。

 さらに、管理人室らしい一〇二号室は隣の一〇三号室と同じく貸し出しの部屋の気がするのだが、これが普通なのだろうか。奥の扉は一〇一号室かと思ったが、何故か何も書かれていなかった。

 一般の住人が管理人を騙る必要性もないかと思い、和泉は疑問を軽く流すことにしてインターホンを押した。


「はいはーい。……どちらさん?」


 チェーンを掛けることすらせず、普通に扉を開いて現れたのは二十代後半の男性だ。

 綺麗に染め上げられた金髪にややつりがちな目つき、と見た目は怖い部類に入るだろう。しかし、見た目の印象に反して玄関は綺麗に整理されており、男性の後ろに見える

部屋も散らかっている様子はない。

 和泉は両親から「大家さんは見た目は近寄りがたいけど、根は優しいから大丈夫」と聞いていたため、怯みそうな自身を叱咤して口を開いた。


「あ、あの、今日から二〇二号室に引っ越してきました、奈尾和泉です。よろしくお願いします」

「おー。隆一りゅういちさんとこの。わざわざ挨拶回りとは律儀だな」


 先日の荷物の搬入の際に両親が話していたため、彼も疑うことなくすんなりと受け入れてくれた。

 彼は開けたままの扉に寄りかかりながら言葉を続ける。


「俺は東屋柊あずまやひいらぎ。見てのとおり、この部屋に住んでるから、何かあれば言ってこい」

「はい。ありがとうございます」


 慣れないことばかりで戸惑いも少なくない。頼りたい両親が遠くの国へと行ってしまった今、柊の言葉は何よりも心強かった。

 やや緊張の抜けた和泉を見て、柊は彼の両親との話を思い返しながら、一人暮らしが初めての和泉に訊ねる。


「必要書類とかは隆一さんから貰ってるから、特に手続きとかは必要ねーけど……なんか気になることとかあるか?」

「えっと……あ! 門限とかってあるんですか?」

「ここは寮か」


 まさかの質問に思わず突っ込みを入れてしまった。

 確かに、普通のアパートと違っているせいか、ホテルや寮に近いと言われたこともある。

 柊は基本的な注意事項は伝えておこうと、一度、扉を閉めてから和泉に向き直った。


「門限はない。が、早朝や夜中に騒ぐようなら注意すっから、そこだけだな。あと、ペットは禁止じゃないが、飼うなら一言言うこと」

「分かりました」

「一応、ルール的なもんをまとめたのがあるから、『大家』のとこ行くか」

「はい。お願いしま……ん?」


 あっさりと言った柊の言葉に流れで頷きかけたが、おかしな点に気づいて首を傾げる。

 隣の扉に向かっていた柊は、和泉の変化に足を止めた。


「どしたー?」

「『大家のとこ』?」

「おお」

「……え?」

「は?」


 柊の部屋につけられていたのは「管理人室」というものだ。もちろん、大家と管理人が違うのは分かる。

 ただ、大家から管理を任されているなら、わざわざルール云々のために大家の元に向かう必要はないはずだ。挨拶のためならばともかく。

 だが、柊は大家の所に行くことが当然のような雰囲気を出しており、何故、和泉が疑問を抱いたのか分かっていない。


「いや、東屋さんは管理人さんでは……?」

「俺は『大家』の……ガキの頃から知ってる、不本意ながら友人ではあるが、『管理人』じゃねーよ? あと、柊でいいぞ」

「嘘だぁ」

「年上に対してタメ口か」

「嘘ですよね?」


 不本意ながら、と嫌そうな顔で言う辺り、何度か縁を切ろうとしたことがあるのだろう。何故、友人を続けているのかと突っ込みたくなったが、それよりも先に彼が管理人であることを否定したことに声を上げてしまった。

