第33話 無邪気な問いかけ
録画を見ているうちに、集一の表情がたまに厳しくなるのを見て、綺音はどきどきしてきた。
──なにか、粗相をしてたっけ?
演奏のミスだろうか。
それとも、姿勢のことだろうか。
「……転校生って、男の子だったのか」
見終わって、眉間にしわを寄せて、集一が呟いた。
「そうよ。蔵持 晶人くんっていうの」
苦々しい声が続く。
「……これは、ここで練習したのか」
「うん。ピアノ室で」
むっつり、といった表情の父に、綺音は少しビクつきながら答える。
何がお気に召さなかったのだろう。
結架が忍び笑いを もらしながら、
「綺音も、もう、中学二年生よ。ボーイフレンドくらい、連れてきますわ。それに、男の子なら、奏くんもそうではありませんの」
「奏くんは幼馴染みだからね」
難しい顔で集一が答える。
「……パーパ?」
「うん?」
「晶人くん、連れてきちゃ、ダメだった……?」
しょぼん、と、音が鳴りそうな綺音の様子に、集一は慌てて言った。
「いや、そんなことはないさ、綺音。友だちが多いのは、よいことだ。音楽をともに分かち合えるなら、なおよい」
その言葉に、綺音の表情がぱっと華やぐ。
「そっか。そうだよね、パーパ! わたしの友だち、みんな音楽が大好きなの。知識や技術はなくても、心は音楽を求めてる。皆がそうなんて、凄いことだよね」
「そうだね。音楽を求めるのに、知識や技術は必ずしも必要ではない。歌が好きなら、たくさん歌う。それが習練になる。そうすれば、自ずと上達するものだ。耳も自然と肥えるだろう」
「うん!」
集一が綺音の頭を撫でる。その手を嬉しそうに、綺音は受け入れた。彼女がこれを許すのは、父親にだけだ。それが、集一には喜ばしい。
──そうだ。まだ、男女交際なんて、早すぎる。
集一は心の底からそう思った。
結架と出逢ったのは、いまの綺音と同じくらいの年のときだ。しかし、交流は短かった。突然に逢うことも途絶え、大人になって自分の力で共演を果たすまで、ずっと、無自覚ながらも、ただ耐えた。
けれど、解ってもいる。
こんなに早くから、たったひとりに魅せられることもあるのだということを。
身をもって知っている。
こんなにも長く、たったひとりだけを求めつづけることもあるのだということを。
綺音は、そんな自分の娘だ。
血を、ひいているのかもしれない。
「……ねえ、パーパ」
綺音が大きな目を向けてくるのに、集一はどきりとした。
その表情は、結架にも似ている。顔立ちは自分と似ているのに、時折見せる表情は、母親のそれだった。
「なんだい」
「マンマと出逢ったのって、綺音くらいの年の頃だったんでしょう? すぐに好きになったの?」
瞬間。
集一は噎せた。
「あら、大変」
結架がカップを集一に手渡す。美弦が紅茶を咽喉に流しこむ彼の背中をさすった。
「……ああ、ありがとう、ふたりとも」
集一の咽喉は、すぐに快復した。
「パーパ」
落ちついた声で、集一は応える。
「……まだまだ、綺音には早いと思ってきたけれどな」
「もう、立派なレディよ、集一」
結架が首を傾けて、微笑んだ。
「そうだな」
集一が、カップをソーサーの上に置く。
「……美弦には、退屈じゃないか?」
すると、結架そっくりの瞳が集一を見上げた。
「全然。僕も、聞いてみたいと思ってたもの」
集一は小さく笑った。
「そうか」
目を閉じて、過去に心を飛ばす。
音楽に浸る生活に胸を躍らせていた、あのころ。
ようやく叶えられた、入りたかった世界に足を踏み入れて、幸せをかみしめていた。
結架に出逢ったのは、そんなときだった。
「……きみたちのお祖父さんというひとは、本当に独断的でね。おまけに頑固だ。僕はどれだけ進みたい道を邪魔されてきたことか。まあ、僕も頑固だから、負けはしなかったが」
その話は、過去に1、2度、聞いている。
自分たちに甘い祖父が、父には厳しかったのかと、綺音も美弦も、とても驚いたものだ。
「あの、ヴェネツィア行きは、奇跡のようなものだった。まわりの皆が説得してくれてね。一度、音楽の世界の厳しさを体験させてみればいいと。彼は、芽が出ない方に賭けたんだろう。なんとか許されて、音楽院に入学した。ただし、特別クラスに期間限定で」
そして、集一は結架と出逢った。
それは、とても幸福な偶然だった。
レッスンを終えた集一が音楽院内を歩いていたところ、結架の歌声が耳に入り、足を止めたのだ。そして、それを結架の師が見つけてくれた。
「……スカルパ教授は、行き届いた教師だった。学術的にも、精神的にも、僕らを導いてくれた」
歌いながらチェンバロを弾く結架の歌に声を重ねることで、集一はその存在を、音楽を、彼女に刻んでいった。
そして、その二重唱で、響き合わせることの歓びと苦難を知ったのだ。
「──でも、逢えなくなったんでしょう?」
「どうして? マンマに振られたの?」
子どもたちの質問に、集一は苦笑する。
「そうだね。結架の音楽に、一度は振られたのかもしれない」
結架は黙って集一の話すのを聞いている。
綺音は結架を見た。
「マンマ、本当?」
結架は、痛みをこらえるように微笑んだ。
「わたしには、そんなつもりはなかったのだけれどね。でも、結果的には、そうなってしまったわ」
「どういうこと?」
「集一の音楽にとって、わたしは妨げとなる。そう思ったの。だから、遠ざけたわ。護りたかったのよ、誰からも、何からも」
「どうして? 恋が音楽の邪魔になるの?」
「……あのときの僕らにはね」
釈然としない綺音だったが、両親はそれ以上、説明しなかった。
「そうして大人になるまで、僕らは離れ離れになった」
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