 僅かに感じ取った柊の怒気から即座に言い直すも、彼はやはり管理人を否定した。


「嘘じゃねぇ。っつーか、いろいろ知ってて来たんじゃないのか?」

「知っててというか……」


 ちら、と部屋番号の下に貼られている札を見るも、柊の視界には入っていないようだ。

 柊は和泉の様子に小首を傾げつつ、再び前を向いた。


「まぁ、いいや。なら、大家のとこ行くぞー」

「あ、あの」

「まだなんかあんのか?」


 気づいていないならば教えたほうがいいだろう。

 柊を呼び止めれば、隣の部屋……何も部屋番号の書かれていない扉のドアノブに手をかけながら、こちらに向き直ってくれた。


「なら、この『管理人室』っていう札、外したほうがいいんじゃないですか……?」

「あ? んなモン付けてねーよ」

「これ、ですよね?」


 怪訝な顔をする柊に、和泉は札を指して示す。

 ドアから手を離した柊は、自身の部屋番号の下を見るために歩いてきた。

 そして、和泉が指す先を見て固まった。


「…………」

「…………」

「……………………」

「……………………あ、あの――」

「あんの……クソ大家がぁぁぁぁ!!」

「柊さーん!?」


 いきなり怒りを露わに叫んだかと思いきや、柊は札を引き剥がすと先ほど開けようとしていた部屋の扉へと駆けだした。そして、扉を壊さんばかりの勢いで開く。どうやら、鍵は掛けていないのが常のようだ。

 慌てて和泉も後を追えば、先に入っていた柊は玄関で中から出てきた男性の胸倉を掴んでいた。


「おいこら、引きこもりニートクソ大家! テメェ、また勝手に俺のとこの部屋番号に『管理人室』とかって意味分かんねぇ札つけやがったな!」


 胸倉を掴まれた男性は、顔は長めの前髪でよく見えないが、眼鏡のフレームが見え隠れしている。柊が「友人」であると言っていたことから考えて、恐らく、彼と同い年だろう。

 柊より細い男性は、今にも折れてしまいそうな儚さがあり、後ろで止めることもできず見ていた和泉は気が気でなかった。

 激しく前後に揺さぶられていた彼は、慣れた様子で柊の片手をそっと掴むとやたらと暢気な声で言う。


「やだなぁ。僕はニートじゃないし引きこもってもないよ。ちゃんと仕事してるし、部屋からも出てるじゃないか」

「俺がな!! 部屋から出てるってのも、アパート内にはいるだろうが!」

「あはは。そうだっけ?」


 漸く柊の手が男性の胸倉から離され、彼はよれた服を軽く手で直しつつ、口元には笑みを浮かべたままで柊の後ろにいる和泉に視線を止めた。


「あ。君が隆一さんのご子息だね。初めまして、僕は西宮柾にしのみやまさき。一応、ここの大家だよ」

「初めまして、奈尾和泉です。えっと、大丈夫ですか?」


 柊から少し横にずれて自己紹介をする男性――大家の柾に、和泉も同じように返しつつも不安を口にする。

 相変わらず目は見えないが、口元にへらへらと笑みを浮かべる彼は、長い袖に半分ほど隠れた手を振って軽い調子で答えた。


「柊はいつも僕に対して塩対応だから大丈夫だよ」

「いや、それもそうなんですけど……大家さん?」

「はーい。大家です」


 柊の対応についてはともかく、イメージしていた大家とまったく違う上に、柊が言っている内容から察するに職務放棄している。柊が管理人を受け入れていれば別だったが。

 しかし、柾は気にした様子もなく片手を小さく挙げた。

 両親が言っていた「大家さんは見た目は近寄りがたいけど、根は優しいから大丈夫」は、柾の「顔が見えない根暗そうな外見」を示していたのか、とようやく合点がいった。 

 和泉は柾から柊へと視線を移し、真顔で訊ねる。


「大丈夫ですか?」

「だいじょばねーよ」

「あはは。面白い言い方ー」

「本体割るぞ」

「やめて! 僕の未来が真っ暗になる!」

「元々真っ暗だろうが!」

(不安)


 眼鏡を奪おうとした柊の手から、柾はさっと眼鏡を押さえつつ避けた。その俊敏さを先ほど、胸倉を掴まれるときに発揮できなかったのかと問いたい。

 ぎゃあぎゃあと騒いでいた二人だったが、やがて収拾がつかないと判断した柊が殴って黙らせた。


「まったく。二度とつけるんじゃねーぞ」

「うう……ちゃんとお給料出してるのに」

「やったから貰ってるだけで、やることに納得はしてねーからな!」


 玄関でうずくまる柾を見下ろしつつ言えば、彼はまだ反論してきた。

 すると、柾は和泉に手招きをして自らの近くでしゃがませると、内緒話のように……しかし、柊にも聞こえる声量で言う。


「突き返せばいいと思わない? 何だかんだでやってくれるから甘えるんだよねー」

「は、はぁ……」

「テメェ、『責任転嫁』って知ってるか?」

「痛ーい」


 がしっと余計なことを言う柾の頭を柊が片手で鷲掴む。

 本当に痛いのか定かではないが、柾は柊の手を離させると立ち上がって和泉に向き直った。


「ところで、僕の所に来たってことは、カスミ荘のルールについてかな?」

「おう。そんくらいは話してやれ」

「僕、こう見えて人見知り……ああ、何でもないよ。じゃあ、二人とも上がって。正面左手側の部屋に入っててね」


 柾の部屋には二部屋あった。玄関入ってすぐはリビングのようになっており、正面に扉が二つと左手側にも扉が一つある。

 柊に続いて上がった和泉は、そのまま彼の後について行く。左手側にあった扉の先は脱衣所で、トイレや風呂場もあるとのことだ。

 指定された部屋に入ると、あまり家具のない洋室だった。部屋の中央辺りにソファーとローテーブルが置かれており、壁際にはクローゼットの扉がある程度だ。


(あんまり物がない……?)

「ここ、主に客間だからな。俺もこいつも一人暮らしだが、二部屋のとこ使ってるのは荷物とか来客の関係だよ」

「えっ。俺、口に出してました?」

「顔に出てた」


 反射的に口を押さえた和泉だが、顔に出ていたとは思わなかった。そもそも、口に出ていたなら押さえても意味はないのだが。

 まるで自身の部屋のように、柊はソファーに座って寛いでいる。

 和泉はどうすべきか分からずに入口近くで立っていると、隣の部屋から出てきた柾に不思議そうな声を掛けられた。


「和泉君、そんなとこに立ってどうかした? あ、柊と密室は怖いか」

「ああ?」

「い、いえ! 座ってもいいものかと……」


 部屋に入ってて、とは言われたものの、初対面の人間が先に座っていてもいいのか。また、座っているとしてもどこに座ればいいのかと悩んでしまった。

 柾の余計な一言でガンを飛ばした柊に怯みつつも理由を話せば、柾はどこか感動した様子で声を上げた。


「うわぁ、良い子だねぇ。ほら、見てよあの不良管理人。すっかり我が家だよ」

「誰が管理人だコラ」

(不良は認めるんだ……)


 柾が入口から中で座っている柊を指せば、またもや鋭い睨みと言葉が飛んできた。

 不良については否定されず、柾も特に何か言わない辺り、昔は相応のやんちゃをしていたのだろう。


「ほら、座って座って。ここに住む皆、遠慮なしにここで寛ぐから大丈夫だよ」

「大家さんの立場って……」

「んー……底辺かな」

「頑張ってくださいよ!」

「いやぁ、皆、個性強いから」


 反発する様子のない柾に不安を覚えた。

 柊は柊で、「このモヤシにそんな力はねーよ。今は」と、何故か語尾に気になる言葉を付け足しつつも諦めの姿勢だ。

 和泉は柊の正面に座ると、柾は柊の隣に座って和泉の前に一枚の紙を置いた。


「これが、最新版の『カスミ荘ルール』だよ」

「ありがとうございます」


 紙にはアパートの見取り図も書かれており、一階から三階まで把握できるようになっている。

 一階には柊と柾の部屋以外にもう一つ住人の部屋があり、その隣が共有ルームだ。二階、三階は似た造りで、それぞれ五部屋ずつと「談話室」と書かれた部屋がある。談話室には自動販売機の他、簡易的なキッチンもあり、共有ルームまで降りるのが面倒なときはそこを使ってもいい。

 そして、本題はその下にある『ルール』だ。


一.冷蔵庫に物を入れる際は名前を書くこと。

二.月一回の親睦会にはなるべく出席すること。

三.住人の秘密を知った場合、周りに言いふらさないこと。

四.自分の身は自分で守ること(ただし、外敵の場合は除く)。

五.夜逃げはしないこと。


「…………」


 一通り目を通した和泉は、見間違いかと目を擦る。紙を手に取り、近づけて見るも、やはり内容は変わらない。


「あの……」

「うん?」

「最初の三つは分かりますが、この『自分の身は自分で守る』と『夜逃げ』って……」


 キッチンは共有ルームにあるため、必然として冷蔵庫も共有ルームに存在している。共有ならば自分の物を証明するためにも記名が必須なのは分かる。また、親睦会についても理解はできる。秘密云々も、常識的に考えればそう易々とは口にはできないものだ。

 ただ、敵やら夜逃げやら不穏な言葉については、何故、わざわざルールに書かれているのか確認しておきたい。

 すると、柾は和泉の示した項目を見ると何でもないかのようにあっさりと言った。


「ああ、それね。最近追加したんだよ。お正月に夜逃げした人がいてね」

「いや、追加した時期じゃなくってですね」

「一言言ってくれればいいんだよ?」

「そういう問題でもない気が……」


 その人自身で借金やら犯罪的な何かをしたならばともかく、夜逃げをするほどのことがこのアパートで起きたのか。

 どこに問題があるのかと言わんばかりにきょとんとする柾に、もはやどこから突っ込んでいいのか分からなくなってきた。

 すると、柊が柾の言葉を補足した。


「『親しき仲にも礼儀あり』ってやつだよ」

「それってそんな使い方でしたっけ?」

「あはは。君がそれ言うんだ?」

「お前にだけは突っ込まれたくねーよ!」


 柾の家で寛ぎすぎる柊も柊だが、柾は柾で仕事を柊に押しつけている。給料は払っているとしてもだ。

 不安が大きすぎて、逆に不安への感覚が鈍りそうだった。

 紙に再び視線を落として渋面を作る和泉に、柾は優しい口調で言う。


「大丈夫。ここの住人は、根は良い人ばっかりだから、何かあればいつでも周りを頼って良いからね?」

「柾さん……」


 柊に仕事を押しつける無責任な人なのかと思いきや、意外と面倒見は良いのかもしれない。

 見直しかけた和泉だったが、それは彼の次の一言によって思い留まることになった。


「柊とかにね」

「言うと思った!」

「いった! 暴力反対!」


 即座に柊が柾の横腹に拳を叩き込んだ。

 軽くではあるが、痛いものは痛い。抗議の声を上げる柾に対し、柊はまたもや胸倉を掴んで額に自身の額をぶつけた。

 鈍い音がしたと同時に、和泉は思わず目を閉じてしまった。


「い、石頭……。割れたかと思った」

「割れてろ。そしたら中身変えるの楽だろ」


 ぶつけられた額を押さえ、上体を折って痛みに悶える柾だが、柊は痛くないのか平然としている。

 口を挟める空気でもなく、和泉は正面で繰り広げられる二人のやり取りを見ているしかできない。


「そんなことしたら、僕が僕じゃなくなるよ?」

「仕事する大家なら大歓迎だ」

「そう言ってられるのも今のうちだからね。世話をする相手がいなくて寂しくな、った!?」


 またもや和泉の拳が脳天に落とされる。

 ローテーブルに突っ伏した柾は静かになった。

 柾を放置する姿勢で、柊は和泉に向き直って言う。


「和泉。今いる住人と顔合わせしとくぞ。ばったり遭遇すると面倒なのいるしな」

「俺、どこから突っ込めばいいですかね?」


 慣れている柊と違って、和泉は突っ込みをするべきところがありすぎて、どこから手をつければいいのかと困惑した。

 柊は深い溜め息を吐くと、頭を乱雑に掻きながら口を開く。


「あー、これはいつものことだから気にすんな。どうせすぐ元に戻るしな」

「は、はぁ……」

「ここでの用は済んだし、さっさと行くぞ。えっと、『あいつら』は部屋にいるか……?」


 さっさと部屋をあとにした柊に置いて行かれまいと、和泉もソファーを立った。そして、部屋を出る前にローテーブルに突っ伏したままの柾に声を掛ける。


「あ、あの、失礼します、ね……?」

「うん。またあとでね」

(復活早っ!)


 何事もなかったかのようにローテーブルから起き上がった柾は、口元に笑みを浮かべてひらひらと手を振った。

 内心で突っ込みつつ、和泉は柾に頭を下げてから部屋をあとにした。

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